高田義裕の人生論

今日の箴言

あらゆるすべての物は、それが存在するだけでエネルギーを消費し、エネルギーを奪うものであり、個体それぞれが1つのストレス、すなわち圧力的存在、もしくは消費的存在であると言えるのであり、およそ、この万物すべての存在において、他の犠牲を受けずにそれだけで自足しているものなど決して無いのである。よって、すべては利他的犠牲愛、すなわちアガペーによってその存在を許されているのである。その最たるものが、エホバ神という愛の存在であり、エホバ神は御自身1人ですべての存在を生かし、支えておられるのである。

2.人は皆、すべてのものを後にして、すべてのものを売り払って、すべてのものを諦めて、すべてのものを最後にして、すべて自分の誇りとしていた頼みのものを捨てて、すべての価値あるものをあえて放棄して、神エホバの真実であり、真理である全く信頼でき、全く確信出来る神の御言葉を競って買わなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

お金という制度がいかに効率が悪く、無駄なエネルギーを消費し、地球環境を破壊しているかお分かりだろうか。日々食料品や衣服や数々の日常製品を作っている企業は、毎年どのくらいの食料品や衣服や数々の日常製品が売れるかを計算して物を作るのであるが、毎年膨大な量の売れ残りが発生する。それでは企業はその売れ残りをどうするかと言うと、まだ十分食べられるし、着れるし、使える新品の食料品や衣服や数々の日常製品をすべて破棄しているのである。それらはすべて産業廃棄物として処理され、ほとんどリサイクルされずに、そのまま捨てられる。その捨てられる受け皿は、発展途上国などの貧しい国々へと丸投げされる。なぜなら、産業廃棄物をリサイクルするための費用は莫大なものとなり、そんなところに環境保全の為のコストをかけると企業の利益は赤字になってしまうからである。これでは当然の様に地球環境は破壊される。また、売れ残りの量の製品を作った分だけの貴重なエネルギーも無駄に浪費した事になる。無駄なエネルギーを使った分だけ、石油や石炭などの原料を燃焼させたわけだから、その分を燃焼させたために発生する二酸化炭素や有害な物質もそのまま地球環境に放出される。これによってますます地球環境は破壊され、無駄に消費され、疲弊していくのである。それなら、その売れ残りの食料品や衣服や数々の日常製品を貧しい人達に無料で与えれば良いではないか、と言う人もいるかもしれないが、もしそうしたら、ひどい思いをしてお金を払って食料品や衣服や数々の日常製品を購入した人達にとっては、裏で無料で貰える人々がいては全く不公平であり、わざわざ苦労してお金を払うのが馬鹿らしい事になってしまう。すなわち貨幣制度そのものの根幹が揺らいでしまうのである。人々は皆、富を追い求め、儲けたいという欲望の追求を辞める事は決して出来ないから、貨幣制度も辞める事が出来ない。すなわち愚かな貨幣制度を維持するために地球環境の自然や生態系が犠牲にされているのである。よって、お金というものは甚だ不義なものであり、あなた方はお金など決して愛してはいけない。所詮お金などただの紙切れに過ぎないのである。現在、地球環境は破壊されている事によって、世界規模で大災害などの異常気象が頻繁に起きている。これは人間社会の儲けたいという強欲と貪欲さに対する自然からのしっぺ返しであり、人間自身が生じさせた行為の報いを人間自身が刈り取っているのである。すなわち、自然災害の甚大な被害の原因は人間自身にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間を老化させる原因とは何か。それは人が人生を重ねるうちに、自分はこれだけの偉業を成してきたという自負心が人を老化させるのである。もし人が人生を重ねる中で、様々な知識や知恵や技術や才能を培ってきた事を少しも誇らないなら、人は永遠に老化する事は無いのである。すなわち、永遠に若いままでいられる。すなわち、永遠の命である。しかし、古今東西、自分の築き上げて来た努力や労力によって得た富と栄光と地位を誇らずにいた人間は1人もいないので、すべての人間は必ず衰え、老化し、いずれは死んで行くのである。

