高田義裕の人生論

今日の格言

[存在する]とは無証明要素である。

[存在する]ということは無証明に存在する。なぜなら、たとえ、[存在する]事が存在しなくても、それは言い換えれば、[存在する事が存在しない]事が[存在する]事であるからである。よって存在しない事も、存在する事も、すべて存在する事の要素なのであり、[存在する]事を全集合とすると、[存在しない事も存在する]という言い換えが可能なわけであり、すべての要素は、[存在する]と言う全集合に対する部分集合になるわけである。すなわち、[存在する]ということは、[有る]という言葉に置き換えられるわけであり、[無い]という事が[有る]事によって、初めて無も[存在する]のである。これは水道管に例えられよう。なぜなら水を出す事(有)も、水を出さない事(無)も水道管が存在して初めて成立する事柄だからである。それでは、[存在する]事でもなく、[存在しない]事でもない事は存在するか。これをメタΩとしよう。しかしここで、メタΩが存在しようが、メタΩが存在しまいが、それらはすべて、[存在する]事の要素であり、部分集合であるから、メタΩは存在する事になる。それでは、メタΩでない、アンチ(メタΩ)は存在するか。しかし、ここでも、アンチ(メタΩ)が存在しようが、アンチ(メタΩ)が存在しまいが、それらはすべて、[存在する]事の要素であり、部分集合であるから、アンチ(メタΩ)も存在するのである。これが無限に続く。よって、[存在する]事を超えたメタ[存在する]があっても、それはすべての事を全集合とすると、それらはすべて、[存在する]という部分集合に含まれる事になる。これは面白い事である。なぜなら、部分が全体を含んでいるのだから。よって[存在する]という次元において、部分は全体よりも大きいのである。また全体は部分よりも小さい。すなわち部分が全体を内包しているのである。

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