高田義裕の人生論

今日の箴言

世界中で私のブログを読んで下さっている読者の皆様、いつも本当に有り難うございます。皆様から送って下さる数々のコメントを毎日読まさせていただきまして、私自身大変感謝しており、日々励まされております。しかし2、3日前からその読者様のコメントを載せてくれているウェブサイトが突然表示されなくなり、私としても非常に寂しい限りでございます。それでもこれからも読んで楽しいと思われるような記事を書いて行こうと努力して行こうと思いますので、これからも読者の皆様のお力添えをお願いし、末長くお付き合い下されば幸いと存じます。

私の愛する読者の皆様へ。 高田義裕(タカダヨシヤス)より。in japan.

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達人間は完璧では無い故に、人の前に良いものを備えたい場合は、日頃から怠りなく、用意周到でなければならないのである。すなわち、常日頃からコツコツと良い準備をし、いつでも人の前に良いものを出せるように毎日自分の心を清く保たなければならないのである。よって、普段は悪い事を影でしている人は、いざという時に常日頃の悪い行いの癖がつい出てしまうのである。そこでその人はみんなの前で恥を掻く事になる。すなわち一夜漬けや、やっつけ半分ではいざという時、決して良いものは出せないのである。

2.人は何を口にすべきで無い自分だけの賜物であるか、また何を公表すべき自分の権利であるかを見極めて、自分の口を思慮深く用いる者は幸いな者であり、その者に災厄は臨まないのである。

3.どんな時でも、またどんな状態であっても、寛容さからすべては始まり、また解決されるのであり、決して非難や批判からは何も始まらないし、また解決されないのである。

4.どんな人からの評価であっても、その人そのものに向かっているのでは決して無く、その人の努力に対して向かっているものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

生きている事柄という事は定めていないという事柄と同一である。

2.期待とは、見えない事に対する希望であり、愛とは、予想外に対して常に良い準備が整っている事である。

3.過度の自信は、悲嘆をもって終わりとなり、過度の期待は心を病ませる。

4.はっきり言って、神エホバ以外の対象に重きを置く事が偶像崇拝なのである。例えば、神エホバよりも仕事が大事ならば、その人にとって仕事が偶像崇拝であり、神エホバよりも結婚相手が大事ならば、その人にとって結婚相手が偶像崇拝であり、神エホバよりも家族が大事ならば、その人にとって家族が偶像崇拝なのである。このように一見すると人間にとって当たり前の事であり、むしろ正しい事と思われる事が、あなたの神エホバよりも優先される場合、それらはすべて間違いとなってしまうという事である。ここが真の神エホバを何よりもまず優先して崇拝することの難しさとなっているのである。この観点で言えば、ほとんどの人は神エホバを崇拝しておらず、神エホバ以外の何らかの事柄に重きを置いて偶像崇拝を行っているという事である。

5.聖書の神エホバは、人が仕える神であって、人に仕える神なのでは決して無く、真のキリスト教は、他の宗教群のような、神に対する人間の側からの考察と観察の研究に基づいている種類のものでは決して無く、あくまでも神の側から一方的に啓示された宗教なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

大昔に人は神エホバの義なる支配圏から故意に反逆したのであるから、神エホバは今日、人が悪魔サタンの邪悪なる支配圏からの故意による放棄によって救われる事を意図されたのである。よって、神エホバの義を守る故に受ける迫害をも、神エホバに従う者達にとっては、必ず通らねばならぬ一種の必須条件であると言える。なぜなら、迫害をも恐れぬほどの覚悟の行動による従順で無ければ、最初の人間アダムとエバの取った神エホバを恐れぬほどの覚悟の反逆と対等に釣り合わないからである。

2.私達の内にある自己満足の神、自己暗示の神、自己愛の神はすべて、最終的には真実の神エホバにひざまずかなければならないのである。

3.私達は誰が救われるのだろうかと言って、キリストは天には昇らなかったと言ってはならない。また、私達は誰が滅びるのだろうかと言って、キリストは死ななかったと言ってはならない。私達は皆、キリストは確かに死なれて、その後三日後に神エホバ御自身によって蘇らされ、確かに天へ昇られたと言わなければならない。

