高田義裕の人生論

今日の箴言

謙遜であるという事はどういう事であろうか。それは自分の足で徒歩で歩くという事である。それに対して高慢であるという事はどういう事であろうか。それは自分の足で徒歩で歩かないという事である。例えれば、それは自動車に乗って移動する様なものである。自動車に乗っている人から見れば、外の景色は次から次へと移り変わり、あっという間に通り過ぎる。彼にとって周りの景色は自分の目的地のほんの通過点に過ぎない。これと同じで、高慢な人は人間関係も次から次へと移り変わる景色の様にしか映らない。そう、周りの人間を自分の野望を満たす為のほんの通過点としか見なさないのである。要するに高慢な人は、自分だけの速いペースの世界しか知らないし、知ろうともしない。それに対し、謙遜な人は自分の足でゆっくりと自分の目的地まで歩く。彼にとって周りの景色は非常にゆったりとしていて、たっぷりと時間をかけてそれらを注意深く観察し、楽しみながら歩く。これと同じで、謙遜な人は人間関係も周りの景色と同様にたっぷりと時間をかけてお互いの事を注意深く考えて、互いに楽しみ合いながら、自分のペースで無く、相手のペースに合わせて知ろうとするし、知っている。それによって高慢な人の様に周りの状況が見えていないのと逆に、周りの状況がよく見えているし理解できている。要するに、高慢な人は自分の事にしか頭が無いが、謙遜な人は周りを隅々まで見渡す事によって、いろんな情報が自分の所に入ってくるようになるのである。その情報の中には非常に価値のある、誰もまだ知らないアドバンテージの高いものもある。すなわち、それを知っている事によって他の人よりも一歩先んじる事が出来、有利な立場に立つ事が出来るのである。よって足早に過ぎて行った高慢な人はその情報にありつけずに、損をする事になる。これは短い時間においては僅かな差かもしれないが、人生という長いスパンで考えると、そら恐ろしい差となって現れる。まさに人の生死を分けるほどまでの差となってその人の人生の勝敗を分けるものとなるのである。よって高慢な人は自らを窮地に追い込み、その窮地が自らが招いた事すら知る由も無く、人生をはかなく終える事になり、結局は、謙遜な者しか大切な事を発見出来ないようになっているのである。よっていつでも謙遜な者だけが最終的に成功するのである。

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