高田義裕の人生論

今日の箴言

安い物でも、それを上質な物の様に着こなし、使いこなす事が真のファッションセンスなのである。

2.救いがある事に何の意味も無く、救いを受けるかどうかが、初めて問題なのである。あなたは今現代のタイタニック号に乗っている。あなたはこの世の中と言う船が間も無く沈没する事を知らない。それであなたは船の中で、毎日音楽を聴いて楽しみ、美味しい食事をして、この世を謳歌している。ある者は、お金を稼ぐのに必死で、毎日忙しく働いている。またある人は異性との交友を楽しみ、恋愛に夢中になっている。しかし、この船の船長、すなわちイエスキリストが間も無くこの世の中と言う船が、氷山の一角に衝突して沈没する事を知っている。それで彼はすぐに彼らを救う為に、救命ボートを用意した。そしてあらゆる所で緊急避難を呼びかけ、この船から脱出するように警告を発し続けた。しかし、この世の中と言う船の中にいる者達はその警告を聞いてもそれを無視し、あくまでも、船の中での生活を楽しむことを止める事をせず、せっかく既に用意されている救命ボートという救いがあるのにもかかわらず、それに乗ろうとしなかった。すなわち、救いはあるのに、誰もその救いに気付かず、気付いても言い訳をしてその救いを断った。そしてある日突然、船は氷山に激突し、船は傾き、沈み始めた。その時になって初めて事態の深刻さに気付いた人々は、驚き、慌てふためいて回りはパニックになった。彼らは我先に救命ボートのある所に行こうとしたが、その衝突の衝撃で救命ボートは船から海へ放り出され、粉々になった。それで人々は次々と真冬の凍る様に冷たい海の中へ投げ出され、溺れて死んでいった。どうだろう、今、この世界は、終末を迎えており、世界では、貧困、自然災害、大きな地震、あらゆる社会問題が起こっており、人類に対してこの後どうなるのか、警告を発しているのである。あなたは現代のノアの箱船である神の音信に注意を傾けているだろうか。それとも、いずれ滅びゆくこの世界の中で生活を営む事にあくまでも、夢中になるのであろうか。この世界は、神の大いなる日の戦争、すなわち、ハルマゲドンに向かって息を弾ませているからである。その時、人々のどんなに貴重な財産も、金や銀も何の役にも立たない。彼らはそれらを嘆息のあまり、ちまたに捨てる。よって人々よ、その神による最後の裁きが到来する前に、義を求め、柔和を求め、神を追い求めよ。この世界は天からの火によって滅ぼし尽くされるからである。なぜなら、この世の中の悲惨な有様が自らに滅びを要求しているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてのほとんどの人間達は、神エホバの心を喜ばせる事をせずに、ただ自分達の心を喜ばせる事だけに終始したのである。それは義と公正と愛ある親切によって、貧しい者、社会的弱者、取るに足りない者、見下げられた者、やもめ、問題を抱えている者に対して深い関心を示し、深い同情心を持って、彼らを援助する事も無く、ただ、自分自身の関心事だけに熱中し、彼らの事を放置しておいた事によって神を無視したのであり、彼らを助ける事によって、神を喜ばせる事をして来なかったのである。

2.救いの仕方には必ず優先順位というものがあって、まず、自分自身を救わなければ他の人を救う事は出来ないのであり、まず、自分の立場を安定させてからでなければ、他の人の立場を顧みる事は出来ないのである。もし、それが逆で、自分自身の立場が危ういのに、他の人を救おうとしてもそれは不可能であり、本末転倒な事なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分の思い通りの、望むままに行える事が優れている事では決して無く、それよりも、慣れるという能力こそがそれに勝って遥かに優れているのである。すなわち、優れている最大のものは愛する能力であるという事である。よって、偉大な順序として上から、愛、無(霊)、慣れ(心)、義、有(力)の順となるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、能力においては何の差も無いのに等しいのであり、例え、ある人がある1つの方面に他の人よりも長けていたとしても、それがその人のレベルを他の人よりも高い事を証明するものでは決して無く、それはその人の長所の一つでしかないと判断すべきであって、その人全体が良いとは言えないのである。他の人は、その方面には長けていなくても、その人には無い別の面でその人よりも遥かに長けている場合が多いのであり、結局は同じ立場なのである。また、実際的には、ある事に非常に優れている場合、その代わりに別のある事に対しては普通の人よりも劣っている場合がほとんどなのである。すなわち、古今東西、天才と呼ばれて来た人達は、一種の人格障害を抱えており、例えば、数学に秀でている人は、精神的な病を抱えていたり、優秀な頭を持っている女性は短命であったりするのである。また、対人恐怖症の人は絵を描く事に優れていたり、ノイローゼ気味の人は優れた芸術作品を作ったりするのである。よって、心身共に健康な人は何の才能も無い普通の人だったりするのである。すなわち、何かの事で他の人よりずば抜けて優れている者は、自分の事を誇るべきでは無いし、逆に何の才能も無い普通の人は自分の事を嘆く必要も無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、経験豊かで思慮深くなる程度に応じて、人は慎重になり、口数は少なくなること。よって、経験不足な者ほど口数が多く、目立とうとしたり、自分の事を自慢したりして人の失笑を買うこと。

