高田義裕の人生論

今日の格言

世界の縮図

ある男がいた。彼は非常に貧しく、家も無くジャングルで暮らしていた。彼の日常生活は厳しく毎日獲物を捕ってはなんとか食いつないでいた。その様な厳しい生活を何年も続けてきたために、彼には他の人間には無い、自然の営みの変化を直感で分かる能力が身に付いていた。そしてある日彼の頭の中に瞬時にきらめいた直感があった。気候の僅かな変化を捉えたのである。それは激しい洪水が1ヶ月後に起きる事を示唆するものであった。そこで彼はすぐさま木を切り、洪水に備えるため、船を作り始めた。するといつも男から獲物を買うためにやって来る富んだ人々が何をやっているんだ、と聞いた。すると男はもうすぐ洪水が起こる事を人々に告げ、すぐに高台に避難できるよう準備すべき事を伝えた。すると人々はあざけって笑い、ここ10年間一粒の雨も降っていないのにそんな洪水が起こるわけが無いと言って相手にしなかった。それでも男は黙々と船を作り続けた。すると一匹のキツネはその様子を見て、男のところに近づいて来てこう言った。私はあなたの事を信じるよ。何か僕に出来る事があったら手伝わせてくれ。その代わり本当に洪水が起きたら一緒にその船に乗せてくれないか。男はそれに承諾し、キツネに木の枝を集めるように言った。そうして1カ月後ようやく船は完成した。そしてその日の午後の時分に、ポツリポツリと雨が降り出し、瞬く間に豪雨となった。バケツの水をひっくり返す様な大洪水であった。男と一匹のキツネは船に乗っていた為に命を落とす事無く生き延びる事ができたが、あの富んだ人々は皆、洪水のゆえに溺れ死んだ。そうである。この世界情勢も気候の変化の激しいジャングルのようなものである。今の社会体制で安定の暮らしをしている富裕層は時代のわずかな変化に気付かず、毎日宴会をして騒いでいた。しかしこの社会体制で苦渋のうちにもがき苦しむ者達は、生き残るための野生的本能を日々培っており、どんな時代のわずかな変化にも機敏に動く用意ができていた。そうして世界的大恐慌が突然発生し、それまでの社会体制に慣れきっていた人々は皆、財産を失い、自殺した。しかし、日々厳しい目で世界情勢を分析していた一部の人々は難なくその大恐慌を乗り越え、一躍時代の寵児となって繁栄した。また、常に何かうまい話は無いかと情勢収集を欠かしていなかったキツネの様に用心深い人達はその大恐慌を察知していた人と協力関係を築いていたおかげで彼らの恩恵にあずかる事が出来た。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間に対して、常に客観的な判断者である第三者の人間がいる様に、人間全体に対して客観的な判断者であるエホバ神がおられるのである。この様に私達人間にとって日頃の日常生活には直接には関係しないほど高い、高貴で真なる神聖な方が確実におられるという事である。それはすなわち、砕いて言えば、日々、エホバ神の基準に従いたいと努めている忠実な人が、何度つまずいて自分のどうしようもないと感じる罪深さを改めて痛感するとき、その時こそまさに神エホバがおられるという価値が他の場合よりもさらに勝って満ち溢れるという事柄と一致するのである。現在の私達の立場とは、神エホバの高い規準以前の、最も低い人間同士の間での規準さえも満たしていないというのが現状なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

誰も確実な事であるかどうかはわからない、いい加減な事柄に対しては、本気に取り組もうとする気持ちには決してなれないように、たとえそれが真実であるかの様に思えるいろいろな推論によって誰も自分の命を捧げるほどに真剣になれるはずが無いし、真剣になる必要など全く無いのである。まさにそれらすべてを一掃されるのが神エホバの御意志なのである。