4.人間自身が定めたどんな立派な動機も、いずれ後には、必ずマンネリというものに化学変化してしまうのである。

5.聖書の聖句にある[ただ自分の目から見て思慮深い者となってはならない。]というたった1つの言葉によって、どれだけ多くの人がそれによって身をかがまなければならないだろうか。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

神エホバと人間との関係は、人と人との関係と同じである。人は他の人に何かをしてもらいたいのならば、まず自らが先にしてあげなければならないのである。それが人間関係の公理とも言えるものである。もし、自分は自分の方から何もしなくても先に他の人から受けるに値する人間である、と考えている人がいるなら、それは非常に図々しくて、虫がよすぎる利己的な精神の持ち主であると言える。何事も要求する前に自ら努力せよ、なのであって、もし、自分が人から好かれたいと思うのならば、何もせずにただ、自分を好きになってくれる人を待つのでは無く、まず自らが他の人を好きになる事が必要なのである。あなたが相手を好きになれば、相手も必ずあなたの事を好きになってくれるし、あなたが相手を嫌えば、相手もあなたの事が嫌いになるのである。同様に、神エホバに自分の請願を聞いてもらいたいのなら、まず自らが先に神エホバに働きかけ、常日頃、神エホバの御意志に適う事柄を熱心に行い続け、それを習慣づける事によって自らエホバに近づくのである。あなたが一歩エホバに近づけば、神は99歩あなたに近づいて下さるのである。そのように長い時間をかけて徐々に神と親しくなる事によって、神はあなたの思いもかけない時にあなたの請願を叶えて下さるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

謙遜であるという事はどういう事であろうか。それは自分の足で徒歩で歩くという事である。それに対して高慢であるという事はどういう事であろうか。それは自分の足で徒歩で歩かないという事である。例えれば、それは自動車に乗って移動する様なものである。自動車に乗っている人から見れば、外の景色は次から次へと移り変わり、あっという間に通り過ぎる。彼にとって周りの景色は自分の目的地のほんの通過点に過ぎない。これと同じで、高慢な人は人間関係も次から次へと移り変わる景色の様にしか映らない。そう、周りの人間を自分の野望を満たす為のほんの通過点としか見なさないのである。要するに高慢な人は、自分だけの速いペースの世界しか知らないし、知ろうともしない。それに対し、謙遜な人は自分の足でゆっくりと自分の目的地まで歩く。彼にとって周りの景色は非常にゆったりとしていて、たっぷりと時間をかけてそれらを注意深く観察し、楽しみながら歩く。これと同じで、謙遜な人は人間関係も周りの景色と同様にたっぷりと時間をかけてお互いの事を注意深く考えて、互いに楽しみ合いながら、自分のペースで無く、相手のペースに合わせて知ろうとするし、知っている。それによって高慢な人の様に周りの状況が見えていないのと逆に、周りの状況がよく見えているし理解できている。要するに、高慢な人は自分の事にしか頭が無いが、謙遜な人は周りを隅々まで見渡す事によって、いろんな情報が自分の所に入ってくるようになるのである。その情報の中には非常に価値のある、誰もまだ知らないアドバンテージの高いものもある。すなわち、それを知っている事によって他の人よりも一歩先んじる事が出来、有利な立場に立つ事が出来るのである。よって足早に過ぎて行った高慢な人はその情報にありつけずに、損をする事になる。これは短い時間においては僅かな差かもしれないが、人生という長いスパンで考えると、そら恐ろしい差となって現れる。まさに人の生死を分けるほどまでの差となってその人の人生の勝敗を分けるものとなるのである。よって高慢な人は自らを窮地に追い込み、その窮地が自らが招いた事すら知る由も無く、人生をはかなく終える事になり、結局は、謙遜な者しか大切な事を発見出来ないようになっているのである。よっていつでも謙遜な者だけが最終的に成功するのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は今日1日の仕事を終え、疲れ切った体で自分の自宅に向かう。そして自分の車を運転しながら、ある時、ふと思うのだ。なぜ私は生まれて来たのだろう。私は自分の意志で生まれて来た訳では無いと。ただ気が付いたらもう生まれていたのだと。確かにそうである。人は自分が生まれたくて母親に自分を産むように指示したわけでは無い。物心ついた時には既に生まれてしまっていたのだ。しかし、あなた方に言うが、あなたはまだ本当には生まれていない。あなたはこれから本当に自分が生まれたいのか、生まれたく無いのかを決めるのである。これはどういうことか。すなわち、人間にとって、ただ物質的に物理的に誕生したのは本当に生まれた事にはならないのである。これは単なるきっかけに過ぎず、フランス料理で言えば、前菜に過ぎない。人が本当に生まれるとは、逆境に立たされた時、どうするかで決まる。逆境という生みの苦しみを味わって、それを乗り越えられた時、あなたは初めて人間として生まれたと言えるのである。すなわち、まだ物事がすべて順調に行っている内は、あなたの人生はまだ始まってもいないのである。いずれすべての者に試練は訪れる。その時あなたがどう行動するかによって、あなたは本当に生まれたのか生まれなかったのか自分の意志で決める事になる。幼虫が成長して殻を破り、蝶として生まれることができるか、それとも、幼虫のまま死んで行くかのどちらかなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

