高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

今、患難に遭っている者達よ、あなた方は喜び踊りなさい。なぜなら、あなた方の苦しい忍耐は心を精錬し、清く、そして純粋にし、なんという真剣さをあなた方の内に生み出した事でしょう。その真剣さが、神への信仰を生み、切なる期待を抱いて神からの救いを求める清い良心へと作り変えられていくのです。実際、人間が神に近づく事は良い事なのです。まさに聖書にこうあります。[あなた方は自分の思い煩いをすべて神に委ねなさい。そうすれば神は顧みてくださるからです。] 私自身、今も患難のうちにあります。しかし、私はそれを喜んでいます。なぜなら、患難が私の心を精錬し、清く、そして純粋にし、神に対する信仰を培わせてくれ、本当に神に依り頼む事の真剣さを私の心の中に植え付けてくれるからです。このようにして、神と自分との親密な関係がより強固なものにされたからです。しかし、今、幸福で満ち足りている者達は災いです。あなた方は身を震わせて嘆き悲しみなさい。なぜなら、あなた方の快楽はその心を傲慢にし、汚し、そして優柔不断にならせ、なんの真剣さをも生み出さないからです。そうです、あなた方は神を必要とせず、むしろ神への信仰を蝕み、その心は終始、汚れた堕落の底へと作り変えられていくからです。実際、人間が神に近づかない事は悪い事なのです。よって今、患難にある者達よ、この聖書の言葉に思いを留めなさい。新約聖書、ヨハネによる福音書16章33節、イエスキリストご自身が語られた言葉。[あなた方がわたしによって平安を得るために、わたしはこれらの事を言いました。世にあってあなた方には患難がありますが、勇気を出しなさい。わたしは世を征服したのです。]

高田義裕の人生論

今日の格言

なぜ、新型肺炎コロナウイルスは感染力が非常に強いのか。

新型肺炎コロナウイルスはもはや、ものすごい勢いで世界に拡散している。なぜこれほど拡散したのか。まず、電子顕微鏡に映し出されたコロナウイルスの形状を見て頂きたい。すると、コロナウイルスの球状の核の周りに球面全体に均等にタワシのブラシのような触手が生えている事にお気づきであろう。これがくっつき草のように、まるでマジックテープのように強力な接着剤の役目をするのである。まさに、トカゲやヤモリがツルツルのガラスにぴったり張り付いているように、また、どこにでもとまる事のできるハエの手足のように、非常にくっ付き易いのである。これは一度くっ付いたらなかなか取れないほど強力な触手なのである。天然性のウイルスでこんなに綺麗に均等に触手が突起しているウイルスを、私はまだ見た事がない。そうである、これはもともとコロナウイルスの感染力が強くなる様に人工的に、意図的に作られた形状に違いないのである。よって、一度コロナウイルスに感染して、その後、回復しても、完全には体からウイルスが取り除かれないのである。そうしてもう一度再感染する事もこれで納得できる。そう、コロナウイルスの球状の核の周りにタコ足の吸着バンの様な触手が伸びているのが、非常に意図的であり、不可解な事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

[存在する]とは無証明要素である。

[存在する]ということは無証明に存在する。なぜなら、たとえ、[存在する]事が存在しなくても、それは言い換えれば、[存在する事が存在しない]事が[存在する]事であるからである。よって存在しない事も、存在する事も、すべて存在する事の要素なのであり、[存在する]事を全集合とすると、[存在しない事も存在する]という言い換えが可能なわけであり、すべての要素は、[存在する]と言う全集合に対する部分集合になるわけである。すなわち、[存在する]ということは、[有る]という言葉に置き換えられるわけであり、[無い]という事が[有る]事によって、初めて無も[存在する]のである。これは水道管に例えられよう。なぜなら水を出す事(有)も、水を出さない事(無)も水道管が存在して初めて成立する事柄だからである。それでは、[存在する]事でもなく、[存在しない]事でもない事は存在するか。これをメタΩとしよう。しかしここで、メタΩが存在しようが、メタΩが存在しまいが、それらはすべて、[存在する]事の要素であり、部分集合であるから、メタΩは存在する事になる。それでは、メタΩでない、アンチ(メタΩ)は存在するか。しかし、ここでも、アンチ(メタΩ)が存在しようが、アンチ(メタΩ)が存在しまいが、それらはすべて、[存在する]事の要素であり、部分集合であるから、アンチ(メタΩ)も存在するのである。これが無限に続く。よって、[存在する]事を超えたメタ[存在する]があっても、それはすべての事を全集合とすると、それらはすべて、[存在する]という部分集合に含まれる事になる。これは面白い事である。なぜなら、部分が全体を含んでいるのだから。よって[存在する]という次元において、部分は全体よりも大きいのである。また全体は部分よりも小さい。すなわち部分が全体を内包しているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

