高田義裕の人生論

今日の格言

神への信仰と強迫観念

神という存在には、常に従順さが求められる。すなわち、神の掟を守り行う事が責務とされる。ここに1つの落とし穴がある。例えば、神を信仰している者は皆、善行を行わなければならないというのは、通例であり、典型的な例である。よってもし、善行を行わなければ、神からの祝福は断たれるというわけだ。よって、信者は神が守り行わなければならない務めを軽視したり、実行しなければ神からの祝福を失ってしまうと感じる。いや、たとえ実行しても、それを形式的に行い、真心が伴っていないと本人が自覚しているなら、その信者は何か後ろめたい気持ちになり、自分が神に対して悪いことをしていると感じ、不安に襲われる。これは正に強迫観念に駆られている証拠である。もし、悪いことが自分の身に起こったならば、それは自分の信仰心が足りないから、自分の身に不幸が襲うのだと思い込み、さらに神に対して負い目を感じ、無理をし、自分を責め、もがき苦しむ。そう、その強迫観念が信者を虜にして信仰中毒に陥るのである。これは神の御意志に調和して行動していた頃の過去の成功体験が大きければ大きいほど、その強迫観念も大きくなるのである。これがカルト宗教の洗脳の恐ろしさである。しかし、ここで勘違いしてはならない。真の神は、あなたが神の掟を守ろうが、守らないだろうが、あなたに懲罰を与えたりは決してしない。真の神はたとえあなたがどれだけ悪い状態にあろうとも、常に分け隔て無くあなたを祝福してくださっているのである。よって、あなたの忠誠心が足りないから、もっと神を信じなさい、とか、神のために、私産をすべて投げ出しなさい、そうすれば救われます、などと言う者達に用心しなさい。彼らは正に羊の皮をかむった狼だからである。正にあなたの弱みや、弱点に付け込んで金品を奪う悪魔の手先達なのである。真の信仰心とはそのようなものではない。しかし、こうも言える。強迫観念に駆られているうちはまだ、ましであると。なぜなら、そこには神に対する良心がまだ残っているからであると。もし、悪いことをしても、神に対して何の負い目も感じないのであれば、それはもはや信者ではなく、悪いことをしても平気な悪人と同じであると。では、本当の信仰心とは何か?それは神を愛することである。神はその様な辛辣な神ではないことを信じる事であり、たとえ、神に対する信仰の故に災いに遭ったとしても、神のせいにはしない、と言う強い決意であり、神はいつでも善良な方であることを信じぬく勇気の事である。正に聖書にこう書かれてある。ヤコブへの手紙1章13節、試練に遭うとき、誰も私は神から試練を受けている、と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありませんし、そのようにして、ご自身が誰かに試練を与えることもないからです。むしろ、各々自分の欲望に引き出されて誘われることにより、試練を受けるのです。

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