高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

私達の神はおられるはずであるとか、神がいてほしいという、単なる人間の一方的な臆測や希望の延長線上に神がおられたりするのでは無く、私達人間の好みによって神が介在しておられる訳では決して無いのである。ただ、私達に対して、聖書の意図している事は、まず、一方的に我々より先に存在している神の与え賜うた規準に従う事しか我々人間には出来ないという厳粛な事実であるという事である。すなわち、神を信じる者は、その人が神を信じたからでは無く、神がその人を神を信じる様にされたのであり、また、神を信じない者は、その人が神を信じないのでは無く、神がその人を神を信じない様にされたという事である。すなわち神は私達人間にとって、絶対者なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私が、聖書の神からの知識を正しく学んでいなかった時分、今から思うと、本当に愚かで、無知であることを思い知らされる事とは、いろいろな君主制や絶対王政の圧制的支配によって、民衆は常に歴史上、苦しめられて来たという事を学校などで学んでいたため、民主主義というものが、全く人間にとって、考えられる唯一の素晴らしいシステムだと信じていた事である。しかし、神に拠る正確な知識を幾らか教えて貰った時、それまでの自分にとって、拠り所であり、確信して疑わず、むしろ自分にとって誇りとしていた考え方や観念という富を一切崩されるほどの精神的革命、いわゆるパラダイムの変換が私に到来したのである。それは、実際には、王政、君主制というものが、一番人間にとって考えられる唯一の良い支配の仕方であるという事である。ただ、人間がその制度を用いてしまう場合、どうしても絶対的権威は絶対に腐敗してしまうという事である。よって、良い王が臣民を正しく支配するなら、それは一番、人間にとって豊かで、平和で、安心出来る、安定した支配制度なのである。その点で考え直すと、民主主義とは実際には衆愚政治を生み出し、貧富の格差を広げるだけの無秩序を生み出すしろ物に過ぎ無い事が明らかになって来たのである。結局、人間には、常に模範とすべき、力ある有能なリーダーという存在が無ければ人類は一致せず、争いと分裂を繰り返すだけの生き物なのである。よって、人類にとって最大の益となる、唯一の正しい支配の仕方とは、神を王とする神権支配政治なのである。よって、人間が神の代わりをする時代は既に終わってしまったのであり、これからは、本当の神御自身が人間を臣民として永久に支配する時代が到来したのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ、どれだけ人の数が増えても、神の目から見て、1人にしか過ぎ無いこと。

2.人間のどんな取り組みや試みも、最後には、神に栄光が帰される形で帰着すること。

3.たとえ、自分は騙されても、自分は他の人を騙さ無いこと。

4.常に、正直、勤勉、感謝の心構えで物事に取り組むこと。

5.すぐに憤る者は、あまり頭の使わない人間の典型的な特徴の1つである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分1人だけが、一番幸せになるという考え方は、全くの非現実でナンセンスなものであり、全体の幸せが、初めて個人の幸せをも確立するものなのである。よって、共存共栄の精神態度こそが、人間の持つべきものの最高の価値なのである。

経営論

常にお金をより儲ける事を考えるのでは無く、常にお金を流動させる事だけを考えて行く事が、他のすべての企業にも良い影響を与える、企業が最も永続出来る良い経営の仕方なのである。

3.人の処世訓は、生き延びる事に関するものであるが、神の知識は、人はどう生きるべきかという事に関するものなのである。これは、同じ[生]であってもだいぶニュアンスが違うものであり、[生き延びる]と言う事は有限であり、限界があるものであるが、[どう生きるべきか]と言う事は無限の問いであり、最初から永遠的なものなのである。

4.神の言われる[~してはならない]は、[~する必要がない]と言う事を、初めて意味するものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人の言いなりになって、人の言われた事に従うだけで良いのなら、実はそれほど楽な事は無いのであり、何事も、自力で新しい道を切り開いて行く事が、一番たいへんで、しんどい事なのである。

2.人は極楽的な退屈さには、耐えられない様になっているのである。もし、その様な状態が長引けば、人はむしろ、ハプニングやアクシデントでも起きて欲しいとさえ思いがちになるからである。