2.私達人間の中で指導者と呼ばれる者はあってはならず、指導者はただお一人御子イエスキリストだけであり、私達人間の中で先生と呼ばれる者はあってはならず、教師はただお一人御子イエスキリストだけであるのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神は御自身が造られた創造物をすべて覚えておられる。すなわち、あの二匹のツバメはその後どうなったか、2,000年前のギリシャにいた人はどんなに悔しい思いをして死んで行ったか、今の全世界に存在する何千兆ものウイルスがどうなっているか、2年前のあなたは何をしていたか、また聖書にもこう書かれている。[神は星の数を数えておられ、そのすべてを各々の名で呼ばれる。] 詩篇147編4節。 また、我々人間一人一人の髪の毛をすべて数えておられ、これまでどれだけの生き物が生まれ、どのような人生を歩んだか、そうして最後は悲惨な死に方をして死んで行った生き物すべての無念な気持ちを覚えておられるのである。それで私は不思議に思って、思い切って神に尋ねてみた。神よ、私は昨日何をしたのかを自分の事なのに覚えていないのですが、あなたがそんな途方もない数の生き物や現象を過去から今に至るまですべて詳細に覚えられるのはどうしてですか。すると神は一つのダイヤモンドを私に見せてくれた。そして神は1分間事にそれをハンマーで叩いて行かれた。するとダイヤモンドは粉々に砕け、細かくなっていった。そしてさらに神は細かくなったダイヤモンドのかけらをまた一つずつハンマーで粉々に叩いて行かれた。そして神は私に言われた。人よ、どんなにダイヤモンドが粉々に小さく別れようとも、それは元を正せばひとつのダイヤモンドに過ぎない。よってどれだけダイヤモンドの破片が細かくそして多くなろうとも、私には常に元のダイヤモンドにしか見えないのだ。それでこの世の現象がいかに多くなろうともそれはひとつのダイヤモンドを粉々に叩いている事と同様であり、私はいつでも瞬時にしてダイヤモンドを元の一つの大きさに戻す事が出来るのだ、と。そう、神は天地の創造以来、起きてきたすべての事柄を瞬時にして元通りにする事がお出来になるのである。このように神にとってまことに異例で成し得ない事は無い事を私は知るようになった。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中にどんな事でも解決できる万能の方法などあるだろうか。答えは否である。これは倫理学的に存在しない。なぜならそんな便利で安易な事柄があったなら、誰もがみんなそれに頼って、怠惰で怠け者になってしまうからである。倫理学第一の法則、楽をすれば必ず後から苦しみが来る、という事柄に基づいてそのような楽する事は決して出来無いのである。神御自身でさえ、そうする事を御自身に許してはいない。なぜなら、神が万物を創造した時、神は何か神だけに許されているなんでも可能な楽ちんな方法で万物を造ったわけではないからである。その証拠にすべての創造物は塵でできており、それはプラスチックや金や銀でできているわけではないからである。あなたは塵で生き物を作れるか。決して作れないだろう。すなわち、人間の問題の解決の仕方はあくまでもひとつひとつ解決していくしか無いのであり、一瞬ですべてを解決できるような方法は無いのである。例えば、相手が10の強さを持つなら、私達はそれよりも勝る11の強さを持って向かって行くのであり、このように常に問題の難易度に応じてその問題より勝った仕方でひとつひとつ問題を解決していくのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

ある大魔神がいた。どんなに勇敢で強い戦士が戦っても誰も大魔神にかなう者はいなかった。大魔神は、それをいい事に全世界を荒らし回り、人々を殺し、奴隷にしてひどい扱いをして人類を支配していた。しかし、人々の唯一の希望は、昔からの聖なる書物に悪が蔓延するとき、1人の君が立ち上がり、悪を根絶する事が預言されていた事であった。人々は苦しみ、恐怖に怯えながらも、その聖なる書物を信じ、救世主を待ちわびていた。するとある時、1人の天使が現れ、大魔神の前に立った。そして天使は言った。大魔神よ。私の力を持ってしてもあなたにはかなわない。それでどうか私があなたと戦って私が死ぬ前にあなたがどうしてそれほどまでに強いのか教えてくれぬか。すると大魔神はニヤリと笑って、よかろう、冥途のみやげに教えてやろう。私の食物は誇りだ。この人類の世界はあっちでもこっちでも、いろんなレベルのいろんな人間が成功し、支配しては民衆に自分の栄光を誇示し、誇りの精神を産んでいる。おかげで私の食料は尽きる事が無いのだ、と。それを聞くと天使は全人類の方を向いてこう言った。全人類よ、今こそあなた方の終わりが到来した。なぜなら悪は満ち、地は破壊の限りを尽くしているからである。私は神である。私はこの地を滅ぼすために到来した。すべての者はその小なる者から大なる者まで悔い改めよ。すると全人々は今までのおごりと誇りで満ちた行いと精神を改め、その方、神の前にへりくだり、悔い改めた。すると大魔神の食料としていた誇りが地上にたちどころに無くなった。すると大魔神は自分の食料が無くなってみるみる小さくなり、ついにはそれは消滅した。すると人々は喜び、神を賞賛し、神に栄光を帰した。それで全人類は滅亡を免れ、救われた。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)   みんな普通を演じてる。