2.本当の謙遜さとは、相手の人間の立派な努力や才能を心から本当に認めて凄い、と言って褒めてあげられるかにかかっている。すなわち相手の事を素直に尊敬出来る人こそ謙遜な者なのである。相手の凄さを認める事の一番のアドバンテージは、それを言われた相手の人が本当に喜んでくれ、あなたの良き友達になってくれる事である。

3.人間にとって親友とはいつ作るべきか。それはまだ、経験不足である故に素直で純粋な心を持っている10代までに作るべきである。なぜなら30代40代を過ぎると、人はもう既にいろんな経験をして、人には言えない事情を必ず持っている。よっていい歳をして親友を作る事は出来ない。なぜならあなたがよほど相手の人間のために自分の命を投げ出してまでの親切を示さない限りは、相手の人はあなたに心を許してはくれないからである。あなたも自分の命を投げ出してまで親友を得たいとは思っていないだろう。楽して親しい人間関係を持とうとしてもそれは浅はかで虫のいい話なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

実際的な知恵として、相手の人間に自分の思い通りに動いてもらおうとする為には、あなたは相手に正しい事を助言するよりも、相手の人間のほんの小さな長所をも見逃さずに褒めてあげる方が人はあなたの言う事をよく聞いてくれるであろう。

2.本来万物すべては、死の淵へととうとうと流れ入っていくブラックホール並みの強い引力によって死へと突き進んでいるのであり、しかし、神エホバはその死へと引き込む力よりも遥かに強い引力によって流れを逆流させておられ、万物が死へと呑み込まれるのを引き止めておられるのである。またその死と抵抗する流れが止まってしまわない為に、無尽蔵に無限に流れを永遠に起こしている能動的で活力ある神なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

神エホバを認める事によって、我々人間は初めて、我々が成し得る事で成し得ないものは無いという事もまた知るのである。

2.新約聖書のテモテへの第二の手紙3章16節にある、[聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益です。]とある様に、聖書を読めば、自分の心の傾向がいかなるものかが暴露され、すべての問題は自分自身の心と行動にある事が分かるのである。もし聖書を読んでも何も感じない者は、聖書が潔白である以上、その人の心は病んでいるという結論を出すしか無いのである。

3.人は自分の考えと他の人の考えとに同時に従えないのと同様に、人は自分の考えと神の考えとに同時に仕える事は出来ない。どちらか一方を捨て、他方を拾うか、どちらか1つを重んじ、もう一つを軽んじるかのどちらかしか無いのである。

4.神の言葉、聖書が存在する理由は、それによって人々を裁くための論拠とする為では決して無く、世が神の言葉、聖書を通して救われるためなのである。すなわち、聖書の聖句が各々の心の良心に推薦しているのである。むしろ、自分や他の人を裁こう、裁こうとしているのは、自分達の心の中にある優越意識であって、それは実は、悪魔サタンに類する事柄であり、各々自分の欲望により誘われて試練を受けるのである。

5.神エホバとは、厳しい裁き人では決して無く、神エホバとは、愛であり、心のへりくだった謙遜さがエホバ神なのである。

6.すべての基盤として、人がたとえ、どんなに素晴らしい事柄を知りえて、それを行っていたとしても、その気持ちに愛が無ければ何の意味も無く、また心がけが良くなければ何の意味も無く、また謙遜で無ければ何の意味も成さないのである。

7.はっきりと言っておく。およそこの世の中に他の生き物(人)からの犠牲を受けずに動いている存在など決して無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

