高田義裕の人生論

人間には闘争本能がある。

人間とは、争いを好む。誰しも本心では平和を望んでいる。しかし、自分の利益となる事に障害が及ぶと、とたんに怒り出す。すなわち、本性を剥き出すのである。すなわち、自分の利益と相手の利益が一致している前提で平和を望んでいるだけなのである。それは本当に平和主義者とは言えない。真の平和主義者とは、たとえ自分が不利になろうとも、平和を優先する者であるからである。もし、平和になる事で、あなたの貯蓄が減るとしたら、あなたはそれでも平和を望むだろうか。もっと言えば、あなたは自分の命を犠牲にしてまで平和を愛しているか、という事である。そうでは無いだろう。平和とは、自分の命が安全である事の定義であり、本来、自分の命を犠牲にしてまで守る平和など無いからである。要するに、平和は人の数だけあるという事である。すなわち、各々の平和の意味とは、各々の利害の一致に他ならない。よって、すべての人間の利害が一致して初めてみんなが仲良くなれるのであり、各人の利益は個性が違う分、すべて一致するはずが無いのである。すなわち、すべての人が平和になるなど、論理的にあり得ないのである。戦争とは、自分の命が脅かされた時、自分の命を守るために戦う命を懸けた戦いであるからである。私達にとって命がすべてならば、それを守るための戦争は無論、正当化されてしまうからである。これこそ戦争が決して無くならない原因の1つである。よって、人間とは、元々ばらばらな生き物であり、元からまとまれないのである。たとえ、奇跡的に全人類に平和がもたらされても、それは決して長続きしないだろう。例えば、西暦2025年の現在、全世界に平和が訪れたとしよう。しかし、人間とは、再び些細な事で喧嘩を始めるのである。昔は自分の命を守るために人は戦争をした。遥か未来の人間は驚くだろう。昔の人はなんと忍耐強かったのだろうと。我々未来では、相手の服の柄が気にくわないだけで戦争をしているのに、と。このように、人間とは、争う理由が無くなれば、自分達で争う理由を新たに造り出してまで争う生き物なのである。

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