高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は規則を守らない生き物である。さて、いつも違反を犯して規則を守らない者がいた。そこで私は彼に聞いた。なぜあなたはいつも規則を守らないのか、と。すると彼は、何でそんな事を聞くのかわからないといった表情をしてこう言った。そこに規則があるからだ、と。

2.人生とは難しい。人から管理されて生きるのは、楽だし、安定しているが、逆に自由が無い。逆に自由でも、それはジャングルの中に入る様なもので、甚だ危険に満ちている。要するに、生きるのが楽で、経済的に安定しており、そして自由気ままで安全な生活など何処にも無いし、かつて誰も経験していないのである。

3.数の多い順から、数の遥かに少ない条件についてまとめて見よう。

数の多い順から。1.精神的に貧しい者 。2.経済的に貧しい者 。3.コンプレックスを持っていていつも不満だらけの者 。4.小金持ち(資産が一億以上ある人) 。5.大金持ち(資産が100億以上ある人) 。6.お金があっても不幸な者 。7.自分のしたい事がわからない人。 8.嫌々仕事をこなしている人。 9.自分のしたい事がある人 。10.成功した人。 11.自分のしたい事で成功した人。大金持ちで幸福な人。12.貧しくても幸福な人。13.1人でいても幸せな人。14.謙遜な人。15.才能があって、その才能で成功して、大金持ちになって、幸せな人。16.精神的に富んだ人。17.全く普通の人。(これは、自分にコンプレックスも無く、何の不満も持っていない、何の不足も感じない、才能も無く、お金も必要無く、全く平常心でいる人の事である。よって、この世の中で一番数が少なく、幸福な者は、全く普通の人の事なのである。

4.お金を持っている人は、その代わりに、お金で買えない貴重なものが不足しており、貧しい人は、その代わりに、お金で買えない貴重なものを持っている。すなわち、すべてには一長一短があるのであり、お金も持っているし、お金で買えない貴重なものも同時に持っているという、すべてが揃った人など、古今東西、世界広しと言えども、誰一人としていないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

初めに、全知全能であり、私達の創造主であられるエホバ神、その方の独り子であられる御子イエス・キリストの尊い犠牲において、御前に近づき、お祈り致します。アーメン。

1.神エホバに対する信仰とは、正しすぎる事への追求では決して無く、正しさに関してさえ、平衡の取れた見方なのではないだろうか。

2.神エホバは、人が罪を犯した時、罪を犯した人そのものを憎んだと言うよりも、罪そのものを憎まれたのである。なぜなら、その後の神エホバは、世を深く愛し、御自分の独り子を使わされたからである。

3.実際、どのような義を実践していても、それらが信仰によって食べているもので無いのならば、それは以前として、罪の内にあるのである。

4.自分が、救いという業の一旦を担えないという事で手持ちぶさたであると感じている者達に対して言える事は、1人の人間ではとても手に負えないほどの仕事を自分は少しも負担せずに、神エホバ自ら、また、神エホバ御自身のみで行ってくれる事は、これほど私達にとって救いな事は無いのではないだろうかという事である。

5.私達人間にとって、たとえ、日々失敗してつまづくとしても、あきらめずに努力し続ける事こそが重要なのであり、悔い改め続けること、また、祈り続けること、そして、どんな患難にあっても忍耐し続けていく事が重要なのである。

6.はっきりと言っておく。もともと罪というものが何らかの形で固定して存在していたのでは決して無く、もとは無かったものが、引き起こされた事によって初めて存在するようになったという事実である。

7.罪とはそれ自体で自分を支える事は出来ず、違反を許す存在があって、初めて存在するものである。すなわち、違反を許しておられるのは神であり、罪が存在する事が、それと同時に、神が存在する事の証明となっているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

それぞれの人の限界は他の人が決定するのでは無く、あくまでもその人自身が決定する。あなた方はこれまでの人生の歩みで、決してこの人だけは許せないという憎しみの相手の人間がいることであろう。あなたはその人からひどい目に遭わされて来たから、決してその人を許せない。そう、その様にして自分の限界を自分自身で決めているのである。これは甚だ難しい事ではあるが、あなたがあえてその許せない相手の事を許すなら、あなたは自分の限界をさらに広げた事になるのである。すなわち、許し難い相手を許す事によってあなたの世界は更に広げる事が出来るのも、すべて、あなた次第なのである。

