高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

単一価値こそ神エホバ御自身であり、人間の単一価値への傾倒こそ偶像崇拝なのである。要するに、人間が神のなさる同じことを自分達もやろうとした、すなわち、神になろうとしたのである。この事は実質的に神エホバに人間が私達はあなたよりも賢いのです、と言ったも同然だったのである。

2.何事も富もうと思って富む事が貧しい事柄なのであり、賢くなろうと思って賢くなる事が愚かな事柄なのである。すなわち、自らそれを意識してそうなろうとする事が聖書の言う罪(Sin)なのである。よって罪とは自意識過剰の事なのであり、自分で自分を好ましく思う事、すなわち、ナルシズムこそ罪の本性なのである。私達は息をする時、無意識のうちに息をしているのであり、同様に、何事も無意識(無自覚)のうちに自然に富んでおり、無意識(無自覚)のうちに自然に賢い状態が人間にとっての健全で正しい罪のない状態なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人はその人生の途上において、非常な努力と苦労を強いられる事がある。極貧の生活をして、何とか飢えをしのぐほかない苦しみを経験しながら、苦学し、大学を卒業して今ではエリート社員として年収1000万円以上を稼ぐようになった人もいる。中学校時代にひどいイジメをうけ、不登校になり、引きこもりになったが、その苦しみを乗り越え、今では一流企業の社長にまで昇りつめた人もいる。この様に事情は様々だが、そういう立派に生きてきた人達は大勢いるのである。ここまでは良いとしよう。しかしである。その自分がいかに苦労して今の輝かしい現在があるかという事を誇りにしている人達がいるのである。はっきり言って、自分が苦労して成功した事を誇りにする時点で、その人はまだまだ苦労が足りないと言える。本当に極限まで自分を試し、本当に苦しみを受けた人間は、決して誇らないし、誇る事が出来ないのである。なぜなら、苦労した事で自分の限界と自分の力の至らなさを思い知らされたからである。よって、人は自分の限界と自分の力の至らなさを思い知るべきなのである。人間の健全な精神状態は、自分の限界をはっきりとわきまえ知ることによって、常に謙虚な者にならざるを得ないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんな主張も嘘か本当かのどちらかにしか分けられない。例えば、[太郎は怠け者である。]という主張は、太郎は本当に怠け者なのか、そうでないのかのどちらかに決まる。すなわち、太郎は怠け者であり、かつ怠け者なのでは無いという事は言えないのであり、白か黒かのどちらかなのである。同様にどんな人間も神に従うか従わないかのどちらかにしか分けられないのである。すなわち、私は神に従うわけでもなければ、かつ従わないわけでもない、などと言う事は言えないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昨今のニュースを見て感じるのは、インターネットというものは計り知れない力を持っているという事だ。特にヤフーのニュースの記事の後に、一般の人達が書いた感想や意見の記事が載せられているのだが、それは第三者の役割を果たしており、非常に有益で参考になるものだ。また誰かの投稿した映像が瞬く間に世界中に拡散し、その内容に問題があるなら、それは[炎上]という形をとって全世界の人々に影響を及ぼす。すなわち、インターネットの個人的な書き込みが、一流企業やある国の政府の行く末をも左右するほどの権威を持つようになったのだ。人類歴史史上、個人の意見がこれほどまでに広範囲に世の中に対して、影響力を持つようになった事はかつてない。これは一種の革命であり、全く新しい文化の出現である。これは政府やマスコミに次いで第三の権威と成り得る。一般大衆が物申す時代になったのだ。これはある意味喜ばしい事だと言えるだろう。しかし、悪い側面もある。それは問題を起こした1人の個人に対してインターネットの投稿を通して多数の人から誹謗や中傷の書き込みが相次ぎ、周りから袋叩きにされるという間違った力の行使の仕方も生じてくるという事である。すなわち、現在インターネットは誰の権威の元にも置かれていない野放し状態になっているという事だ。これは良い意味で言えば自由とも言えるし、悪い意味で言えば無法地帯とも言えるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