2.たとえ、神に従う、神に従わないのどちらかであっても、それに関係無く、神の事柄に関連して、人が知りたい事柄、もしくは、人が知るべき事柄はすべて、神によって、すべてのあらゆる立場の人々に対して明らかに明示されていること。それは、すべての人が生まれながらに既に持っている[良心]の働きなのである。

3.[お互いに愛し合うこと]こそが[正常]も[狂気]もまだ生み出されていなかった時分から、すべてのものの最初から存在しているものであり、それこそがすべてに対しての基であったのである。

4.良い事にしても、悪い事にしても、すなわち、何を行うにせよ、それが行われる為には、理由(正当な主張、義、大義名分)が必要不可欠なこと。よって、理由の無いものはその最初から成立し得ないこと。これは[証明すること]が生み出される以前の、物事の大前提であること。すなわち、どんな悪事もそれなりの正当性を主張をして行われていること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神に従うか、従わないかという論争において、この論点の本質的意味とは、従うから良い、従わないから悪い、という単純に判断出来る様な両極端な話では決して無いものなのであり、これは従いたい者も、また、従いたくない者も同様に対等な立場である、全くの真の、自由意志に拠る選択的決定事であるという事である。よって、神に従う者は神に従わない者を裁くべきでは決して無く、また、神に従わない者は、神に従う者を裁くべきでは決して無いという事なのである。要するに、分かり易く言うと、神に従うか、神に従わないかという決定権さえそれぞれの人の所有では無く、神の所有物であるという事である。つまり、神に従うからと言って、その者は自分のもののように誇る理由は一切与えられ無いし、神に従わないからと言って、その者は自分の事を裁く理由は一切与えられないという意味なのである。要するに、従うにしろ、従わないにしろ、すべての者はそれら自身のものでは無く、あくまでも、神の所有物なのであるという事である。

