高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

我々はなぜ生きているのだろうか。自分らしく生きるために生きているのか。幸せになるために生きているのか。自分の欲求を満たすために生きているのか。楽しく愉快に過ごすために生きているのか。確かにそういう面もある。聖書にこう書いてある。旧約聖書、伝道の書3章12と13節、[わたしは、人の生きている間に歓び、良いことをする以上に彼らにとって良いものは何もないことを、また、人はみな、食べ、まさしく飲み、そのすべての骨折りによって良いことを見るべきであるのを知るようになった。それは神の賜物なのである。]すなわち、人は汗して働き、その骨折りによって稼ぎを得て、飲み、食べ、その労働の代価として報いを得ることが神の賜物であると述べている。しかし、もっと深くて深刻な理由がある。それは神の子供であったアダムとエバが神の支配の正当性に反逆し、罪人となった。それで本来、私達人間は神のパラダイスで永遠の命を得て、何の苦しい労働もせずにそのパラダイスを存分に楽しむはずであった。しかし、神から反逆したおかげで、我々は毎日、非常な苦しみの強制労働を通して日々の生活の糧をかろうじて得ているという状況にある。まさに聖書にこう書かれてある。旧約聖書、創世記3章19節、[あなたは顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る。]そう、我々、神に対して反逆した人類は非常に苦しい思いをしてパンを食べ、そうして、我々はもともと塵から造られているから、いずれ塵に帰るのである。すなわち死ぬという事である。この惨めで悲惨な状況の報いを刈り取った人間はその前には絶望しかなかったのである。しかし、神は私達、罪深い人間を御子イエスキリストを贖いの犠牲として捧げることにより、この悲惨な状況から我々を救い出す事を決意されたのである。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、ヨハネによる書3章16節、[というのは、神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで、永遠の命を持てるようにされたからです。]すなわち私達は神の過分のご親切により、この苦しみの強制労働から解かれて、再び永遠の命を持つ機会が与えられたのである。そして、もう1つ大事な事は、人類を支配するにふさわしい方は神エホバである、という神の支配の正当性を我々は自分の行いを通して立証しなければならないのである。すなわち私達が生きているのは、自分達が好き勝手に生きるためにではなく、神によって私達が救いに至るよう励むために生きているのである。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、ペテロの第二の手紙3章9節、[エホバはご自分の約束に関し、ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ、ひとりも滅ぼされることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので、あなた方に対して辛抱しておられるのです。]そうである。この人類社会の営みが存在するのは、私達が売ったり買ったり、嫁いたり娶ったり、食べたり飲んだりするために存在しているのではなく、ただ神がすべての人間が悔い改めて滅ぼされずに救われて欲しいがためにその存在を許しておられるのに過ぎないのである。よって私達は何を食べ、何を着るのかなどと心配するのではないのである。まさに聖書にはこう書かれてある。新約聖書、マタイによる書6章31から33節、[それで思い患って、わたしたちは何を食べるのか、何を飲むのか、何を身に着けるのか、などと言ってはなりません。これらはみな、神を信じない諸国の人々がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天の父は、あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。ですから、神の王国と義をいつも第一に求めなさい。そうすれば、これらほかのものはみなあなた方に加えられるのです。]そうである。私達は何にせよ、すべてのものに優先して神の王国をまず第一に求めるべきなのである。神の王国とは例えれば、人間が生きる上で欠かせない空気のようなものであり、空気が無ければ人は呼吸できずに死んでしまうのである。よって神の王国とは私達にとって生きるための必需品なのであり、贅沢品では決してないのである。よって人はまず食べなければ、生きていけないように、私達人間の食べ物である神の王国をまず第一に求めなければならないのである。

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