愛には大きく分けて3種類ある。1つはフィリア(友情愛)、2つ目はエロス(異性愛)、そして3つ目はアガペー(隣人愛)である。この中で最も優れている愛とはどれであろう。ある人がいた。彼には自分の分身とも言える親しい友人がいた。彼らは非常に仲が良かったが、ある時、片方の側に異性の恋人ができた。その人は次第に異性の恋人と深い仲になり、かつて互いに親友同士であった友達との関係が疎遠になって行った。ここでは、フィリア愛よりもエロス愛の方が勝っていたのである。また別のところで、既に結婚している女性が職場で運命的とも言える男性と出逢った。結婚した後に自分の理想とする相手が現れたのである。彼女は家庭を捨ててまでその男性と一緒になった。そして2人は何十年も仲睦まじく暮らしていたのだが、ある時、相手の男性は高齢ゆえにアルツハイマーになった。その女性は献身的に男性の面倒を見ていたのだが、あまりにも酷い彼の病状と介護疲れのゆえに相手の男性の首を絞めて殺した。そして彼女は殺人罪として刑務所送りになり、年老いて死んだ。しかし、また別の場所で、母親と1人の息子のやもめがいた。母親は結婚していたのだが、相手の父親が不倫し、別の女性の所に行ってしまって、1人の息子だけが残った。彼女はひとり親の身で苦労して子供を育てた。そして彼女の苦労する背中を見てその男の子は育った。その後、やもめである母親の方が、アルツハイマーにかかった。しかし、彼女の息子は献身的に母親の看病をし続けた。あまりにも酷い彼女の病状と介護疲れのゆえに母親を殺してしまいたい、という衝動が幾度も彼に襲いかかったが、その息子は母親が苦労して献身的に一生懸命に自分の事を育ててくれた背中を見て育ったので、その衝動に打ち勝ち、彼女が安らかに死ぬまで面倒を見る事が出来た。どうであろう、ここにおいてはエロス愛よりも息子の母親に対するアガペ愛の方が勝っていたのである。これらの事が試された結果、人間にとって、アガペ愛(隣人愛)が一番優れた愛である事が分かったのである。よって、アガペ愛、すなわち、自己犠牲的愛は、すべての事に勝り、人と人との永遠の絆であり、その愛こそがフィリア愛やエロス愛を包含するものであるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人は自分が優秀になる事を目指すが、すべての人が優秀な人ばかりであったら、それは素晴らしい事であろうか。何しろ優秀な人はその見返りも質の高いものを要求する。清潔で豪華な客室、贅沢で美味しい料理、高額な報酬などである。しかし、この自然界の生き物の生態系を見てみると、実に多様性に富んでいる。プランクトンを餌にしている魚も居れば、シマウマなどの大きな哺乳類を餌にしているライオンなども居る。これらは密接に関連し合って、全体として素晴らしい絶妙なバランスが保たれ、地球環境は維持されている。この様にライオンの様に大食いな動物も居れば、小さな虫のような粗末な食事で満足している鳥たち、もしくは腐って腐敗した死肉でも平気で食べてくれるカラスのような生き物が居てくれてこそ、自然界は成り立っているのであり、すべての生き物がシマウマの様な贅沢な食糧を必要としていたら、自然界は決して成り立って行かないのである。よってすべての人が優秀になろうとする事は、自然界に例えれば、すべての生き物がライオンになる事と似ている。すべての生き物がライオンばかりに成ってしまったらどうなるであろうか。ライオンは周りの生き物を全部食い尽くしてしまい、ライオンは餌が無くなって、遂にはライオンという種は絶滅してしまうであろう。