高田義裕の人生論

今日の格言

悪とは何か。それは利己的である事である。利己的とは何か。それは自分にとってだけ都合の良い事である。自分に都合が良いという事はその人だけには義である事である。逆に善とは何か。それは利他的である事である。利他的とは何か。それはより多くの人にとって都合の良い事である。すなわち、利己的とはより小さな義の事であり、利他的とはより大きな義の事であると言える。よって小さな義とは小さな悪の事であり、より大きな義とはより大きな悪の事である。例えれば、小さな悪とは純度100%の毒のようであり、大きな悪とは純度100%の毒を大量の水で薄めた純度1%の毒のようである。すなわち、小さな悪、例えば盗みや暴力や殺人は誰の目から見ても悪いとすぐに判断出来るが、大きな悪、例えば、資本主義や民主主義、社会主義や独裁主義などの社会全体を覆っている空気は純度が薄すぎて一見悪いと判断出来ない。すなわち社会全体の歪みという巨悪は悪いとは認知されにくいのである。そして認知されにくいという事は、その社会的歪みはすぐに正される事なく、長い間放置されてしまう傾向がある。これは病気に例えれば、手の施しようが無くなるまで痛みを感じない、すい臓ガンのようである。すなわち痛みのすぐに分かる切り傷や腹痛はすぐに処置されて問題は極大化しないが、痛みの自覚の無いすなわち、悪いとは認知されにくいより大きな義とは取り返しのつかないところまで進行してようやくその悪さが分かるという点では、小さな悪よりもより広範囲に渡って悪影響を及ぼす点でより大きな悪であると言えるのである。

2.私達よりはるかに小さい極微な世界とは、原子や電子や素粒子の事であると考えられている。それに比べて私達の生活レベルは、それよりもはるかに極大であり、私達の極大世界では物質の運動はニュートン力学で説明される。すなわち、距離÷時間=速度などである。しかし超ミクロの世界では、物質の運動はニュートン力学では説明出来ない。すなわちそれには量子力学が適用される事になる。量子力学によれば、電子の位置は確率論的にしか判断出来ないと言う。すなわち、ニュートン力学のような単純で分かりやすいものでは無くなってしまうのだ。実際電子の速度を計ろうとするとその位置が定まらず、電子の位置を計ろうとするとその速度が定まらないと言うのである。要するに電子は確かにここに存在すると言うよりは電子は確率論的にしか存在していないという曖昧なものになってしまうのである。しかしここで視野を広く取って全宇宙という大きさを基準にすれば、私達人間の大きさは原子や電子や素粒子よりもはるかに小さいのではないだろうか。それでは私達人間は量子力学的に私達の位置を知ろうとすると速度が分からなくなるだろうか。また、私達の動く速度を知ろうとすると私達の位置は定まらなくなるだろうか。そんな事は無い。私達の位置は確実に定まっているし、私達の速度も確実に定まっている。そう、私達は全宇宙から見れば量子力学的に確率論的にしか存在しないはずなのに、私達は確かに存在しており、私達の世界は単純で分かりやすいニュートン力学によって説明出来るのである。すなわち量子力学とはあくまでも、人間の大きさを絶対的基準にして考えた場合の推論なのであって、この全宇宙から言えば、人間の視点が絶対的尺度などでは決して無いのである。私達の世界は大きな全宇宙から見れば、あくまでも相対的な価値基準に過ぎず、基準にする対象物を変えるとそれに対する推論や法則も変化してしまう事を示している。要するに私達が考えた定理なり法則はあくまでも人間という価値基準を土台にして展開されたものに過ぎず、それが全宇宙に適用出来る絶対的基準では決して無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

すべて物は言いよう、気持ちは思いようで人生は決まるのである。

2.人は人のために生きてこそ、初めて人と言える。

3.自然な事に反抗する無理な圧迫が悪なのである。ここで義の前に悪は必ず倒れる事は自然な事である。

4.余分な心配は悪である。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

人とは、自分にとって常に理想とする具体的な手本と見本が無ければ自分を律する事など不可能な存在なのである。私達人間にとって、理想像であり、立派な手本とは御子イエスキリストの事なのである。

