高田義裕の人生論

今日の格言

我々の世界は本当に存在しているのか?

存在しているという事はどういう事なのであろうか?例えば、腕力というものを基準として考えるならば、ジョンソン氏が腕力において、スミス氏には敵わない場合、あくまでも腕力において、スミス氏にとって、ジョンソン氏は存在しないにも等しいであろう。しかし逆に、ジョンソン氏にとって、スミス氏は強力な存在であろう。また、1は0よりも大きいから、0から見れば、1は確かに存在するが、1000にとっては1はあまりにも小さいので、無視できるほどに存在しないと言っても良いだろう。このように、存在すると言えるためには、ある物体に対して、互いに共通な基準という視点が明確でなければならないのである。すなわち、共通な基準という視点、例えば、腕力で言えば、スミス氏はジョンソン氏よりも遥かに存在しているのに対し、基準の視点を全く切り替え、頭の良さという尺度において、ジョンソン氏の方がスミス氏より断然、賢いのであれば、頭の良さという基準では、スミス氏はジョンソン氏よりも遥かに存在しにくいと言えるのである。このように、存在するという事は、測りにかける性質によって、存在したり、存在しなくなったりするのである。要するに、存在するという事は、あくまでも、ある2つ以上の任意の性質における相対的に比べた場合の大きさや量の大小という濃度によって、変幻自在に変化する不安定な化学反応のようなものでしかないという事である。では、この私達の生きている全世界を見渡して見れば、万物すべてに共通する普遍的、真理的、絶対的基準の視点など存在するであろうか?そんなものは存在しないのである。なぜなら、もし、すべての人間に当てはまる黄金律が存在したなら、我々の世界はもっと秩序正しく、過ごしやすい平和な世界であるはずである。しかし現実は、もっと曖昧模糊としており、人類は共に一致するどころか、様々な憶測や、思想、思考、情報で混乱しており、人間社会は、精神的、もしくは身体的暴力で溢れかえっているからである。よって、結論として、この我々の住む全世界は本当に存在しているかは、全く分からないのであり、全創造物を造った創造主という神の存在でも認めない限り、この全世界はまだ、生まれてもいないのである。

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