同様にすべての人が優秀であったなら、彼らはお互いに殺し合い、共食いして、人類は滅亡してしまうであろう。すなわち、人間はライオンの様な優秀な人間も必要だが、粗末な食事で満足してくれる鳥の様な、優秀では無い人間も必要なのである。すなわち、要約すれば、大なる者も小なる者も必要であり、あらゆる性格を持った人間が居てくれるからこそ、全人類社会は成り立っているのである。よって結論として、(優秀さ)がすべての人間が追い求めていく絶対的価値では無く、(善)がすべての人間が到達すべき絶対的基準では無く、(正しさ)がすべての人間が目指すべき絶対的価値なのでは無いのである。すなわち、人間にとって、優秀さも愚かさも共に必要であり、善も悪も共に必要であり、正しさも間違いも共に必要であり、富んだ者も貧しい者も共に必要なのである。これらはすべて、全体から見れば、あくまでも相対的なものであり、絶対的な存在は神だけなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あらゆる事柄、またあらゆる難題と思われるものは、すべて(謙遜さ)によって解決出来るであろう。なぜならこの万物にあるすべてのものは、有形であり、ある形を取っている。形を取っているという事は、存在しているという事であり、存在するとは、一種の傲慢さだからである。例えば、インフルエンザウイルスにしても、そのウイルスが存在する為には、ある条件が必要不可欠であり、例えば、このウイルスに関して言えば、圧倒的に冬の時期の乾燥した条件下において発生しやすいという点である。いわゆるすべての生物には、この様に存在する為の好む状況が整えられなければ、生存しにくいからである。この様に存在する為の条件が限られられているという事は、言い換えれば、(有)という世界でしか存在出来ない種類のものでしか無いという事であり、(無)という世界ではそれは存在出来ないという事を意味する。人間で例えると、(有)とはわがままの事であり、怠惰さの事であり、浪費する事を意味する。その(有)の世界を支えているのは、(無)の世界であり、人間で例えると、(無)とは自己犠牲の精神であり、いわゆる自分を無にして、相手のどんな要求にも進んで従う利他的愛の精神だからである。すなわち、無私の愛こそが(無)の世界であり、(有)の世界とは利己的精神、すなわち傲慢さの事なのである。よってあらゆる難題とは、その解決する手段が限られてくれば限られてくるほど解決する難易度が高くなっていく事を示すが、それは逆に言えば、それだけ難易度が高くなるほど(有)の世界に依存する濃度が高い事になり、それは例えれば、それが発生する原因が非常に稀である事を意味する。いわゆる治療法の無い難病と呼ばれるものである。難病はこの様に甚だ傲慢な存在であるから、それは、なおいっそうの利他的愛を必要としている事になる。すなわち、(無)の世界への依存度が高いのであり、その存在を消去する、すなわち、その難病を治す為には、無私の愛という愛の中でも最大のものである(謙遜さ)が治療薬として良く効くという事である。この万物の世界には大きく分けて3種類の世界があり、そのレベルの低い順から、(有)の世界、すなわち我々の生きている物質世界であり、その次にすべての存在を根底から支えている(無)の世界であり、最後は利他的愛の精神の究極の存在である(謙遜さ)という神の存在する世界、すなわち、(霊)の世界なのである。よってすべての難病を治す事が出来るのは、(有)の世界にある物質的な薬剤や有形の形を取った治療法では決して無く、あくまでも、(謙遜さ)という霊が治療薬として唯一必要不可欠のものであるという事である。