3.どんなストレスも、少しの間なら全く問題は無いのである。ただ、それが長引くかどうかで、深刻な事になるかどうかが決まるのである。

4.まず他の人の良い面を見つける事に貪欲であり、目ざとくありなさい。それが人間関係のすべての初まりだからである。

5.まず他の人の悪い所を見つける事に疎く、鈍感でありなさい。それが人間関係を潤滑にする秘訣だからである。

6.どんな悪しき事も、また、どんなによこしまな事も、また、どんなに淫らな事も、そしてどんな被造物のどんな営みも、それらの事が全く、思いのままに、望みのままに見過ごされ、その存在を許されているのは、ただ1つ、神エホバの主権の正しさの回帰のため、そして、立証される為だけの理由に拠るのである。すなわち、すべてのものは、神のため、神の故に、また、神に拠る為に創造されているからである。アーメン。

7.すべてのあらゆる立場の人間は、次の事を考慮に入れるべきである。すなわち、自分の幸せの為に生きるのでは無く、まず、神の為に生きていくべきである事である。それが結局は、すべての人間の真の幸福だからである。

8.神を否定する者も、神を少し信じている者も、また神を全く知らない者も、また他のどんな者も、最後には神エホバに関連した事柄によって裁かれるという事である。

9.人の観点は、どうやったら生き延びられるかにあるが、神の観点は、生きていく資格があるかどうかによって測られているのである。

10.まず、自分が人にして貰いたい事をあなたから先に人に与えなさい。それが自分が受ける事の初めての一歩だからである。

11.多く持っている者はより多くを求められ、少なく持っている者は僅かしか求められないからである。不公平はありません。

高田義裕の人生論

神エホバが、アダム以降の人間の子孫達を憐れまれた理由は、現在、不完全である私達人間が、自分達の内に確かにある現実、すなわち、自分にとってそれが明らかに悪いこと、良く無いこと、おかしいこと、である事柄を十分に認識し、かつ、よく自覚し、分かっているのに容易にそれを止める事が出来無い、もしくは、なかなか止められないという、自分達の意志や望みとは別に自分の内に既に宿っている罪があらゆる悲劇を生んでいるというジレンマの苦しみを知っておられるからである。

2.自分に不利になる事を話さない事と、嘘をつく事とは違うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

無価値が無価値を支える事は出来無い。愚かさが愚かさを支える事は出来無い。無知が無知を支える事は出来無い。では、過ちを支えてくれるのは誰か。それは過ちを犯していない者なのである。私達は実に罪深く、いろんな過ちを犯す。それで世の中に罪が蔓延し、悪が満ち溢れているのを見て、人々は悲嘆し、神などいないと言う。しかし、それは逆である。罪深い悲惨な事柄が存在すればするほど、それは神の存在の確かさを証明するものとなるからである。なぜなら、悲惨な事柄を悲惨な事柄としてその存在を許す事が出来るのは、正しい事柄が存在するが故にだからである。すなわち、病気の者を支えてやれるのは、同じ病気の者では無く、あくまでも、健康な者だからである。例えで考えて見ると、今、1人の盲人がいて、自動車が激しく行き交う道路を横断しようとしている。もし、盲人が盲人を手引きするなら、2人とも自動車に跳ねられて死んでしまうであろう。やはり、盲人を案内するのは目が見える健康な人がするのであり、愚かな者が愚かな者を導くのでは無く、賢い者が愚かな者を導くのである。また、私達は自分のした事さえ、昨日の事も忘れてしまっているが、それは逆に言えば、すべての事を忘れる事なく、全部覚えておられる存在がある事を証明している。それは神である。あなたは傷を付けるとき、既に傷が付いているものに傷を付けたからと言って、それは傷を付けた事にはならない。あくまでも、最初から傷が付いていない清くて正しいものに傷を付けてこそ、初めてそれは傷を付けたという事が言えるのである。よって、この世界に悪が存在できているのは、善という正しい方、エホバ神が存在しておられる故になのである。なぜなら、悪という傷が、悪という傷に傷を付けるなら、悪自体が分裂している事になり、悪は悪としてその存在を成立させる事が出来無いからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは過去の事は変えられ無いと思っていないか。すなわち、過去に犯してしまった取り返しの付かない言動は、もはや、過ぎ去った過去の事である故に絶対的に覆されないものであると思っていないか。実はそうでは無い。過去は変えられるのである。たとえ、あなたがどんな罪深い過ちを犯していても、あなたがまだ、生きているうちは、あなたの過去は変えられるのである。たとえ、あなたがかつて、犯罪者であろうが、殺人者であろうが、アルコール依存症であろうが、ドラック依存症であろうが、ありとあらゆる罪を犯していたとしても、今後の努力次第で過去に対するあなたの評価と価値観は変化するのである。それは、あなたが、以前の罪を深く悔い、悔い改めて、以前の生き方を捨て、間違っていた道から立ち返り、正しくて健全な行いを続けて行くなら、必ずや、あなたは他の人から敬意を払われるだろう。人々は、あなたの立派な行状や、素晴らしい人格を見て驚嘆するばかりでは無く、以前は犯罪者であった事を知る事により、それほどまでに変化したあなたの成長をむしろ、歓迎するだろう。例えば、以前は麻薬中毒者であった人が、悔い改めて努力し、今では、麻薬中毒者を更生させる事を支援するカウンセラーになっている。その人は自分が麻薬中毒者であったことにより、同じ麻薬中毒者の患者の苦しい胸の内を誰よりもよく分かる立派なカウンセラーと成れるのである。そう、自分の犯した過ちの故に、今や、立派に行動しているのなら、むしろ、過去の過ちがアドバンテージとしてあなたを飾るものとなってくれるのである。まさにこれによって、あなたは過去を変えた事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