2.人は、それぞれ置かれている立場も事情も全く異なっているのであるから、自分の考えで一律に人を判断することは非常に愚かな事なのである。これは曲線をまっすぐな定規で測ろうとする様なものである。

3.賢いという事は、ある事柄を行った場合に、何を得るかだけに目を留めず、それと同時に、その代わりとして、何を失うかをも、ちゃんとわきまえ知っている事を初めて指すのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は物事を考えることにおいては自由である。例えば、鳥は、人間になりたいなどとは思わないが、人間は自分が鳥になってみたいと考えることは出来るのである。しかし、この考える自由というものにも1つの弊害がある。それは考える事だけは自由だから、自分の身分相応の遥か上の事柄まで連想し、想像出来るため、そのギャップに失望する事にもなるからである。例えば、自分は単なるビジネスパーソンの1人で、ひと月に15万円しか稼ぐ能力しか持っていないのに、理想だけは、自分は100億円欲しいし、高級車10台とヨットクルーザー2台と豪邸100軒欲しいと思ってしまえるのである。すなわち、10の能力しかないのに、100の能力を望む事も出来るのである。よって、10の能力しか無いのであれば、同時に10の能力の範囲内の事柄しか想像出来ないのであれば、10-10=0で過不足無く問題は無いが、10の者が100望んでしまえば、100-10=90で、90というギャップが生じてしまい、そのギャップを意識する事で不満が生じてしまうのである。言い換えれば、自分は15万円しか貰えないレベルだから、1000万円もする家はいらないから別に平気だ。とは思え無いのである。人は借金を抱えてまで、1000万円もする家を購入したいと考える者であり、自分は能力が無いから、何もいらないとは思え無いのである。すなわち、それを得る能力が無いのに、それでも、それを欲しいと思ってしまうのが人間という生き物なのである。幸福とはもう何もいらないという充足感から初めて得られるものであるから、人間は、常に理想を追い求め続けている限り、人間は永久に不幸な生き物なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

現在は世界規模で見ても、大変な時代になった。私も含めて、あなた方はこの世の中が以前にも増して生きづらくなってはいないだろうか。特に仕事の面において、それは顕著さを増している。人間誰しも生まれたからには、生きて行かねばならない。生きて行く為には、住む所がいるし、食べ物を得る必要がある。人間誰もが、生きる為の必要最低限のサービスを受ける権利がある。しかしだ。誰も私達みんなに、ただで住む所や食べ物を提供してくれる人などい無いのだ。よって生活する為には、お金を持っていなければならない。そして、非常に残念な事に、お金はただで貰う事が出来ない。すなわち、誰でも働かざるを得ないのだ。そして、最近この働く仕事の事で非常に問題が顕著になっている。そう、働き続ける事が非常に厳しくなって来ているという事だ。まず、職場の人間関係がギスギスしている点が挙げられる。また、仕事の質と量が一段とハードルが高くなり、会社の求める基準値に到達する事が大変になっている。人間関係では、表面では、仲良くしていても、影では、みんな悪口を言われている。それで嫌になって自分から辞めて行く人が後を絶たない。仕事では、スピードと正確さを同時に求められ、例えば、一時間に1000個仕上げなければ、こっぴどく叱られ、罵られ、パワーハラスメントを上司から受ける。まるでスーパーマンの様に素早く正確に製品を仕上げたり、仕事をこなさなければ、会社は利益が出ないので、みんな追い詰められる。この時点で多くの人が辞めて行く。そう、今は、不景気で、仕事を見つけるのにも大変なのに、あわよく仕事を見つけても、その職場で仕事を続けていく事が出来ないのだ。この様に仕事環境が劣悪で、みんな辞めて行くと、会社は人手不足となる。そして、かろうじてその職場に生き残った人は、1人で何人分もの仕事を抱える事になり、残業は増え、ひと月に軽く100時間を超える事も珍しくない。そう、仕事を続けて行けている人でも過労になり、心を病んで、うつ病になったり、体調を崩して病気になって仕事を辞めなくざるを得なくなる。こうして世の中は、失業者で溢れ、国からの生活保護を受ける人が増加する。しかし、どこの国の政府の財政も、不景気の故に財政危機に陥っている。よって、大量の失業者を食べさせて行く事が出来なくなっている。これはもう負のスパイラルである。聖書は、遥か昔からその事を預言していた。新約聖書のテモテの第ニの手紙3章1節にはこうある。[しかし、このことを知っておきなさい。すなわち、終わりの日には、対処しにくい危機の時代が来ます。]そうである。聖書はここで、対処しにくいと控え目な表現を用いているが、対処しにくいの本当の意味は、もはや対処出来ない危機の時代という事を示しているのである。まさにこれは、もはや人間の力ではもうどうにもならない時代が来ると言っているのである。神を信じていない者までも、神にすがりつくしかない状況にまで人類は追い詰められる事になる。よって、八方ふさがりになって、絶望の中にいる人達よ。是非とも、たとえ、神を信じられなくても、神に心から熱烈に祈りなさい。あなた方は祈り続けなさい。そうすれば、私達は神の排泄物によって生きる為の食物を食べる事になるのである。ここで対処しにくい危機の時代に最低限の生活を送る為の人間としてのあり方をここに列挙しておく。