みんな普通を演じてる。無理をして。実は普通を演じるのは一番大変なんだ。私達は皆、病んでいる。みんな気付いてる。私も含めて。自分が本当は異常だって事を。しかしその病んでいる本当の姿を人にさらす事は出来無い。なぜなら本当の自分を出せば、みんなに嫌われるから。だから無理をして毎日頑張って普通を演じてる。本当の自分を、自分のありのままを人に出せたらどんなに楽だろう。みんながありのままの自分を笑いながら、受け入れてくれたらどんなに楽だろう。ある人は自分という存在をみんなに受け入れて欲しいばっかりにスキーの選手や、フィギアスケートの4回転ジャンプや危険な事を注目を浴びたいばっかりに命がけでやる。なぜなら、そこまでしなければ人々は自分に振り向いてくれないから。本当はそんな無茶で危険な事はしたくない。普通でいたい。しかしそれを理解してくれる人がそばにいない。でもあなたばかりでは無い。まわりのみんなも無理をして、背伸びして普通を演じているのだ。あなたと同じように職場でさも平気なように仕事をして、家に帰ったら、ガーっと溜まった膿を全部吐き出す。ある人は本当はアルコール中毒である事を隠している。セックス依存症である事を隠している。でもやめられない。アルコールを浴びるほど飲まなければ、セックスを死ぬほどしなければ普通を演じきれない。自分でもわかっているのにそれをやめられない。しかし他の人はそれを理解してくれない。あいつはアルコール中毒だ、と言って非難する。あいつはセックス依存症だ、と言ってあざけられる。だから異常な本当の生活を隠してる。親も理解してくれないし、友達にも本当の事は話していない。毎日、いい子を演じて、毎日、さも楽しそうに友達としゃべっているけど、本当は心の中で悲鳴をあげている。誰か助けて欲しい。神様、どうかあなたがいるなら私を助けてください。私は孤独なのです。まわりの友達はみんな仮面で付き合っているのです。この世はなんて生き地獄なんだろう。分かる。分かるよ、あなたの苦しさを死ぬほど分かる。この世で生きる事の生きづらさをよく理解できる。若者よ、お年寄りよ、皆、心を1つにして、神に熱烈に祈りなさい。神はあなたの心をよくご存知である。あなたが毎日死ぬほど苦しい生活を続けている辛さをよくご存知である。人はただ祈るしか無いのだ。神は必ずあなたがそれを耐えられるよう助けてくださる。神エホバだけが本当のあなたを理解している。神エホバに自分のありのままをすべてさらけ出しなさい。神はあなたを優しく包んでくれるだろう。あなたのありのままを愛を持って優しく受け入れてくださる。エホバよ、どうかお願いです。この苦しんでいる全創造物、そして人類を助けてください。全創造物は共にうめき、共に苦痛を抱いているのです。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)    欲望は悪か。

神と悪魔の対話

(神)   人よ、あらゆる形の欲望を捨て去りなさい。

(悪魔)    神よ、あなたは二言目には欲望を捨てなさいとか、肉の欲望や目の欲望を避けなさいとか言っておられるが、欲望を持つ事はそんなに悪い事なのですか。むしろ欲望を持てる事自体が、人間が健康である事を証しするものではありませんか。人は病気になってしまったら欲望さえ失われてしまうのです。よって人は欲望がある事をむしろ喜ぶべきなのです。