支配論

この世界の支配層は、一般大衆をどのようにコントロールするかいつも考えている。一般大衆の生活とはどのようなものだろう。それは毎日額に汗して働き続け無ければ、生きていけない、生活していけない状況なのでは無いだろうか。誰もが大金持ちになって、働かなくても楽に生活してゆきたいと思うものである。しかし、現実は、人為的に、一般大衆が永久に金持ちになれ無い様に、意図的に制御され、絶妙にコントロールされている。すなわち、お金がすべての人間に隅々まで広く行き渡らないようにあえて操作してあるのである。なぜなら、すべての人々が金持ちになってしまったら、みんな誰も働こうとはしなくなるからである。支配層にとって自分達の手足となって、奴隷労働する一般大衆がいなくなってしまっては、非常に困るからである。これは宝クジに似ている。一等賞3億円の宝クジを買ったすべての人が一等賞を取ったらどうなるか。もし、3億人の人が宝クジを買ったなら、3億円を3億人で分けなければならない。すると、一人当たり1円の儲けしか無い。これでは一等賞を取った意味は無いのである。これと同様に、一握りの人間だけが世界中にあるお金の90%を独占しているのである。それで、残りの10%のお金だけが一般大衆に出回っている。当然、お金の数が少な過ぎるので、人々は必死で奴隷の様に働いてお金を手に入れようとする。この様に、ひどい思いをして働かなければお金は手に入らない様に支配層が仕組んでいるのである。この様にひどい思いをして、初めてお金は手に入るものだと、支配層は一般大衆に教育し、さもお金に価値があるかのように洗脳しているのである。すなわち、狡猾にも、支配層は、一般大衆に対して、あなたも頑張れば大金持ちになれますよ、と決して実現出来ない理想像を描かせ、労働する事を美化し、その偽りの宣伝で、一般大衆を生かさぬよう殺さぬように、ずっと働き続けさせる為だけの賃金しか与えないのである。よって、一般大衆が自分も裕福に成れると思って、一生懸命働いてお金を稼ごうとしているのは、まんまとこの世界の支配層の思いのままに操られ、餌食としてマインドコントロールされているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界に絶対的なものなど1つも存在しないという意味とは、1つ例えて述べるなら、人間が人生の中でこんな素晴らしい事があるのか、と驚く様な素晴らしさも、また、こんな事があって良いのか、と驚く様な悲劇も、時が経つうちに、いずれは使い古され、人々から飽きられ、次第に廃れて行って、遂には全く忘れさられてしまうという事である。なぜなら、私達よりもずっと昔の時代にも信じられ無いくらい、途方も無い、素晴らしい事柄や悲惨な事実があったに違い無いからである。しかし、今はどうだろう、そんな昔の事を知っている者など1人もいないのである。

2.自分の言う事に、一貫性が無ければ、何も信用されないのである。よって、約束した事は、果たせ。しかし、自分には無理な事を約束するよりは、むしろ初めから約束しない方が良い。人間はともすれば、自分に実現不可能な事柄を約束してそれを果たせずに、人からの信用を失ってしまうからである。そんなくらいなら何も約束しない方がよほど信用される。