高田義裕の人生論

今日の格言

周りには自分の価値観と違う嫌いな人ばかりいる、と悩んでいる者よ。あなたは努力して自分のなりたい自分になれ。そうすれば同じ価値観の者達が集まって来るのである。常に類は友を呼ぶ、のである。

2.     (題名)     自分のしたい事をして稼ぐというのは本当か。

自分のしたい事をして稼ぐというのは本当の事か。社会に出て、まだ何も経験していない若者が自分のしたい事なんかわかるだろうか。私は分からなかった。おそらくみんな自分の向いてる事とかやりたいことなんてわからないと思う。自分のしたい事を幼い時から分かっている人間なんてほんの一部だと思う。ある人がいた。彼は学生の頃から親から何でもいいから勉強して有名な難関大学を卒業すれば一流企業に就職出来ると喝破され、とことん勉強して念願叶って一流会社に就職出来た。そして入社してからも熱心に仕事をして昇格し部長にもなった。しかし彼の仕事は非常に大変な仕事で毎日が残業の繰り返しで過労になり、倒れた。そのせいで病気になり、会社を退職せざるを得なくなった。彼は2年間療養して体の健康も回復した。それでまた仕事探しを始めた。しかしもう40代後半の彼にとって雇おうとしてくれる一流企業はどこにもなかった。彼はプライドを傷付けられながらも、ようやく誰でも出来る汚くてきつい清掃の仕事に就いた。彼は汚くてきつい清掃の仕事を毎日しながら自分が知らぬ間に社会の底辺にいる事に気付き涙した。しかし気持ちを取り直して清掃の仕事に取り組むうちに、どうすればもっと便所を短時間で綺麗にできるかとか、普通の洗剤では落ちない汚れをどのような薬品を使えば落ちるかとか、日々研究し、実践し、知恵を絞っていった。そのうち清掃業というものの奥の深さを感じる事が出来るようになり、最初はやりたくなかったこの仕事が面白くなっていった。そうなればしめたもので、彼にやる気スイッチが入り、他の誰にも真似出来ない清掃業のプロとなっていた。それで彼は人を雇って小さいながらも清掃業の会社を設立して社長になっている。どうだろう。実際の人生というものはこのように紆余曲折があって、わからないものなのだ。人はとりあえず好き嫌いは別にして何か仕事を始めるべきなのだ。そして働きながら考え続け、自分に今与えられた仕事をとことん工夫を凝らして極められるまで努力するべきだ。そうすれば本当に自分に向いている自分のしたい仕事を自分自身が気付くだろう。要は自分が何に向いているかを考える時間があったら、とにかく何かを実際にやってみる事が大事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

一人前の大人であるからには、きちんと自分の気持ちと主張を身振りや表情や、はっきりとした言葉でもって明確に相手に伝えられる努力をしてコミュニケーション力を自分のものとしなければならないのである。自分から言わなくても相手の方から自分の気持ちを察してくれるだろう、という子供の依存心的精神でいると、自分の当然の権利すら相手に奪われ、自分を自分に不利な立場に置く事になる。世の中に出たら、誰も自分の気持ちを相手の方からわざわざ知ろうとして探ってくれる親切な人など1人としていないからである。世の中の社会人の常識は、すべて与えられるのを待っているという子供的依存心を卒業して、自分の方から積極的に相手に働きかけていくという自発的精神、すなわち自立精神をもって行動していかなければならないのが当然であり、もしそうしなければ誰も自分の事をいつまで経っても分かってはもらえないのである。欧米人は小さい時からそうするように教育されているので、特に問題は無いが、日本人は以心伝心と言って、自分から言わずとも相手が理解してくれるという甘えの構造がある。また小さい時からコミュニケーション力を培う教育を受けていないから、気持ちが表情に出にくい。すなわち、日本人はポーカーフェイスで何を考えているのかわからないと言われる所以である。

高田義裕の人生論

今日の格言

すべて争いの根本要因は、独りよがりの喜び(独善)から出るのである。

2.エホバ神からの賜物に関して、私達は捨てる程に、余分に与えられているのでは決して無く、ちょうど満ち足りる程に、過不足なく与えられているのである。

3.成功とは次のものである。(最初から期待したとおりの成果が得られること。)すなわち、言い換えれば、最初から期待した以上の成果が得られてもいけないという事である。