正しい事が正しい事を導くとは限らない。例えば、人間にとって病気である事よりも健康である事の方が正しいのは自明の理である。しかし、人間は健康であるからこそ、悪い事もできるのである。もし、悪人が病気であれば、悪い事も出来ないはずである。よって、悪い事が出来ない意味では、人間は病気である事の方が正しい事になる。しかし、これは最初に述べた、人間は病気である事よりも健康である事の方が正しいという主張と矛盾する。よって正しい事を前提として正しい事が導き出されるとは限らないのである。むしろ互いに矛盾した結果を引き起こす場合があるのである。では、どちらかが間違っているのだろうか。それでは、人間にとって健康である事よりも病気である事の方が正しいのであろうか。ほとんどの人はそれは正しくないと言うに違いない。しかしここで、これを正しいとすれば、後の、悪い事が出来ない意味では、人間は病気である事の方が正しいと言う主張は筋が通るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神の神殿とは何か。

あなた方は、キリスト教及び、ユダヤ教、イスラム教において、唯一まことの神の神殿は文字通りのイスラエルという場所にあると考えている。しかし、確かに物理的な意味で、まことの神の神殿が地上にあった時代は既に終わっている。すなわち文字通りのイスラエルの地が神の聖なる場所であった事はイエスキリストの死によって、神によって破棄されたのである。今日における神の神殿はまさに私達人間の体によって表し示されているのである。まさに聖書にこう書かれている。新約聖書、パウロによるコリント人への第一の手紙3章16と17節、[あなた方は、自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。もし誰かが神の神殿を滅ぼすなら、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。]すなわちいくらイスラエルの地まで旅をして、熱烈に祈り、聖なる行事を行おうとも、自分自身の体を神聖に保たず、聖なる行状と正しい思いとをもって自分自身を清く保っていなければ、いくらイスラエルの聖地でお祈りをしても、それは無駄な事なのであり、自分の身を汚すなら、あなたは真の神の神殿である自分自身を滅ぼす事になるのである。もしそうするなら、神はその人を滅ぼされますと書いてあるからである。であるから、真の神の崇拝は、どうあってもあなた方自身の心と体を清く保つ事によって表し示さなければならないのである。すなわち、文字通りのイスラエルの地で祈る事はもはや重要ではないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

解決策は常に正しいが、正しい事が解決策であるとは限らない。例えば、イギリスがEUを離脱した理由は正しいかもしれない。しかし、それが解決策であるかはまた別の問題である。これを集合に例えれば、正しい事であり、かつ解決策でもある場合は解決策という全集合の中に正しいという要素が部分集合として入ってさえいればそれは正しくてかつ、解決策であるという事である。また正しいという全集合の中に解決策という要素が部分集合として入ってさえいれば、それもまた正しくてかつ、解決策であるという事である。しかし、正しくなくて、かつ解決策である場合は、互いに別の集合である。また、解決策でなく、かつ正しいという場合も互いに別の集合である。これは確率的に言えば、正しくて、かつ解決策であるという確率は全体を100としたら、50%である。それに対し、正しいが、解決策でない、もしくは解決策だが、正しくない確率は25%である。なぜなら、どちらかがどちらかの部分集合である場合は、二種類あるから、25%+25%=50%なのである。しかし、互いに別の集合である場合は1種類しかないから、25%なのである。よって、正しくてかつ解決策である場合の方が確率が高いのであり、もし、イギリスがEUを離脱した理由が、正しくないものであればあるほど、それがまた解決策である場合の確率もまた高くなるという事である。なぜなら、全部の種類を分布図にしてみると、[正しくて解決策である]場合と、[解決策でかつ正しい]場合と、[正しくて解決策でない]場合と、[正しくなくて、かつ解決策である]の4種類があるからである。これを見ると、正しい事より、解決策である事の方が数が多い。よって正しければ正しいほど、それは解決策でない確率は高くなるのである。よって逆に正しくなければ正しくないほど、それは解決策である確率は高くなるのである。よって結論として、正しくて解決策であることよりも、正しくなくて解決策である事の方が大きいのである。よって正しくない選択をすればするほど、それは解決策に近づいていくという事になる。よって正しいことは解決策より大きく、解決策は正しい事より小さいという事になる。これを[正しさの矛盾の法則]と言う。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

