高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

(神の見えない特質)

不信論者は、こう言う事であろう。神を信じろだって。私たちは神を見た事もないし、もし神がいるのなら、私たちにその姿を見せて欲しい。そうすれば、私たちも神の存在を信じよう、と。しかし、はっきりと言っておくが、神が見えないという事が神を信じない理由とはならないという事である。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、使徒パウロによるローマ人への手紙1章20節、[というのは、神の見えない特質、すなわち、そのとこしえの力と神性とは、造られた物を通して認められるので、世界の創造以来、明らかに見えるからであり、それゆえに彼らは言い訳ができません。]ここで聖書はなんと答えているだろうか。神とは存在しないから見えない、とは言ってはいない。むしろ神が見えないのは神の特質であると言っている。では、特質とは何か。それは神が見えないのは、神の神性ゆえであり、その神性とはとこしえの力であると述べている。すなわち、もし、神が私たちに姿を見せても、信じない者は信じないのである。彼らはそれは何かの幻覚だ、と言うであろう。すなわち、神を信じる、信じないは、見えるとか、見えないとか、という物理的に依存していない。すなわち、神を信じる、信じないは、その人の心の状態(精神)に依存しているのである。よって、良い習慣を持っている者は、たとえ、神が見えなくても、神を信じるであろう。なぜなら彼らは神を信じたいからである。なぜなら、自分の業を褒めてもらいたいが為に。しかし、日頃から悪い習慣に耽っている者は、たとえ、神が見えても、神を信じないであろう。なぜなら彼らは悪い習慣のゆえに神を信じたくないからである。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、ヨハネによる福音書3章20節,イエスキリスト御自身が語られた言葉。[いとうべき事柄を習わしにする者は、光を憎んで、光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。]すなわち、神は心で見るものなのである。私たちも目には見えない(心)というものが確かに存在する事を暗黙のうちに了解しているではないか。すなわち神はいないと言う者は、心の中で心は存在しないと言っているも同然なのである。あなたは神という居心地のいいソファに寝そべりながら、私にとってソファは存在しないと言っているに等しいのである。なぜなら、すべての者は神によって存在し、神によって世話を受けているからである。あなたは世話を受けている人に対して、あなたは私を世話していない、と言えるだろうか。それは全く道理を理解していない気違いじみた精神状態なのである。

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