4.罪を憎んで人を憎まない。

5.笑っていられない深刻な場合が、一番笑っていられる場合である。

6.生命は進化から生じたのでは無く、生命は愛から生じたのである。

7.エホバ神は、御自身について証しをするものが御自身以外にはいなかったので、御自身が御自身に対して証しされ、御自身が真理である事を証しされた。

高田義裕の人生論

今日の格言

結局、人間が人間の生活をより便利にし、より進歩させるという事の本質は、人が他の誰とも交わらずに家の中にいるだけですべて事足りる様にしてしまうという点において、人々を知らず知らずのうちに孤独に追いやるという事に集中しているのである。便利な事、すなわち電話一本で自分の欲しい物や必要な物を手に入れられること、スマホのインターネットで、外に出ずともチャットで会話し、すべて家の中にいるだけで事足りてしまうのである。これはまるでパソコンのキーボードを打つ時の感覚をどれだけ無くしてキーボードを打てる様にするかという作業に似ている。やっぱり時代がどんなに進んで進歩しても、自分の手でキーボードを打つ手の感覚を味わいながら文章を書くという事は時代を超えて普遍的なものだと思うし、どんなに時代が進歩しても、紙の本の活字を読む事も変わらない普遍的意味を持つものであると思うのである。同様に、人と人とが直に顔と顔を見合わせて会話し、対話する事も時代の変化に関係せず、普遍的な事なのである。むしろ人は人と会話する技術を磨く事で芸術なり、文学なり、文化なりを成熟させ、人生を味わい深いものにしてきたのである。むしろ人間が直に顔と顔を見合わせて会話する事無く、すべて事足りる社会などというものは精神的には異常な状態であり、人間として甚だしく病的で不健康な社会なのである。昨今の現代人の精神的病気の増加は、この人と直に会話する技術がいかに乏しく苦手なものにしている事からすべて起因を発しているものと思われる。

高田義裕の人生論

今日の格言

予知能力とは何か。

予知能力とは何か。誰でも自分に予知能力があったらいいのに、と思うかもしれない。ここで、ある予知能力者がいた。彼はAさんを見て言った。あなたはいつか事故に遭います。するとAさんはびっくりして、具体的にどうなるのか尋ねた。すると予知能力者は、私もはっきりした事は分かりません、と答えた。さあ、ここで予知能力とやらの種明かしが表れたのである。予知能力者はAさんがいつ、どこで、誰と、どの様に、どうなるかを詳細な部分まで詳しく知っていた。しかしAさんに言わなかったのはなぜか。それは一部始終をAさんに教えてしまうと、例えば、それは交通事故で、相手がBさんで、来月の15日に38号線のスーパーマーケットの交差点で朝11時30分に起こるとAさんに伝えてしまえば、Aさんはその情報を基にしてその交通事故が起こる前にBさんを探し出し、事の全容をBさんに伝えてお互いに申し合わせをして、その交通事故が起きない様に回避出来てしまうからである。すると予知は予知でなくなってしまうのである。これを全世界の人々に当てはめてみると、神がすべての人間が将来どうなるかを事細かく予言したとしよう。すると全人類はその神の言った情報を基にしてお互いにその事柄が生じる前に申し合わせをして神の言った通りにはならない様に出来るのである。すなわち予言能力とは、すべての情報を知らせない事によって初めて成り立つ不完全な能力の事と言える。すなわちすべての情報の中のほんの一部分を抜き出して提示させ、それが起こると言わなければならないのである。それだったら予知能力者が予知出来る内容も断片的なものでしかないのであり、我々予知能力を持たない、何も知らない普通の人と大して変わらないではないか。予知能力者は少しの断片しか予知出来ない事で予知出来るというジレンマを抱えているのである。よって予知能力者よりも我々の方がよく知っている分野もあるから、予知能力者も普通の人も何も変わらないのである。よって人は自分に予知能力があったらいいのに、と思う必要性など何もないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

