高田義裕の人生論

今日の格言

すべての万物は、その最初から死という方向へ向かおうとする性質があること。では死とは何か。それは淫らな性的欲情である。すべての人間はこの淫らな性的欲情と対峙せざるを得無い。そこで人は淫らな性的欲情に組するか、組しないかの選択に迫られる。どちらにも組しないという中立的立場は存在しない。人は生きるか、それとも死ぬかのどちらかを選ばなければならないのである。そう、人間は男女の区別無く、堕すか、堕さないかのどちらかに組しなければならないのである。残念な事に大半の人間は淫らな性的欲情の元に屈した。すなわち大半の人々は死ぬ方を選んだのである。人間にとって生きるとは、決して淫らな性的欲情との戦いと切り離せない。神は人間を神御自身の像に似せて造られた。そして人の前に生と死を置き、人間がどちらか一方を選ぶ様にされたのである。それは貞潔に生きるか、性的欲情のままに身を任せるかのどちらかしか無いのである。最初の人間アダムはこの倒錯的性的欲情に負けた人の最初の人である。なぜなら善悪の知識の木の実を食べてはならない、と告げてあったのに、最初の女であるエバは悪魔サタンという蛇にそそのかされて、いとも簡単にその禁断の木の実を食べてしまったからである。アダムはそのことを知り、悪魔サタンがエバを騙したことを知っていた。すなわちアダムは悪魔サタンという蛇がエバに嘘をついている事を認識していたのである。では、なぜ、アダムはエバと同じ様に禁断の木の実を食べてしまったのか。それはエバという女性を神との関係よりも優先したからである。そう、性的欲情の為にエバを失う事を恐れたのだ。アダムは神との親密な関係よりもエバとの親密な関係の方を選んだのだ。これによりアダムとエバの子孫である私達人間は死ぬようになったのである。よって我々も人間として生まれた以上、この倒錯的性的欲情に反旗をひるがえして、それと抵抗し続けるか、それとも、その倒錯的性的欲情の赴くままに生きるかのどちらか一方を選ばなければならないのである。よって、性的欲情に身を任せて生きる者は、神の命の書からその名前を拭い去られ、いずれは永遠の死に至る。またその性的欲情に反旗をひるがえしてそれと抵抗し続け、淫らな性的欲情を制する者は神の命の書からその名前を書き記され、いずれは永遠の命を得るのである。

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