2.    倫理、(倒れる事)の定義

1.義の前に悪は必ず倒れる。

2.聖なるものの前に俗悪は必ず倒れる。

3.相対の前に絶対は必ず倒れる。

4.複雑さの前に単純は必ず倒れる。

5.純粋さの前に狡猾さは必ず倒れる。

6.明瞭の前に深刻は必ず倒れる。

7.愛の前に邪悪は必ず倒れる。

8.神の前に人は必ず倒れる。

私達人間にとって、神エホバとは無知な存在でも無ければ、いざという時の為だけの存在なのでも無く、私達人間にとって常にパーソナル(日常的)な存在で無ければならないのである。よく人は神に祈っても全然益が無く、無意味であると言うが、その主張は常に神を日常的な存在として意識して行動していない人達の言い分なのである。常日頃から神との親密で個人的な関係を築く努力をせずに、いざ困ったという時、神に頼んでも神はそれを聞いてくださるはずが無いのである。人間関係でもそうではないか。常日頃から親しく付き合っている人ならあなたがいざという時はその人はあなたを助けてくれるのでは無いだろうか。しかし、常日頃から親しく付き合ってもいない見知らぬ他人がいざという時、あなたの事を救ってくれるはずが無いのである。よって常日頃から神との良い関係を築いて、良い行状と立派な精神態度とを日常的に積み上げていくなら、いざ困ったという時、神はあなたの祈りを聞き、あなたの事を必ず助けてくださるのである。

 

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     ポルノは必要悪か。

どこかしこにもポルノの雑誌やビデオが販売されている。もしポルノを法律的に全面禁止してしまったらどうなるだろう。確かにポルノは彼女のいない男性にとって性的欲求のはけ口になっている事は確かである。もしポルノを禁止したら、男性はその強い性衝動に屈して女性をレイプする事が多発するかもしれない。しかし、ポルノにはまた別の悪弊がある。それはポルノとは、あくまでも虚構の世界であり、意図的に製作者によって作られたものだ。しかしポルノばかり見ている男性は次第にそのポルノの虚構世界と現実世界の違いを区別出来なくなり、女性を性の対象というモノでしか見れなくなってくる。実際、ポルノだけを見て満足出来無くなり、実際に女性をレイプする事件は後を絶たない。要するにポルノを禁止しようが、許容しようが性犯罪自体は無くならないのである。しかし男性でポルノを見て満足している人数の割合と、ポルノだけで満足できず実際に性犯罪を犯してしまう男性の人数の比率は圧倒的に前者の方が多いと思う。すなわち全男性の中のごく一部の人間が実際に性犯罪を犯していると考えられる。逆に言えば、大半の男性はポルノを見るが、性犯罪までには至らないケースの方が割合が高いのである。私はクリスチャンなので、ポルノも見ないし、淫行も姦淫もマスターベーションもしないのであるが、(実際、彼女もいない。)男性の自分ではコントロール出来ないほどの強い性衝動の感覚は痛いほど分かる。神はポルノを非としているのはもちろんだが、現実世界はそう単純で簡単なわけにはいかない。すなわち綺麗事では済まされない深刻な問題なのだ。しかしイスラム社会にはポルノは無い。それでも性犯罪が起きないのは、イスラム教の信仰に男性が固くついているからだと思う。そう思うと信仰という力は恐ろしいものだ。人間にとって神に対する信仰ほどの強いものをもってしても、男性は自分にある獣の様な性的欲求を飼いならす事は至難の技なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