(解説)    西暦2058年、人類は絶滅の危機に瀕していた。欲望を持つ事を悪とする宗教すべては、すなわちキリスト教や仏教やイスラム教は禁止されていた。人間社会は野望とか欲望とかを持って、活発に仕事をする人が全くいなくなっていた。すべての人間は生命力が無くなり、健康を害しており、全く欲望を持つ元気も無かった。そのため人間社会は全く機能せず、無活動になっていた。諸政府は一丸となって、西暦1970年代の人類が夢を持ち、豊かになりたいという欲望で一生懸命働いていた時代に立ち返ろうと1970年運動というスローガンを掲げて、人々のやる気を引き出そうと必死であった。欲望を禁止するような神の存在は全くのタブーとされ、神を崇拝しようとする者は皆、弾圧され、逮捕され、政治犯として強制収容所に入れられた。もはや人類にとって神の存在は必要なく、むしろ敵であった。ポルノ雑誌やビデオも政府によって大いに推奨され広く頒布されたが、人々は性欲自体が無くなっており、子供も産まず、人類の人口は急激に減少していた。これは1つのシミュレーションにしか過ぎないが、なぜ大昔の宗教は欲望を悪い事と見なしたかと言うと、それは昔の人々は皆、寿命は短かったけれども、健康であった事だ。健康であれば、食欲も性欲も所有欲も旺盛である。それは昔の人々には空気のように当たり前の事であった。よって野心や欲望を持って世界を支配しようとする人間が後を絶たず、人類社会は戦いの繰り返しであり、乱世の時代であった。よって戦争という暴力によって多くの人が殺され、奴隷となって苦しみを受けた。このような時代情勢では野心や欲望は悪の根源であった。それで昔の偉人達はこぞって欲望を捨てよ、欲望は悪であると唱えたのだ。しかし人類は西暦2000年代になると一生懸命働いて稼いだおかげで物質的に豊かになった。そして豊かになって生まれてきた子供達は豊かさが当たり前の世界で生活していたため、食欲や性欲や所有欲が次第に失われていったのである。いわゆる贅沢病、豊かさの病理である。いじめや職場でのパワーハラスメントが原因で仕事を辞め、そのまま閉じこもりになって、社会から孤立した子供達が増え始め、仕事をする気力が無い若者達が増加し始めた。そう、人類は豊かさと平和を手に入れたとたん、生きる活力を失ってしまったのである。人類がこんな事になるとは昔の偉人達は夢にも思わなかっただろう。そして欲望を持たない人間の事を無能な人間だと罵られ、もっと野心と欲望を持って生きる事が正しい事として奨励される時代になってきているのである。要するに昔の宗教観念が通用しない時代になったのである。ではもう神という存在は必要で無いのか。いや決してそうではない。人間はやはり神の指導のもとに従わなければ、このように貧しいときでも苦しく、豊かになっても苦しいというまさにやり場の無い両極端な方向しか向かわない事が明らかになったという事である。神の支配は人間にとって貧しさでも豊かさでも無い絶妙にバランスのとれた幸福を与えるものとなるのである。要するに人間の人間による人間の為の自治は失敗したのであって、今こそ神による神権政治が急務とされている緊急事態なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

名誉と地位を求め、また偉大な業績を求めている者たちに対して言うことは、私達人間にとって、お互いに許し合い、認め合い、助け合い、愛し合っていく事こそが、私達人間にとっての名誉であり、地位であり、偉大な業績なのである。

2.よこしまな誇りや見栄がその人が生きる事の活力源、行動の源であるとしたら、それはまるで海の上に漂う海藻の様に不安定で危険な人生である。しかし、私達人間にとって、純粋な愛が生きる事の活力源、行動の源であるとしたら、これは大岩の上に建てた建物の様に安定していて安全な人生である。

高田義裕の人生論

今日の格言

人は何事も順調に行っている時は皆、善人に見える。しかしひとたび逆境やトラブルに遭った時、その人の本性が現れるのである。よって自分自身や他の人の本性を知りたければ、何か些細なトラブルを引き起こしてあげるとよい。そうすると自分自身も他の人も普段からは想像も出来ないほど凶暴で邪悪な本性を暴露するであろう。

2.人が人の目を見て話せないのは、その心にやましいところがあるからである。