高田義裕の人生論

今日の格言

倫理学序説

倫理の等価交換性は常に成り立っているか?

一見、この世の中は公平ではなく、不公平だらけな気がする。しかし、やはりこの世の中は本質的に公平に出来ており、すべての者は自分が汗して働いた分しか得られないのである。すなわち、表面的には不平等に見えても、本質的には皆、平等なのである。これを倫理の等価交換性という。例えば、自由とは何か?それは最初に束縛状態であった環境から自分を解放することである。例えば、生まれつき、貧しい家庭に生まれ、その日の食物にも事欠く人物がいたとする。それで、その人は身を粉にして働き、貧困という束縛から遂に大金持ちになり、貧困から脱出した。そう、この状態こそが自由になったということなのである。そして、その人は結婚し、子供が生まれ、その子供は生まれつき、なに不自由なく育った。そして我々はその子供の恵まれた境遇を見て、それを妬み、何の苦労もせずに裕福に暮らしている人達と自分達の境遇を比べて、本当に世の中とは不公平なものだ、と言うのである。しかし、その子供は果たして本当に自由な立場にいるのであろうか?いや、決してそうではない。なぜなら、時を経て、その子供が成人して大人になり、仕事につくことになった。その親は当たり前のように高価なスーツや、高価な靴、高価な腕時計を子供に身に付けさせて家から送り出した。すると、職場の同僚達は彼の身なりを見て、皆、彼に対して妬みの感情を覚えた。しかし、ある時、ある1人の同僚が自分の身に付けている安い電池の時計が止まったことに舌打ちし、その子供に今、何時か尋ねた。しかし、成人した子供は生まれつき高級品に囲まれて育ったため、なんの悪気もなく、こう言った。今は11時です。私の時計は自動巻きなので止まることはありません。これを聞いたその同僚は、高価な自動巻き腕時計を自分に自慢したと思い込み、腹を立て、彼に対して恨みを抱いた。そして、その腹いせから、他の同僚達と一緒になって、事あるごとに彼をいじめた。そうして、その子供は次第に精神的に病み、遂には仕事場に行きたくなくなり、仕事を退職してしまった。その後、その子供はそのいじめがきっかけで、自分の自宅に引きこもり、社会的不適幼児になってしまった。どうであろう、生まれつき、なに不自由なく育っても、その子にとっては裕福さが仇となり、社会的人間関係にうまく順応できなかったのである。すなわち、家庭の中では自由でも、一歩、社会に出ると、不自由さを経験しなければならなかったのである。よって、彼が越えなければならない壁は、周りの人達からのいじめという束縛から自分を解放して、社会にうまく順応し、精神的貧困から脱出しなければならないのである。それが、彼にとっての真の自由を意味するのである。よって、この世の中は、見た目には不公平に見えても、本質的には公平なのである。金持ちには金持ちなりの、貧乏人には決してわからない深刻な問題を抱えているのである。この意味において、結局、人は自分が汗して働いた分しか自由を得られないのであり、結論として、倫理の等価交換性は、常に成り立っているということである。

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