生きるという事は、使用されるソフトの立派さによって決まるのでは決して無く、生きるという事は使用するハードの立派さによって決まるのである。ここで言うハードとは、例えれば、ゲーム機器の本体の事を言うのであり、ソフトとはそのゲーム機器で遊べるゲームソフトの事である。ゲームソフトの内容の良さはすべてそのゲーム機器の本体というハードの性能の良さにかかっているのであり、これは私達人間にも当てはまるのである。すなわち、どんなソフト、すなわち、パソコンや冷蔵庫やテレビがどんなに立派に作られていても、ハード、すなわちそれを使う人間自身の性能、すなわち人間性や人格、才能が優れていなければ、すべては宝の持ち腐れになり、そのソフトの性能を十分に発揮する事が出来無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人が物事に関して深刻に捉える事と、人が物事に対して真剣に捉える事とは全く違う。前者はそうする事で人の精神を疲弊させ、健康を奪うが、後者は人の精神を刺激し、健康を促進する。物事を深刻に考えてはならない。なぜならどれだけ深刻に考えても、あなたはあなたの髪の毛1本、白くも黒くも出来ないからである。人間はどれだけ落ち込んでも結局は生きて行かなければならないのだから、深刻に考えてもしょうがないのである。よって人生を深刻に考えるのでは無く、人生を真剣に考えるのである。そして迷ったらまず前に出る事である。真剣に生きていれば、深刻に考える暇が無くなるからである。人は悩んだ時、何かに真剣に打ち込む事で集中力が生まれ、悩む暇も無いようにすべきなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中で最も危険な思想、危険な社会とは何か。それは殺人を正当化する事でも無ければ、紛争に絶えない社会情勢でも無い。それは無寛容な思想、もしくは無寛容な社会の事である。すなわちちょっとしたミスを犯してもそれを許さない社会、例えば、個人的な理由で学校に行けなくなった人達や家庭内が荒れている故に非行に走った人達に対する社会全体の冷ややかな目線である。この完璧を求める社会は少しも人生における回り道や失敗を大目に見ないのであり、人生を一回でもドロップアウトしてしまうとやり直しの出来ない冷たい社会である。たとえ犯罪を犯しても、何年か経てばその罪を許してくれる社会、すなわち寛容で愛のある社会とは全く別のものである。特にこの傾向が顕著なのは、日本である。日本では、少しでも前科者の烙印を押されてしまえは、一生そこでその人の人生は終わってしまい、社会的に抹殺されてしまう。何かトラブルがあると、すぐに警察を呼んで、なんでもちょっとした事で逮捕してしまうのである。そう、日本はやり直しのきかない恐ろしい警察国家と化してしまっているのである。この様な失敗してもやり直しを許してくれない社会こそが、一番犯罪を生む要因となるのである。なぜなら、犯罪を犯した本人がいくら反省して社会に復帰したくてもそれを受け入れる社会体制が整備されていないため、本人はますます精神的に追い込まれ、最後には精神を病み、やけっぱちになって無差別通り魔殺人などの悲惨な事件が引き起こされてしまうからである。要するに犯罪の要因は本人にあるというよりは、この社会全体に蔓延している冷たい空気にあるのである。要するに、自分さえ良ければそれで良いという社会的構造の悪いツケが同じ社会に悪い報いを自ら刈り取っているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