経済論

この人類社会の経済情勢は、経済学者アダムスミスの言う、放っておけば自然と自動的に上手く成り立つ、神の見えざる手が存在するのであろうか。例えば、ある製品を作る工場があって、ある部品がベルトコンベアによって自動で運搬されているとする。真っ直ぐ進んでいる時は全く順調に進んでいたが、それがカーブのコーナーにさしかかるとする。大半の部品は順調にベルトコンベアの動く方向に進んでくれるが、1000回に1度の割合で何らかの原因で歪みが生じ、部品がベルトコンベアの流れから外れて角に引っかかってしまう事がある。この場合それをずっと放っておいても決して元には戻ってくれないので、作業員である人が手でその部品を取って、ベルトコンベアの正しい位置まで戻してやらなければならない。これと同様に世界の経済情勢も最初のうちは、放っておいても自動的に上手くいくかもしれないが、次第に何らかの原因で歪みが生じ、経済活動が上手くいかなくなるのである。この時はやはり、人為的に人が介入して上手く調整しなければ経済も上手く流れて行かないのである。単純な仕組みのベルトコンベアでさえ歪みを生じさせるのだから、それよりももっと複雑なネットワークで動いている世界経済は上手くいかなくなって当然なのである。要するに、初期の段階の経済の流れまでなら、市場経済の自動調節機構、すなわち、神の見えざる手は存在するが、ある程度にまで経済情勢が発達し、熟年期、高年期にさしかかると神の見えざる手はまるで効果が無くなってしまうのである。現在の私達の世界の経済情勢はまさにカーブのコーナー(高年期)にさしかかっており、誰か飛び抜けて頭の良い、信頼出来るリーダーが神業で操作しない限り、世界経済全体は正しい方向に決して戻ってはくれないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

左腕で左腕をつかむ事は出来ない。あくまでも、右腕によって左腕をつかむ事が出来る。また、右腕で右腕をつかむ事は出来ない。あくまでも、左腕によって右腕をつかむ事が出来る。すなわち、それ自身がそれ自身の存在を証明する事が出来ないという事である。例えば、あなたという人間は自分は今確かに存在しているという自覚があるかもしれないが、あなた自身の存在をあなた自身が証明する事は出来ないという事である。あなたという存在が確かに存在する事を証明出来るのは、あなた以外の別の人間があなたを見てあなたは確かに存在していると認めなければならないのである。この理屈をマクロの視野まで広げてみるならば、私達の生きているこの世界全体もそれ自身では自分の存在を証明する事は出来ないのである。すなわち、私達がはっきりとこの世界は確かに存在していると自覚していても、この世界自身は果たして存在するかはわからないのである。もしかすると我々の住むこの世界は実在しておらず、我々の世界は単なるバーチャルワールド、すなわち、仮想現実かもしれないのである。この私達の世界の存在を証明する為には、この私達の世界とはまた別の存在、もしくは別の世界が存在しなければならないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人よ、あなたは全人生において成功と幸福を同時に得る事は出来ない。成功を選ぶか、幸福を選ぶかのどちらかにしなさい。上水と下水が共に混ざり合う事は無いように、あなたは神と富とに同時に仕える事は出来ないからである。またあなたは神と悪魔とに同時に仕える事は出来ないのである。幸福は神に属しているのに対して、富と成功とは悪魔に属しているからである。よってあなたは神と共に貧しくても幸福に生きるか、悪魔と共にこの世の栄光と富という成功を得る代わりに不幸に生きるかのどちらかを選ばなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しい事柄は無数にあるかもしれないが、唯一かなめの事柄、すなわち、真理というものは常に1つしか無いのである。これは無数の人間がいても、あなたという存在は1人しかいないのと同様である。

