高田義裕の人生論

今日の箴言

人間の人生には誰でも等しく、苦しい部分と楽しい部分の2つの領域に分かれる。その比率は苦しい部分50%であり、楽しい部分50%であり、共に等しい。よって今まで人生を過ごしてきた時点で、格段苦しい経験も無く、比較的順調に生きてきた人間は要注意である。その人はいずれ突然、大きな災難と不幸に見舞われるだろう。なぜならその人は既に全人生に与えられている楽しい部分50%を使い果たしてしまったからである。残りは実に苦しい部分50%がまるまる残っているからである。逆に、今まで人生を過ごしてきた時点で、なぜ自分はこんなにも苦しい経験をしなければならないのだろう、と毎日苦しい日々で暮らしている者はいずれ突然、大きな幸運と幸福に見舞われるだろう。なぜならその人は既に全人生に与えられている苦しい部分50%を消化してしまったからである。残りは実に楽しい部分50%がまるまる残っているからである。すなわち、毎日苦しい日々を過ごしている者とは、少しずつ借金を返済している様なものであり、毎日が苦しい分、まるまる借金全額を一度に返す必要が無いため、突然大きな災難と不幸に見舞われる事は決して無いのである。しかし、人生をそれまで楽しく過ごしてきた者とは、ずっと最後まで自分が抱えている借金をそのまま返さずに利息だけ増え続けている状態であり、ある時点で利息で膨れ上がった膨大な借金を一度に全部返さなければならない事になるからである。そのため、物事が非常に順調にうまく進んでいたのに、突然、原因不明の病にかかったり、交通事故にあったりして大きな損失を被るのである。ならば、それを回避する術は無いものであろうか。それは1つだけある。すなわち、今人生を楽できている人は、その楽しさに身を任せてそれに流されるのでは決して無く、あえて自分をむち打ち、その楽な状態を捨てて、ハードルの高い目標を掲げて、あえて厳しい世界に飛び込むのである。その様に自分の方から苦労を求めて苦しい思いをする事により、自分が知らず知らずのうちに抱えてきた苦しい部分50%を消化していく事になるからである。その様にすれば、その人も少しずつ借金を返済している状態と同じ様になり、本来は突然、大きな災難と不幸に見舞われるはずの運命であったものがその災難を回避出来る事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は誰でも若いうちは自分の人生をいかに生きるか、などという重くて硬い哲学的な考え方を持って生きてはいない。ただ、漠然とその日の雑務に追われ、なんとなく生きているという感じが強いであろう。20代まではその様な感覚でも、[若さ]という取り柄があるから、それなりに生きていける。しかし30代を過ぎると、もはや世間からは若者とは思われなくなり、その日その日を深く考えず、無為に過ごしていると、まず、仕事の面で問題が生じる。それは職場の人間関係であったり、仕事の内容に対する不満であったり、仕事に対する自分の評価であったりが原因で、誰もがそこで大きな壁にぶつかるのである。大半の者はそこで、その仕事を苦しくても続ける事を止め、退職してしまう。なぜなら、まだ自分は30代だから、探せばいくらでも就職先はあると安易に考えてしまうからである。そして、あっと言う間に40代が来てしまう。そこで人は初めて気付く。自分は今まで何をしてきたのだろう。自分には何もスキルが無いし、これと言って他の人にアピール出来る専門的知識も無い。そこで人は慌てて仕事先を真剣に考える様になる。しかし、自分はもう若く無いから、自分の就きたい仕事がなかなか見つからない。それで仕方なくどこでも自分を雇ってくれる所に就職せざるを得なくなる。