1.職場でたとえ影で悪く言われても、あなたは他の人の事を決して悪く言わないこと。

2.不可能な事はしなくて良いから、自分の出来る範囲内で精一杯努力し、神に助けを求め、祈り続けること。

これだけをしておけば、必ずあなたは何とかやって行けるであろう。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは、重要な決定を下す時、どのような仕方でそれを決めているだろうか。自分の独断で決めているだろうか。それとも、その分野で著名な専門家の本を読んで決めているだろうか。聖書は何と言っているだろうか。ヘブライ語(旧約)聖書にある、ソロモン王の箴言13章10節にはこう書かれてある。[せん越である事によって人は戦いを引き起こすだけである。しかし、一緒に協議する者達には知恵がある。]そうである。人は何かの重要な事柄を決定する際には、自分の独断で決めるのでも無く、出来るだけ多くの人の意見を聞いて一緒に協議し、相談して決定する事が一番賢明な方法なのである。いろんな人の意見を聞くと、実にいろんな経験をした、実にいろんな知識を持っている人達が様々な視点から助言を与えてくれる。それを聞く事によって、自分がそれまで知らなかった現実の現状や、自分が気付かなかった盲点にハッと気付かされるであろう。私もよくインターネットのニュースを見るのであるが、その記事を書いた記者の意見が参考になるのはもちろんだが、その記事の内容に対して、自分達の意見を述べている一般の読者の人達のコメントが非常に役に立っていて、面白いし、自分もそう思うと、共感して1人でうなずいている。インターネットほど、一般の人達の意見が重要視され、強い影響力を与えるものは無いと思う。これはインターネットでの誹謗、中傷が、強い力となって、有名人や世論を動かすほどのいわゆる、炎上という形で社会問題化している事によっても裏付けされている。今では、その分野の専門家の意見より、一般の読者の意見の方が遥かに重要視され、強力な力を持っているのである。これは私としては、庶民の1人として、大いに結構な事だと思う。