2.聖書=事の結論であって、たとえ現在、どんなに新しく別の素晴らしい道や可能性が私達の前に開かれているかの様な気分になっても、それは結局は朽ち果てて行かざるを得ないものであり、人間の編み出す事柄はすべて、過去であろうと、現在であろうと、将来的にであろうと、決して永続的な性質のものでは無いのである。私達は、聖書を読むことによって、この世界の序論と本論をいわば飛び越えて、結論を知る事が出来るのである。人間にとって刺激的、快楽的な事柄であればあるほど、それはすぐに枯れてしまう美しい花のようであって、結局は神の言葉しか残らないのである。神の口から出る真理の命の言葉こそ、永続性を持つものであって、結論を言えば、人間にとって、唯一真の神エホバを恐れ、その掟を守る事こそ、人の行うべき務めのすべてであるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は誰でも、有名人に成りたい、周りの人からの注目を浴びたいと思うものであるが、実際今、有名人になっている人達の心情とはいかなるものなのであろうか。彼らは超人気者であるから、毎日がスケジュールで埋め尽くされており、忙し過ぎて寝る暇もない。たとえ寝れたとしても、それは2、3時間程度であり、それもスタジオからスタジオへと移動するバスの中で仮眠するしか無い。毎日がその調子なので、疲労も限界に達し、顔色も悪くなってくる。しかし、それでもテレビの前では、さも元気なように疲れた顔を押し殺して、とびきりの笑顔で視聴者やファン達に手を振るのである。何と地獄の様な日々なのであろう。自分は有名人なのに自分の本音は語れず、ファンの為にいつもニコニコしていなければならない彼らは周りの人々の奴隷の様である。また、有名人である故にその私生活も覗き見され、プライベートな時間などあったものでは無い。うかつに外にも出れないし、大半を自分の家にいるしかない軟禁状態になってしまう。これではまるで犯罪者のような不自由な生活では無いか。彼らはお金はあるかもしれないが、お金の為に自分の人生を犠牲にしている、まるでマリオネットのようである。彼らが切に必要としているのは、一般人の様な普通の生活であり、私生活を覗き見され無い事であり、普通に外に出かけられる事であり、本当は苦しいのに外面は笑顔を見せなければならない虚飾からの脱出である。それでも有名人に成りたいと思うならいっぺん有名人に成ってみれば良い。多くの人の目から注目され、凝視される様はまるで見物客に注視されている動物園の檻の中にいる動物の様であると感じるであろう。それだけ人々の注目を浴びるという事は人間にとって非常に不自然で不健康な事なのである。所詮人間は人間なのであり、神の様に人々から崇められる様には造られていないのである。まさに彼らこそアイドル、すなわち偶像であり、人々から偶像崇拝されている偶像なのである。真の神は自分以外の誰も崇拝の対象としてはいけないと言っておられるのであり、その理由は偶像を崇拝する者も偶像崇拝される側も共に悪影響を受ける事を、彼らが被害を受ける前にそれを警告しておられるからである。要するに有名人になっても幸福感は全く無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は私達自身が私達自身を愛する以上に私達を愛して下さっている神エホバを愛さなければならないのである。

2.以外な事にも、人は正しい事柄を聞かされて自分の誤りを指摘されるよりも、人は自分の話を聞いてくれ、理解してくれる方が遥かに自分の誤りを認め易いのである。

3.人の内から生じる誇る気持ちが、次第にその人自身から外部へ向けての表情の豊かさと表現力とを奪って行くのである。すなわち傲慢な者ほど仏頂面になり、何の表情も表現出来なくなってしまうのである。

4.[生きる]という事は、[永遠の期待]と同一の事である。すなわち、人は永遠に渡って希望を持ち続けるのである。しかし、希望とは約束された事柄がまだ果たされていない状態を示すから、人は永遠に渡ってこれでもう何も要らない、と思う事は無いという事である。

5.何物にも勝って動かないものは人の心なのでは無いだろうか。人は幼い時は、どんな事柄にも驚きと喜びを素直に顔の表情に出していたものだが、いざ成人するといつの間にか、どんな事柄にも驚きと感動と感謝の心が鈍くなってしまって、心を揺さぶられるという事が出来なくなってくる。すなわち、心の柔軟性の無い、心の重い人間になってしまうのである。よってあなた方は常にどんなに些細な事柄でも感動と感謝の念を培い、ぜひ、心の重量の軽い、そして心の柔軟性が水のように変幻自在であり、どんな事に出逢っても機敏に反応する心の良い状態を保つようにしなければならないのである。それが人の老化の進行を鈍くしてくれるものなのである。すなわち、感謝出来る人間と感謝出来ない人間とでは命の寿命が遥かに違ってくるのである。よって、どんな些細な事にも感動出来る心はその人の日常を幸福にし、長生き出来るのに対して、どんな素晴らしい親切を示されても、それに感動も感謝も感じ無い心の重い、心の鈍い者はいつまで経っても不平不満を持ち続ける事で、その人の人生は不幸になり、その命も短命なものとなるのである。