隣人を大切にする人は、実は自分自身を大切にしている人なのである。

2.隣人を軽視する人は、実は自分自身を軽視している人なのである。

神エホバに信仰を持っている人間は、人生に対する真のオプティミスト、すなわち、真の楽観主義者であり、根明(ねあか)人間なのであり、積極的行動を起こす、自立人間なのである。

[理解する]ことの系図

(できる)の5要素

(聞くこと)ができる。→(学ぶこと)ができる。→(習得すること)ができる。→自分が学んだ事柄を(教えること)ができる。→よって、そうして初めて(理解すること)ができる。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

闇を呪うより、まずロウソクに火を灯しなさい。

私達の世界はまさに闇の中にある。疫病により多くの人が死に、今も苦しんでいる。多くの地震が起き、多くの人が死んだ。どこかしこも経済問題は深刻で、過労死による自殺や不況ゆえに仕事がない人も多くいる。自然災害は多発し、多くの人が被害を受けた。職場や学校では人間関係が悪くなり、イジメやパワーハラスメントによって、人々は心の病を抱えている。離婚率は上昇し、自分の家庭の中でさえ、自分の居場所がない。この絶望的な状況を見て、人々は嘆き、憤っている。まさにこの世界を憎み、悲観し、呪っているのである。しかし、あなた方はこの闇の世界を呪う前に自分自身が希望の光を灯すのである。まずこの闇の世界を他の人のせいにするのではなく、自分から変えていくのである。それは小さなロウソクの明かりに過ぎないかもしれない。しかし、停電の時はロウソクの火一つで食事をとる事もできる。人々は闇の中に一つの明かりが灯った事に気付いてあなたの灯したロウソクの火に集まってくるであろう。そうして人々は集まり合い、共にロウソクの灯りをつける事によって、光の度合いは増し、遂にはこの闇の世界全体を照らすものとなるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

愛の定義 2

愛とはそれ自体、計画して行うものでは、決して無く、あくまでも、思いがけない状況に対して、とっさに判断して行う親切の事を言うのである。すなわち愛が形式化され、教理化され、形骸化されて行われる、イベント化、もしくは、行事化、として計画されている時点で、それは既に愛ではないのである。それは既に死んでしまった愛である。我々は常に生きた新鮮な愛を隣人に示す事によって、初めて神からその行為を是認されるのである。例えば、中国における、新型コロナウイルスが突然思いもかけず出現した時、1人の医師は瞬時に判断して、自分が国に逮捕される危険性をも顧みず、人民のために、すぐにウイルスが蔓延する危険性を告発し、インターネット上でその情報をいち早く報告した。これは計画された親切ではない。あくまでも、思いがけない状況に対して、隣人に対する愛から、とっさに判断して彼は行動し、まさに生きた真の親切(愛)を示したのである。彼は必ず神によって復活させられ、良い報いを得るのである。それに対し、毎年、恒例で行われる、計画されたチャリティイベントや慈善事業や社会福祉や救済のための募金などは、最初は良い動機でなされていたものが、それが継続して行われていくうち、徐々にマンネリズム化して、もはや当初の新鮮な愛は片隅に追いやられ、ただ外見だけを繕ったイベントや祭りや祭礼や行事として宗教化、もしくは形だけの形式化(教理化)となってしまうと、そこにはただ無機質で事務的な義務的価値観による、うわべだけの親切になってしまうのである。それはもはや親切とは呼べるものではなく、逆に人々の負担でしかなくなってしまう。よって我々は常に予期せぬ時に判断を迫られた場合、果たして自分を犠牲にして隣人に愛(親切)を示せるかを自問自答しよう。そのような愛(親切)こそ、神によって愛され、是認され、神によって良い報いを与えられる、あなた自身をいざという時に守ってくれる保護となるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

絶対のジレンマ

我々は絶対を絶対放棄する。よって絶対に放棄するのだから、我々は絶対を絶対放棄出来ない。すなわち、我々は絶対を少し放棄するか、我々は絶対を大部分放棄するかしか出来ない。すなわち我々は絶対をすべて放棄する事が出来ないのである。これを絶対のジレンマと言う。なぜなら絶対放棄するという事に絶対を使っているからである。よって絶対を絶対否定しようとしても否定する事に絶対を使っているから、絶対を否定する事が出来ないのである。