2.人が始めた事は、人自身が終わらせるのであり、同様に、神の始められた事は、他の誰でも無く、神御自身が終わらせるのである。よって万物の創造は神が始められたものであるから、この万物の終わりも、神御自身が終わらせられるのである。よって、この世界は、人間によって滅ぼされる事は無い。よってこの世の中は、人類の環境破壊によって滅びる事は無く、人類の核戦争によって滅びる事も無い。そうなる前に神御自身が介入し、神がこの世の中を滅ぼされるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は何か問題が起こると、すぐに規則を設けてそれを規制しようとする。しかし、ここで規則というものがいかに愚かしく、危険なものかを論証して見よう。職場では、特に鉄工所などの危険な作業場では、常に安全第一が求められる。そこで、会社は、決して事故が起こらぬよう危険な事があったら逐一報告し、改善提案する事を従業員に義務を課した。これにより、危険行為は本人の不注意と見なされ、厳罰が課せられる事になった。それで、従業員は毎日ビクビクしながら決して事故は起こさない様に作業をする緊迫状態で作業しなければならなかった。しかし、ある日、Aさんはある作業をしていて、たまたま、ゆびにかすかな切り傷を付けてしまった。しかし、その事を上司に話せば、大問題として取り上げられ、本人の不注意として厳罰が処される事は目に見えていた。それで、Aさんは切り傷を負った事を誰にも言わずに隠して作業を続けた。何日かして、Aさんはいつも通りの作業を行っていたのだが、切り傷はまだ完全には治らず、傷のせいでいつもの作業は余りはかどらなかった。すると、上司が来て、いつもより数をあげていないAさんにもっと早く製品を仕上げるよう注意した。それでAさんは慌てて、手の傷のせいで作業効率が悪くなっているのにもかかわらず、無理をして作業を続けた。しかしそのせいでうっかりミスを犯して手を切断するほどの事故を起こしてしまった。会社はそれを聞いて真っ青になり、労働災害として国から処罰されるのを恐れ、事故の原因はすべてAさんの不注意に拠るものと独断し、その事故の翌日からAさんを解雇した。どうだろう、事故を起こさない為に厳しい規則を設けて、事故を防ごうとしたのに、逆に厳しい規則の故に従業員はどんな些細な事故でも罰則が怖くてそれを隠蔽し、その些細な事故が大きな事故を誘引してしまったのである。これこそ規則というものの恐ろしい正体である。よって、何でも問題を解決する為には規則を作ればいいと安易に考えては駄目なのである。これは一種のジレンマであり、パラドクスである。この様に人間が設ける規則というものは、甚だ不完全で、人間社会のあちこちに決して表面化しない形で企業ぐるみで隠蔽されており、あらゆる悲惨な弊害を産んでいるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて、知識自体に何か価値があるのでは決して無く、すなわち、すべて、知識の内容であるソフトに値打ちがあるのでは無く、ハードであること、すなわち、その今の状態よりも先の事を知っているということ、つまり、情報の先取り自体にのみ価値があるのである。ただ、その事を悟らず、その情報そのものや、知識の内容自体に価値があると思い込んでしまうこと、これが偶像崇拝の意味するところなのである。すなわち、偶像崇拝とは、行動を停止すること、思考の停止に他ならない。例えば、ある自動車メーカーがあって、今最新のモデルの自動車を発売したとする。しかし、それも何年も経つうちにそのデザインも、その機械の性能も時代遅れになって古くなって行く。だからすべての自動車メーカーは、その後、次々と新しいフルモデルチェンジを行って進歩して行くのである。しかし、ある1つの自動車メーカーが2018年に製造した最新の自動車を発売した後、その2018年製の自動車が我が社の作った自動車の中で最高のものであると評価し、それ以上自動車を改良して新しいフルモデルチェンジをする事を止めてしまったらどうなるか。すなわち、それでもう最高のものだと思い込み、思考を停止してしまったらどうなるか。確かに2018年の時点では、これと無い最高の自動車であったとしても、この後、何年も経つうちにその自動車の性能もまた古くなり、時代遅れになって行く。時代は刻々と変化しており、その流動性は激しい。常に人間はその流れを先読みし、時代の変化に対応して行かねばならない。しかし、ある1つの自動車メーカーは、2018年度製の自動車にこだわり続け、その後の改良なり、新しいアイディアなり、新車開発を怠り、2020年になっても2030年になってもその同じ車を売り続けるなら、最後にはどうなるだろうか。そう、他者の自動車メーカーの激しい競争について行けず、遂には倒産してしまうのである。これを1人の人間に置き換えて見るならば、ある1人の人が、ある思想に取り憑かれ、この思想こそ最高の教えだ、と思ってそれ以上、他の人々と関わるのを止め、それ以上考える事をせずに思考を停止し、その思想を偶像として崇拝し続けるならどうなるか。その人は人間社会の激しい流れについて行けなくなり、全く孤立し、そこだけが時間が止まってしまった様な状態になり、遂には、生きて行けなくなるのである。すなわち、廃人となってしまうのである。これが偶像崇拝の恐ろしい結末であり、人はこれこそ最高のものだ、というものを手に入れる事を目標にしているかもしれないが、それは、自分自身を破滅に至らせる非常に危険な考え方なのである。よって、人はこの世の中で最高の存在に成ろうとか、最高のものを手に入れようとする陥り易いその思考パターンを捨て、常に進歩する事に終わりは無く、人は永遠に努力し続けるしかない存在である事を十分に認識しておく必要がある。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰もがそれに対して暗黙の了解事であり、それを吟味して疑うことなど夢にも思わず、むしろ、疑う事を忌むべき事である、とさえ思われている、まさに世の中での常識事であり、人々の行動の指針であり、源泉となって来た権威ある命題の部類の中には、数多くの事実無根であり、実際には、全くの見当違いである事柄が存在しているのであり、現代社会においても、誤って知識として奉られ、権威の元に置かれているものが、余りにも多いのである。例えとして挙げれば、それは、あらゆる古今東西の有名な思想家や、知識人が好んで取り上げた疑問的題材、すなわち、[人はなぜ生きているのか]や、[人生とは何か]や、[生きるとは何か]などに代表される諸命題なのである。これらは実際には、決して解答の出ない、その初めから存在していない空理であって、全くの愚かな質問の系図に属するものなのである。それらに限って言えば、生きるという事に対して、その様な評論家的で他人事の様に、生きるという事を客観視している事自体が一種、異常で異質な状態なのである。生きるという事は、誰に対してもその本人にとって常に目の前の現実であり、客観視して考えるという隙間さえ与えられないほどの現在進行形的な主観そのものの事なのである。人は考えている時、自分は今、考えているなどとは思わないし、意識していないのである。これと同様に、人は生きている時、自分は今、生きているなどとは思わないし、意識していないのである。生きている事を客観視している事自体が、本当にその人が生きていない証拠である。今、サッカーの試合を見ている観客は、サッカーの試合を客観的に見ているのであり、それは実際にサッカーしている選手では無いからそう出来るのである。同様に、サッカー選手の様に、実際にサッカーの試合に出場している者はサッカーの試合を客観視などしている暇は無いのであり、人生とは何か、などという事を考えている時点で、その人は自分の人生という試合に出場していない、ただの観客なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は何でも知りたがるが、すべてを知ることが、必ずしも人間の幸福であるとは限らないのである。

2.それに従わざるを得ない程の決定的証拠や、非の打ち所がない公正さ、あるいは、ただ感心せざるを得ない、誰もが納得するほどの容易な説得力を出し尽くしてしまう事には、実は全く何の意味も無く、そこまで言い尽くしてしまう前に、相手にそこまでを自ら考えさせ、悟らせる様に、あえて曖昧にする事こそが人間関係の極意なのである。すなわち、全部言ってしまったらそれでお終いなのである。よって、答えをあえて、ボカして相手に考えさせる事に初めて意味があるのであり、それこそ良い教育の仕方なのである。

3.何が[悪]かと言って、正しくもなければ、悪くもない事、もしくは、何が悪いかをあえて、はっきりさせないこと、またしないこと、すなわち、その様な生ぬるさ、慢性さ、優柔不断さ、いい加減さ、曖昧さこそが最大の[悪]なのである。