しかし、その職場では20代とは違い、年齢的に言って、上司は一人前の仕事が出来て当然だ、という態度で仕事の量と質を求めてくるから、本人にとってはそれはものすごく苦痛になる。もともと好きで入った職場では無いから、またここで壁にぶち当たり、仕事を辞めるか続けるかの選択を迫られる事になるのである。もしそうしなくても、職場の方から早期退職を求められる場合もある。ここで自分に屈して辞めてしまうと、ここから先はもう地獄である。その時には自分は既に貧困層の仲間入りをしており、仕事先も無く、あっても収入が不安定で、きつくて危険な誰もしたがらない仕事しか残っていない。ここで人はパートタイマーの仕事を幾つも掛け持ちして、なんとか生活を維持していかざるを得なくなる。しかし、給料は安く、仕事も激務のため、いずれは体調を崩し、仕事を続けられなくなり、また辞めてしまう。後は何も無く、路上で寝泊まりする浮浪者となってしまうのだ。この人の人生はどこから間違っていたのだろうか。それは20代からである。人は20代のうちから、自分の人生をいかに生きるべきかを深く考え、自分の就職先を真剣に探し、まだ若いうちから、自分に投資する、すなわち、自分を磨くために何かのスキルを身につけたり、自分のやりたい事をとことんやって、経験値と専門的知識をつけて自分という商品価値を高めて、将来の備えのために武装して来なければならなかったのである。そうしなければ、この世間という荒波の巨大な潮流にただ流されてしまい、最終的には自分の人生を自分では無く、全く第三者の他人が土足で入り込み、自分の人生の結末を、他人に決定されてしまう事になってしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰もが苦しさから逃げたい。できれば、一生楽して生きたい。しかし、苦しみから産まれたものしか真の価値は無い。例えば私達自身も私達の母親が生みの苦しみを経て私達を産んでくれたのである。仕事も辛い。しかし、その辛さから良いアイデアや発想やデザイン、優れた製品が初めて産み出されてくるのである。よって誰であっても、楽をしようと思うな。むしろ苦しみを追い求めてゆけ。苦しみを味わった者だけが立派な人間になれるのである。いじめを受けて苦しんだ者はその苦しみを通して、いじめられる側の心の内を理解出来る優しい人間になれるのであり、貧しさのゆえに明日の食物も無いほど苦しい経験をした者は、その苦しみを通して、食べていける事の有り難さを実感出来るたくましい人間になれるのであり、病気で苦しんでいる者はその苦しみを通して、健康というものがいかに素晴らしい事かを身に沁みて理解出来る思いやり深い人間になれるのである。その点、苦しい思いをせず、楽に生きてきた者は、他の人に対する同情心のカケラも無く、すぐに弱音を吐いて人々に対して暴力を振るい、感謝せず、いつも不平不満ばかり言って、全く幸福感が無いのである。すなわち、人は人生の途上において、苦しみを経験する事により、何気無い普通の生活がいかに有り難い事かを知り、何も無くても自ら足りてそれで満足する事により、初めて幸福感を味わう事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてその人の真の価値とは、既に持っている素晴らしい特質で決まるのでは決して無く、むしろ、自分に欠落していた要素を心掛ける事によって訓練された事により、初めて得られたもので決まるのである。よって悔い改める必要性の無い善人よりも、自分の悪い所を悔い改めて自らを訓練し、自分にある悪い部分と毎日戦っている悪人の方が、神から見てより価値があるのである。