高田義裕の人生論

今日の箴言

使徒ヨハネは夢を見た。自分の前に自分の身長の10倍はある、巨大な人の子の様な者が立っているのであった。使徒ヨハネはふと、その人の巨大な右手に目をやった。その右手の腕に何やら非常に小さくて黒いものがうごめいているのであった。彼はそれが何なのかをよく見ようとして近づいて行ったが、その人の隣に、光り輝く天使の様な者がいて、こう言った。使徒ヨハネよ、あなたのサンダルを脱ぎなさい。ここは聖なる場所だからである。使徒ヨハネはあまりのまぶしさに目を伏せながら、主よ、あなたは誰ですか。と問うた。すると彼は、私はイエス、あなたを祝福する者です。すると、使徒ヨハネは目が開け、自分の前におられる巨大な方は、神エホバである事に気付いた。そうして、彼は恐れおののき、御座にひれ伏して彼を崇拝した。するとイエスは、使徒ヨハネに言った。恐れなくても良い。これから起きる事をあなたに見せよう、と言った。すると、先ほどの神エホバの右腕に、うごめいていた黒いものを使徒ヨハネに見せた。それはよく見ると、アリの様に群がる人間達であった。彼らは、その腕の肉をそれぞれに食いちぎっては、貪り食っているのであった。使徒ヨハネはあまりの醜態さに目を覆った。するとイエスは彼に言った。よく見なさい。あなたにこの解釈を与えよう。すると使徒ヨハネは言った。恐れながらも神エホバよ、あなたの腕に人間がアリの様に群がっており、あなたの腕の肉を食べています。あなたはそれが痛く無いのですか。あなたはすぐにでもその左手でそれを振り払えば良いのに。するとイエスは言われた。この腕の中の人間達、これは全世界の人類社会を表している。彼らは、自分達の驕りの富の為に、神の腕を食い尽くそうとしているからである。しかし、これは神の定めの時まで、留め置かれており、まさに、腕が食いちぎられて右手が取れるまで神は辛抱されるのである、と。そうである。この我々の人類社会は、周りのものすべてを貪り喰い尽くす、貪欲なアリの様なものであり、神の造られた地球や自然環境を自分達の富を得る為に、破壊の限りを尽くしているからである。まさに、新約聖書、ヨハネの黙示録11章18節にこう書かれてある通りである。[しかし、諸国民は憤り、あなたご自身の憤りも到来しました。また、死んだ者たちを裁き、預言者なるあなたの奴隷達と聖なる者達に、そして、あなたの御名を恐れる者達、小なる者にも大なる者にもその報いを与え、地を破滅させている者達を破滅に至らせる定められた時が到来しました。]

高田義裕の人生論

国家とは何か。それは人の数の多さで決まるものであろうか。それでは、1人しかいない国民は、国家だろうか。そうとは言えないだろう。では2人いる事が国家であろうか。そうとは言えないだろう。では3人いる国民が国家だろうか。そうとも言えない。この調子でどんどん数を増やして10万人なら国家だろうか。そうとも言えない。この論法で行くと、どれだけ数がいても国家とは呼べないのである。すなわち、国家とは人の数の多さで決まるものではないのである。今ヨーロッパで難民の問題が持ち上がっているが、難民が何十万いても、それは国家ではない。それはあくまでも難民なのである。すなわち、国家とは、アイデンティティーの事である。すなわち言語の違いが国家なのである。言語の違いは考え方の違いであり、価値観の違いであり、文化の違いである。私がどれだけ国際人になりたいと言っても、海外の人達からは、私は日本人として評価される。すなわち、日本国を話すのが日本人であり、ロシア語を話すのがロシア人であり、ドイツ語を話すのがドイツ人なのである。個人レベルで言えば、私は高田家で生まれた事が私のアイデンティティーであり、アメリカ人のスミスさんが、スミスファミリーで生まれた事がミスタースミスのアイデンティティーなのである。人間にとってアイデンティティーは必要不可欠なものであり、自分の存在そのものなのである。国家を失った国民は難民と化し、どこにも行くあてが無い。過去に、ユダヤ人達も国家を失ってからは世界中をさまよい、非常に酷い目にあって来た。国の無い事の悲惨さを教えてくれるのは彼ら達であろう。しかし、彼らがいつまでもユダヤ人としての自覚を失わなかったのは、彼らの唯一神を心のアイデンティティーにしていたからである。彼らには選民思想というものがあって、自分達だけが、唯一、神から選ばれた民なのだ、という誇りを持っているからなのである。これは中国の中華思想と同じである。中国人は、世界の中心は中国であると固く信じている。アラブ人はイスラム社会こそ、世界の中心であると信じている。こうして見て来ると、すべての国の人々が自分達こそ世界の中心であると信じている事になる。これは何かに似ていないだろうか。そう、それは宗教である。宗教も各々自分達の宗教が世界で一番正しいと信じているのである。すなわち、国家とは1つの宗教なのである。日本人は日本国という宗教を信じているのであり、ロシア人はロシア国という宗教を信じているのであり、ドイツ人はドイツ国という宗教を信じているのである。すなわち、無神論者が進化論を信じているのも、進化論という宗教を信じているのである。よって、すべての人間は自分は宗教を信じていないと言っても、その国に住んでいるだけで既に、その国という宗教を信じている事になるのである。よって人間にとって、宗教とは切っても切れない関係にあるのである。たとえ、自分はどこの国の人間でも無いし、神も信じていないし、進化論も特に信じていないと言ったとしても、その人にとって、自分自身が宗教なのである。なぜなら、彼は自分以外の何物も信じていなくても、彼は自分自身を信じているからである。いや、私は自分自身すら信じていないと言うとしても、その人にとって生きて行く為にはお金が必要であり、お金を必要としている点でその人にとってお金が宗教なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界は大多数の群衆を、僅かな少数の支配者がコントロールしている。これは例えれば、三角形のピラミッドの様な形をしている。最下層ほど人数は多く、上の階層へ行くほど、数は減って行く。しかし、ここで逆に考えるなら、もし、大群衆が共に一致すれば、数が圧倒的に多いから、三角形を土台から逆さまにひっくり返す事が出来る。すると、立場は逆転し、最下層だった者は最上級になり、最上級だった者は最下層となる。こうなる事を少数の支配者達は一番恐れているから、大群衆が決して一致しない様に、常に巧みに、軋轢や問題を生じさせて、互いが争い合い、団結させない様にしている。世界に紛争が絶えないのはその為である。もし、全世界の国中の人々が国境を越えて、1人の有能で強力な指導者の下に一致団結すれば、現在の支配体制のすべてを終わらせる事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