今、人類は自滅の瀬戸際にいる。この人類社会は暴走する機関車に例えられよう。その線路の行く末は断崖絶壁である。このまま進めば、機関車もろとも断崖絶壁の谷底へと落ちて行き、機関車はバラバラに崩れ落ち、その中にいる私達人間はひどい死に方をするであろう。そうなる前になんとか全く別の道にレールを作って、この暴走列車のレールを切り替えて進路変更しなければならない。もはや資本主義というレールは真っ赤に錆び付いて壊れており、民主主義というレールの先は行き止まりである。これから人類は全く別のパラダイムシフトにチェンジしなければならない。人類は未知のジャングルのただ中にいる。人類はその中では赤子のような存在である。この先私達はどうしていいか分からないのだ。いつまでも同じ行動を繰り返している時間はもう無い。既成の事実観念はすべて古くなってしまっており、それらすべてを惜しみ無く捨て去る時代が来たのだ。さあ、既成の観念、常識に囚われず、全く新しい道を歩むべき時に来ている。人々は現体制の既得権益にしがみつき、それを死んでも離さないであろう。しかし哀れな事に、彼らはそれにしがみつきながら、間も無く、断崖絶壁の谷底に落ちて行く事を知らない。まず人類がしなければならない事はこの現体制の貨幣制度を取り壊す事である。もはや金など意味は無い。それを得ようとする事に必死になっていてはいけない。今の人類の状態は、数が限られた椅子にみんながそれを奪い合おうとしている愚かな状況に似ている。もっと周りを見よ。そこには全く別の新しい世界空間が広がっているでは無いか。まず人類は一部の人々にしか利益をもたらさないこの中央集権化をバラバラに崩さなければならない。まさに神が互いの言語を聞き分けられないようにして、言語を混乱させ、人々がバベルの塔を完成させるのを止めさせ、人間を地の全面に散らされたように。これからは個人レベルが国家単位となり、多様性に富んだ社会システムに切り替えられなければならない。すなわち、権威の集中化をバラバラに崩すのであり、神エホバの御名を唯一、全人類の共通する柱とし、新しい神権政治、神権国家を樹立するのである。そう、神エホバを絶対王とする王政化を実現するのである。私達人間はその臣民となるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

新・イエスの山上の垂訓

さて、イエスを罠にかけようとして、ユダヤ人でパリサイ派の人達は姦淫していた女を連れて来てイエスのもとに置き、こう尋ねた。この女は罪深いのです。誰が裁くべきでしょうか。するとイエスは言われた。この女性をこれまで一番世話をして愛して育てた人がまず、この女性に石を投げなさい。すると人々は決まり悪そうに1人また1人と去っていき、最後にイエスとその女だけが残った。するとイエスは女に言った。娘よ、誰かあなたに石を投げる人はいますか。すると女は言った。主よ、誰もいません。するとイエスは言われた。あなたを一番愛し、世話しておられるのは天の父エホバです。私もあなたを裁きません。神はあなたを許しておられます。去って行きなさい。しかしもう罪を犯してはなりません。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神エホバの過分のご親切は、ただ人に対する純粋な憐れみのもとに私達人間に差し出されているのであって、その過分のご親切を当たり前のものと見なし、それに対して、ただあぐらをかこうとする者は、神エホバの純粋な憐れみを裏切っている事になるのである。

2.人間にとって、驕りと傲慢さは永遠の敵なのである。

3.常に一流の人達の述べる感想は、国境を越えるのでは無いだろうか。

4.私達人間を正す事が可能なのは、私達自身では無く、神エホバだけに可能な事なのである。

5.悪魔サタンはこの世の中で、神エホバの栄光が決して漏れない様に、考えられるあらゆる方法でそれを阻止する事にのみ、自分の力の全てを注いでいるのである。

6.私達人間にとって、神エホバは永遠に未知なのである。すなわち、私達人間は神エホバがお造りになったこの物質宇宙を永遠に渡って理解し尽くす事は決して出来ないのである。すなわち言い換えれば、私達人間は永遠に渡って神エホバの創造したものすべてを永遠に探究し続ける事が出来るのである。

7.隣人を愛するという事は、隣人のあらゆる権利とあらゆる所有物とを永遠に侵害しないという事でもあるのである。

8.あらゆる不幸の源は、神エホバに対する全くの故意による反逆から始まった事を常に留意しなければならない。

9.この世の中には、自己啓発と称して、利己的な上昇志向主義を奨励するような書物がどれだけ氾濫している事であろうか。人は常に利他的な謙遜さを推薦する聖書からのみ学ぶべきである。

10.たとえ、人が人に不意によって害を与えてしまう事があっても、それが起こる頻度の確率が高くなる事を見過ごしていれば、それは人が人に故意によって害を加える事に等しい事になること。すなわち、私達人間は常に、人に不意に害を与えかねないどんな小さな要素も見逃さないように注意深くあるべきこと。

11.私達が救われるかどうかは、私達の気まぐれな気持ちによって決まるのでは決して無く、ただ神エホバの意思いかんにかかっているのである。