世界の終焉

世界と終末は刻々と近づいている。人間社会の活動によって地球環境は破壊され、生態系は破壊されている。そこからここへと地震が発生しており、世界規模で自然災害が多発している。このまま行くと、地球は人類の住めない程にまで汚染されるであろう。それではなぜ神は未だにこの世界を滅ぼされないか。それは神にとってこの世界を滅ぼす事はいともたやすい事だからである。地球は神にとって手のひらの上に転がる丸い玉の様であり、神の人差し指に一滴のつゆ玉を付けてその小さな丸い玉に一滴垂らすなら、それで世界は簡単に滅んでしまうのである。この様に人類が滅びるのはたやすいが、人類を救うのは難しい事だからである。よって神はその辛抱さの限りを尽くし、全人類が神の前に悔い改めて救われる事を待っておられるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

現実には、悪い事柄が行われる際、それは悪い事と思ってなされていないため、悪い事柄が際限無く生じているのである。

2.もし神の側に砂つぶほどの小さい不足が見出されたとしても、それだけでも神の主権の立証は成立しなくなるのである。

3.その人は本当はどのような人間なのかは、その人が順境の時に決まるのでは決して無く、その人が逆境に立たされた時、どう行動するかによって初めて分かること。

4.倫理1.  人間が可能な事はすべてしても良い事なのである。それではなぜ人は淫行するのか。またなぜ人は姦淫するのか。また人はなぜ人を殺すのか。それはすべて我々は人間では無いからである。神に対して罪を犯した人間は神の価値観からは、もはや人間では無いからである。我々は人間の様なもの、人間に似たもの、すなわち人間の偽物、ギミック、ダミーなのである。そう、現代で言えば、クローン人間の様なものである。しかし私達ダミー人間には1つの救いがある。すなわち私達が罪深い故の特権である。それは神に栄光を帰す事であり、人が自分の存在の虚無感を味わって初めて人間は神に栄光を帰する事が出来るのである。その時に初めて人間はその存在に意味を与えられるという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

二元論による神の存在の証明

万物はありとあらゆる種類に区分される。植物類、魚類、畜類、鳥類、爬虫類、昆虫類など様々である。しかしここでたった2つによって万物を区分しよう。すなわち二元論によってである。順番として、より小さな範囲から大きな範囲、もしくはより具体的なレベルからより抽象的なレベルで表してみるのである。例えば、我々は仕事をしているので、我々は雇う側か、雇われる側かに区分する事が出来る。また我々は政治と律法の基に生きているから、支配する側か、支配される側かに区分する事が出来る。このようにどんどん二元論の要素を部分的なものから全体的なものへと拡張していくのである。そしてそれが極度の抽象性にまで振るいにかけていくと最後には我々は生かしている側か、生かされている側かに区分出来る。我々はもちろん生かされている側なので、生かしている側は誰かという事になる。それは神しかいない。すなわち究極の二元論は神か、神以外かという事に区分される。よって神は存在する。そして最も主観的な二元論として人間としての内面的意識、すなわち、私か、私以外かという区分に分かれる。我々人間は、この私か、私以外か、という二元論によって周りのものすべてを観察し区別して生きているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

私達人間の提出する知恵は、どう頑張っても部分的な範囲に関してしか通用しないものであり、そのレベルを超える事は出来ないものである。すなわち決して全体を把握する事は出来ないのである。そして物事の正しい見方は、まず常に全体を把握してからでないと何も始まらないのである。例えばアインシュタインの有名な方程式E=mc²は大変簡潔で美しい定理と言えるが、人類はその式を基にして原子爆弾の知識を得たのである。しかし、その式は私達人間に原子爆弾の副産物である、すなわち放射能汚染の危険を何ら提示するものではなかった。よってE=mc²も放射能の危険を予知出来なかった事において部分的な知恵なのである。ここで言う全体的知恵とは、物質はエネルギーで出来ていること、そしてその物質の核融合で莫大なエネルギーが生じること、そして核融合の後には放射能が付随して生じること、そしてその放射能は生物に甚大な悪影響を与えることまで提示して初めて完全であると言えるのである。

2.すべて個人的レベルへの批判が初めて有害なのであって、同じ批判でも、全体的レベルへの批判ならそれは決して有害なものでは無くむしろ有益な事なのである。よって個人に対する誹謗中傷は良くないが、社会全体を批評する事は人類の未来の行く末を予見する事において非常に大事な事なのである。