2.聖書の創世記2章16節と17節にある、[園のすべての木から、あなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし、善悪の知識の木については、あなたはそれから食べてはならない。]と言われた神の言葉の意味は、[あなたはあなたの好きにしてよいのである。しかし、あなた自身がそれを放棄してはならない。]という意味だったのである。すなわち、神は人に何かを禁じたのでは無く、神は人に懇願しておられたのである。しかし、人は自分自身で善悪の知識の木の実を食べる事により、自分が自分の好きにしてもよい、という権利を放棄したのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

神によって確かに素晴らしさの全体は私達に与えられたが、その代わりに私達もそれに対して1つだけ与えるものがある。それは神に対して[従順]である事である。

2.真理が肉の体となって私達にも見える形で具現化して現れた存在が御子イエスキリストなのである。

3.神エホバ以外に1つですべての事を表す事の出来る様な、万能なものなど決して存在しない。よって私達は常に謙遜になって次の事柄を考慮に入れなければならない。すなわち、使う用途によって、方法も別に用意すべきなのであって、明確さを重視するなら、物事は顕微鏡のように部分的にしか見れないし、普遍性を重視するなら、物事は全体的に切り換えしなければならず、その時は明確さは犠牲にされるのである。すなわち全宇宙を見渡せる人は、小さな星1つ1つを正確に観察出来ないし、逆に非常に部分的に細かく正確に観察する為には、全宇宙という普遍性を放棄しなければならないのである。これは世界地図を見る事と同じである。飛行機が飛ぶ為には地図に直線的で正確な距離を測るためにメルカトル図法を用いる。しかし、メルカトル図法では、大陸の全体的な正確な形は歪んで表現されてしまう。逆に大陸の全体的な正確な形や位置を知りたい時は地球儀を用いるが、地球儀は曲線で表されるため、正確で直線的な距離を測る事が出来なくなってしまうのである。要するに1つですべての事を表現する事は神には可能でも人間には決して出来ないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

健康学

よく人間の体は冷えていると健康に良くないと言われる。かと言って冷たい物ばかり飲んだり食べたりしてはいけないという事にはならない。問題は、熱い物を食べた後に冷たい物を食べたりしてしまう事にある。普段冷めてしまった料理を毎日食べていてもそれは問題無い。何故なら人間の体は順応性があり、冷たい物ばかり食べていても、体が冷たい物を受け入れる事に慣れて順応してくれるからである。また普段熱い料理を毎日食べていてもそれは問題無い。それは、熱い物ばかり食べていると、体が熱い物を受け入れる事に慣れて順応してくれるからである。問題は、普段冷めた(熱い)物ばかり食べている人が突然、熱い物(冷たい物)を食べたりすると、体は冷めた物(熱い物)に順応していたのに予想外の熱い物(冷たい物)が体に入ってくる事で、冷たい物(熱い物)に免疫力があった体の状態がパニックを起こしてしまい、免疫不全を起こしてしまうのである。この時体は突然体の中に入ってきた物に対応する為に、物凄いエネルギーを消費してしまう。これでは体の調子が悪くなってもおかしくは無いのである。そのように体に余計な負担を毎日かける事によって、体の免疫力が弱まり、その弱った所に病原菌やウイルスがすかさず入り込み、癌やその他の病気を誘発する原因となるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