イソップ物語の北風と太陽の話の結末でも分かる様に、結局は、人の心を動かすものは強要される正しさでは決して無く、純粋な愛しか無いのである。

2.独創性とは、何も無いところから有を生じさせる様なものなのでは決して無く、すべて既にあるものの中から、それまでは何の関連性も無いと思われていたもの同士を結び付ける事によって生じるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真の自己肯定感とは、自己否定を肯定出来る事である。また、真の自己否定とは、自己肯定を否定出来る事である。よって、自己を否定出来る者は自己を肯定出来る事に等しい。すなわち、自己否定を出来ない者が自己肯定を出来ない者なのである。この世の中には、せっかく神から与えられた命を楽しめないで、持て余している者がいっぱいいる。そう、せっかくの自分の人生を謳歌出来ないのである。そういう人は大体、自分の事が好きでは無い。自分に自信を持てないから、自尊心がすり減っているのである。そういう人は自分を否定的に見ていると思いがちだが、実際には逆である。本当に自分を否定出来る者はまた同時に自分を肯定出来る者なのである。生きる事が辛くて自殺願望がある者は、自己否定出来ない者なのである。しかし、自己否定出来る者は自分に自信があり、自信の命を楽しんでおり、自分の人生を謳歌している。こう言った意味においては、大半の人は自分の人生を謳歌していないのである。なぜなら自分の事を否定出来る者が何処かにいるだろうか。何処にもいない。しかし、あえて自分の事を否定出来る者は自分を客観的に見るだけの心に余裕がある者なのであり、他の人から自分の事を否定されれば否定されるほど高笑いが出来る者なのである。逆に自分の事を否定出来ない者は、あえて自分の事を客観的に見る事が出来無くて、心に余裕が無く、自分を主観的にしか見れない人なのである。そういう人ほど他の人から自分の事を否定されれば否定されるほど落ち込んでしまう人なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバの言われる言葉を受け入れ難いと感じている者達に対して言える事は、神エホバの言われる言葉には必ず、最もな(正当な)理由があるという事である。

2.すべて人間の行う偉大な発見や発明は、神エホバの偉大な業を告げ知らせる事になるのである。

3.最も自由な主張とは、他の外的制限をすべてを取り除いて、後はその人自身の気持ち次第が、その人にとっての唯一の外的制限であるという状態にまでろ過する事である。この定義で言えば、我々の意見なり主張はすべて何らかの外的制限を受けている上で発する言葉であり、その意味においては、我々は少しも自由な主張などしていないのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは自己肯定感が低いか。それは素晴らしい事である。自己肯定感が非常に低い者は重度の鬱病であり、絶えず自殺願望があるので、それは良くないが、自己肯定感が強すぎる者も問題があるのである。なぜならその人は自分に自信があるから、ともすれば自信過剰になって自分は何でも出来る、という全能感に満たされ、根拠の無い自惚れを抱き、自ら逆境の中に身を投じ、自ら仕掛けられた罠にはまってしまうからである。その人は突然の災難と災いに必ず入り込み、それまで持っていた自己肯定感など吹き飛び、重度の鬱病になってしまうからである。しかし、日頃から自己肯定感が低い人は、慢性的な軽度の鬱病の様な状態を保っているので、決して無理をしないため、自らを逆境の中に陥れる事も決して無いからである。自己肯定感が低いという事は、悪く言えば、自分に自信が無いという事だが、よく言えば、決して慢心する事なく、自分の限度をわきまえている謙虚な人となれるのである。まさに中国の孔子の言葉にある様に[君子危うきには近寄らず、]なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ今は無くても、近い将来、人は必ず神エホバに従ってきたか、従って来なかったかの相違を再び見るのである。

2.人に語る時は必ず聖書を引用して通すこと。決して自分の意見を言うのでは無く、そうする者は、自分の知恵をひけらかしたいが為にするのである。

3.人が特に注意しなくてはいけない事は、最初の人間アダムが、神エホバから与えられた初めと終わりをきちんと定められた完全な素晴らしさを廉直に素直に受け入れず、まだ他に何か良いことが隠されている、すなわち、神は自分にまだ何か良い事を隠していると考え、よこしまな気持ちになって結局は反逆に陥った様に、はいは、はいを意味し、いいえは、いいえを意味する様にならなければならないのである。すなわち、複雑で難解な憶測を追い求めてやまないより多くの事を探り出そうという強欲に警戒しなければならないのである。なぜなら神エホバの真理とは、常に廉直で単純明解なものであるからである。