成功者とは誰の事か。それは置かれた所で咲く花の様である。花はたくましい。花は自分の咲く場所を選べない。それでもそこに一輪の花を咲かす。砂漠で生まれても、砂漠の中で咲き、高山の極寒で生まれても高山の極寒で咲く。花だって自分が種を落とす理想的な状態の場所を好むはずである。心地よい太陽の光と、したたる水、そして肥えた土に根を下ろしたいはずなのである。人間も同様である。人は自分の親を選べない。ましてや、人は自分という存在を選んで生まれて来たわけでは無い。人は自分の親が好きで無いし、自分の事も好きでは無い。人も自分が生まれる理想的な条件で生まれたいはずである。お金持ちの何不自由無い家、理想的な父と母、たくましい体力のある体、ずば抜けて優れた明晰な頭脳、考え始めたらキリが無い。しかし、成功する者は、どんな条件に身を置かれても、そこで全力を尽くす。砂漠の様に乾いたつまらない人間関係でもコメディアンの様に面白くして楽しむし、極貧の中でも、極貧を満喫する。そうどんなに過酷な状態に置かれても、それを楽しめてしまうほどにまで努力するし、心の豊かさを忘れない人なのである。そう、彼らは、極限状況にまで自分を試した人達なのである。大海を見るがよい。荒れ狂い、猛烈な波しぶきを吹き上げているのは、海の表面部分だけでは無いか。あなたは何でも物事の表面だけを見て、その激動に怯え、惑わされる。大海の海の深い部分はいつも穏やかで、安定し、ゆったりとしている。同じ様に、物事も表面的には、猛烈な波しぶきの様に苦しく厳しいと感じてしまうが、成功者は、あえてその絶望の真ん中へひたすら突き進む。天を見よ。地の表面部分だけは風があれふぶき、大雨が降り、雷が鳴り響いていても、それに負けず、まっすぐ上を見て雲の遥か上を突き進んで行くなら、突然、天が開け、そこにはいつも晴れ渡った穏やかで安定した世界があるのである。台風を観察せよ。周りは暴風雨で荒れ狂っているが、それでも、めげずに台風の中心を進むと、突然、無風状態の穏やかな世界に突き出る。そう、それは台風の目の中である。ライオンに手を噛まれたらどうするか。手を引っ込めて逃げようとするから、ライオンは腕を引きちぎるのである。そこで逆に勇気を持ってあえてライオンの口の中に手を突き出せ。ライオンは驚いてあなたの手を口から吐き出すであろう。そうである。もはや何の救いも無い絶望的に見えるような状況に嘆いたり、そこから逃げようとするのでは無く、むしろその真ん中へ突き進むのである。そうすれば、絶望の中心は台風の目のように穏やかで平安があり、そこには希望で満ち溢れているのである。そうする者こそが初めて成功者になれるのであり、成功した者だけが、初めて自分の望む理想の環境を選べる様になるのである。よってあなたも、今置かれている自分の環境や状況をただ嘆いたり、そこから逃げようとするのでは無く、その置かれた所で全力を尽くすのである。そうすれば、必ず、誰にでも勝利の女神が微笑んでくれるのである。