天の神は私達に御自身の独り子であるイエスキリストを贖いの犠牲としてその命を投げ打って下さったのである。例えば、あなたは自分の愛する子供を極悪人の犯罪者を牢から出す為にその命を犠牲に出来るか。決して出来ないし、したくもないはずである。なぜならそんな事をする義務など無いからである。しかし、神は極悪人の犯罪者である私達をこの世という牢獄から解放する為に御自身の子供を、そうする義務も無いのに差し出されたのである。これは出来る事の中で最大の事を神は私達の為にしてくれたのである。であるならば、日常の些細な事で思い患っているあなたの悩みなど神が聞いてくれないはずが無いでは無いか。心から神エホバに熱烈に祈り続けるなら、あなたのどんな不可能と思われる悩みをも神はあなたがそれを乗り越えられるように必ず助けてくださるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは自分にはどれだけの長所があると思っているであろうか。多分かなりの数があると感じているに違い無い。またあなたは自分にはどれだけの短所があると思っているであろうか。おそらくあなたは自分には短所など無いのでは無いか、今の自分はこれで普通だから、と感じているのではないだろうか。しかし実際にはあなただけではなく、私も含めて、すべての人間は短所だらけなのである。私達は優柔不断であり、怠け者であり、わがままであり、誇り高く、高慢であり、嘘も平気でつくし、短気であり、約束した事に不忠実で、相手の不満ばかり言っているし、ろくなものではないのである。普通この状態では、厳しい人生を渡って行けない。しかし、私達は何とかこうして生きている。それは何故か。それは私達一人一人に、神がただ1つだけ良いところを与えて下さったからである。例えば、あなたには人に何を言われてもほとんど気にならない鈍感な性格の持ち主かもしれない。悪く言えば無神経な人とも言えるが、良く言えば、並大抵の事ではへこたれない図太い精神力を持っているのである。また別の人は、周りの人達の心の状態を機敏に感じ取る神経の細かい持ち主かもしれない。これは人の気持ちがよく分かる分、気を使い過ぎてノイローゼになってしまう可能性もあるが、その人はその方向には行かず、周りの空気をよく読んで、上手な人間関係を保つ能力を持っている。そうである。私達の99%は悪く、1%だけ良いものを持っているという状態なのである。よって私達はその1%の良いところがあるお陰で何とか生きていけるのである。誰も良いものを沢山持って、悪いところはほとんど無く、余裕のある状態では決して無いのである。私達は普段その僅かな1%の良い部分を無意識に巧みに操って、自分が相手の人に嫌われないように自分を防御しているのである。よって、私達のすべき事は、自分が持っていない良い面を持とうと努力しても無駄であるという事である。そんな決して実る事の無い無駄な努力をするのでは決して無く、むしろ、自分の持っている唯一の良いところをとことん鍛えて極限まで高める努力をすべきなのである。そうすれば、その努力は確かに実り、私達は何とか無事に人生を渡って行く事が出来るという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分が人にした事がそれは良いか悪いかの区別無く、また自分が人から同じようにされるのである。すなわち、あなたが人に親切にすれば、いずれ必ず他の人があなたに親切にしてくれるのであり、あなたが人の悪いところを許せば、いずれ必ず他の人もあなたの悪いところを許してくれるのである。逆にあなたが誰かをいじめているならば、いずれ必ず他の人があなたをいじめるのであり、あなたが誰かの事を嫌いになるなら、いずれ必ずあなたは誰かに嫌われているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

近い将来、人々の日常生活の有り様はどのようになっていくだろう。まず今では当たり前にある、何かを所有するという価値観が無くなっていくだろう。そう、何かを所有するために必死で働いてお金を貯めるという生活様式自体が時代遅れなものとなるのである。すなわち、人々は所有したいという欲求がほとんど無くなり、すべてはレンタルの時代になるのである。要するに欲しい時に欲しい物を欲しいだけ利用して、不要な時はそれを返すという生活スタイルに変わるのである。すなわち、究極の物々交換制度が誕生するのである。例えば、インターネットのライン上で誰でも閲覧できる掲示板の様なものが表示され、そこには個人一人一人の要望の募集が貼り出される。例えば、ある人は非常に学校の勉強が得意で、勉強を他の人に教える事が上手なのであるが、その人はは引っ込み思案な性格で友達がいないというのが悩みである。それで勉強を教える代わりに誰かに友達になってもらいたいと言う募集を掲示板に貼る。そこでまた別の人がいて、その人は学校の勉強が大の苦手で勉強は出来ないが、非常に社交的な性格で誰とでも友達になれるタイプの人である。ここで両者の利害が一致し、勉強の得意な人は勉強が苦手な人に勉強を教える事で契約し、その勉強が苦手の人は勉強を教えてもらう代わりにその人の良き友達になってあげる事で契約し、互いに自分の能力や持ち物を交換することによって、お互いの欲求を満たす様にするのである。これからは誰がどこで何を必要としているのか、また、その代わりに何を提供出来るかと言う細かい正確な情報が世界レベルで開示されて、非常に効率の良い物々交換制度が成り立っていくのである。すなわち、何かを所有したい時に両者の間に媒体となっていたお金という貨幣制度が無くなっていくのである。すなわち、お金は必要無くなり、その代わりに、直接当人同士で互いの能力や持ち物を交換し合う新しい経済社会が到来するのである。これによって、現在よりも遥かに貧富の差の無い、互いにより対等で平等な人間社会が将来の人類の主要な生活スタイルとなるであろう。