高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)       人を救う事の難しさ

人を救う事は難しい。最近では、孤独死という言葉が日本では定着しつつある。誰にも自分の存在すら知られずに、貧困の末、アパートの一室で腐乱死体で発見される。遺体の後始末も誰も引き取り手が無く、アパートの所有者とその死人の親族の間で言い争いになる事はしょっ中である。なぜ彼らは社会的に最低限の生活を保護する国の機関や福祉の受け皿があるのにそれを利用しないのか。それはひとえにプライドである。いい歳になって、自分はそれまでの人生を自分なりに必死に生きて来たというプライドが社会福祉に頼るのを拒むのである。すなわち、心が素直で謙遜でなければ、見ず知らずの他人に、助けてください、というその一言が言えないのである。彼らは助けを必要としていることを十分認識しておきながらも、頭を下げて助けてくださいという事を恥だと思っている。そんな自分がみっともない恥を掻くくらいなら、死んだ方がマシだと思うのである。すなわち人の善意を素直に受け入れられる心の状態になっていないのである。これこそ問題であり、本当に助けを必要としている本人自身が助けを拒んでいるという自己矛盾の問題があるのである。よって、人を助けたいと思っても、本人が助けて欲しいにもかかわらず、あくまでも自分の自尊心が邪魔をして、助けに来てくれた人に悪態をついたり、逆に暴力まで振るってしまうのである。当然助ける側も人間だから、そんな事をされては助けてやろうとする気持ちも冷めてしまう。ここが人を救う事の難しさなのである。もし、その様なプライドがある人達が奇蹟的に相手の言う事を素直に聞いて、援助を受け入れたとしても、そこからがまた大変である。彼らの孤立した理由は悲惨なものであり、人間としての扱いを受けず、奴隷の様に扱われて来たから、物凄い鬱憤とストレスと不満を体中に溜め込んでいる。当然その人は援助する側の人に今まで溜まり溜まった不満を暴言や暴力という形で吐き出す。暴言や暴力を受ける側の忍耐もそこで尽き果て、しまいには見捨てざるを得無くなるのである。まさに助ける側も命懸けであり、まるで完璧で神の様な忍耐強さを求められてしまい、助ける側も心身を病んでしまうのである。よって人が行える援助も物質的な面では事足りても、精神的な面ではどうしても無理があるのである。よって、私達罪深い人間は、助ける側であろうと、助けられる側であろうと、唯一真の神であるエホバに依り頼み、その方の前で常日頃から謙遜で素直な心を培う訓練をし、いざという困った時には、恥を物ともせず、率直に助けて下さい、と正直に他の人に言える様な精神状態を保っておかなければならないのである。それは誰のためでも無い、自分のためなのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。