高田義裕の人生論

今日の格言

本来、すべてのあらゆる問題は心の変化だけですべて解決出来ること。すなわち、向こう側(問題側)が変わるのを期待するのではなく、自分の方から心を変化させる事により、向こう側(問題側)に対する印象を別の視点に変えるという事である。例えば、突然のトラブルにより、自分の全財産を失ったとしても、その失った欠落感に浸って苦しみ続けるのでは無く、自分の心の視点を変えて、すべて失ったのだから、これを契機にまた新しい人生の出発点に立ったのだ、と前向きに考えるのである。また、交通事故で子供を失った場合、その子供を失った喪失感に浸って苦しみ続けるのでは無く、自分の心の視点を変えて、あの子を失ったおかけで、私は一生、我が子の事を彼が生きている時以上に愛する事が出来る、心の若さを得られた、と思って前向きに考えるのである。人は愛する人が死んだ時、その人が生きている頃よりもその人を愛する事が出来るからである。そうして一生その失った人を思い続ける事により、心は老化する事無く、心の若々しさを保つ事が出来るのである。すなわち、どんなに酷い目に遭っても、生きている限り、希望はあるのである。全財産を失ったからといって、あなたの人生まで失われたわけではない。あなたはそれでも生きていかなければならないのである。子供を失ったからといって、あなたの命まで失われたわけではない。あなたはそれでも生きていかなければならないのである。人は生きている間、希望がある。なぜなら、私達は本来、利己的であるからである。利己的であるとは、例えば、自分が悪い事をしても、自分を憎む事はしないという事である。それは自分が他の人の悪口を言っても、反省しないのと同じである。よってたとえ全財産を失おうとも、我が子を失おうとも、それは正しいあなたが正しく悲しんでいるのではなく、利己的なあなたが利己的に悲しんでいるに過ぎないからである。そう、あなたが悲しんでいるのは、全財産を失ったという、欲望が遂げられなくなったという利己的な意味で悲しんでいるのであり、我が子を失ったという、自分にとって今まで漠然と抱いていた利己的な人生経過がうまくいかなくなったという意味で悲しんでいるだけだからである。そう、我々は悲しむ時、誰から見ても同情出来る、正しくて客観的な理由で悲しんでいるわけではないからである。それは、多分に、誰から見ても同情出来ない、身勝手で、主観的な理由で悲しんでいるからである。よって人は悲しむ時、自分の悪いところ、すなわち利己的な意味で失いたくない心の甘さにダメージを受けた故に悲しんでいるのであって、もし、あなたが利他的で正しい事柄の故に悲しんでいるのであれば、あなたは喜んでいるはずだからである。例えば、あなたが不当に扱われ、差別を受けているとする。その意味では、あなたは誰から見ても同情出来る正しい立場にいるのである。そしてその不当で不公正である立場を失った場合、あなたはそれを悲しむのではなく、むしろ喜ぶのではないか。そう、私達が悲しむのは、自分の方に非があるくせに自分は正しいと思っている事を否定されたから悲しんでいるのである。そう、私達が喜ぶのは、自分の方に非がないのに自分は間違っていると思っている事を否定されたから喜んでいるのである。よって、人よ、辛くて悲しい目に遭った時は、自分の閉鎖的な利己的価値観に囚われて孤独に悲しむ事をやめよ。むしろ悲しい時ほど、その悲しさをまず周りの人達にその苦しみの内を吐露すること。そう、他の別の価値観を持った人たちと共に共有してもらうのである。すると、それまで自分がいかに自分にしか通用しない小さな世界に囚われていたか、という事に気付くであろう。そして他の人のからの慰めの言葉や、自分では思いもしなかった別の価値観や視点からのアドバイスを受ける事によって、いかに自分の悩みというものは小さく、そしてこの世の中はいかに自分より大きくて広いものなのだろうか、と悟る事が出来るし、自分の都合という自分の壁を取り壊す事が出来、そこには新たな自由で広い世界という希望が開かれるからである。

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