高田義裕の人生論

今日の箴言

この現在の社会は本当に大変な事になった。日本では、勝ち組と負け組に分かれる現象が起きて来たが、もはやそれを通り越して、生きるか、死ぬかの差になって来ている。人々は、物凄く短気に成って、暴力事件は絶えないし、仕事も人間関係の悪化で、辞める者が続出している。みんなパワーハラスメントを嫌がって働こうとしなくなったし、そのせいで不景気にもかかわらず、すべての職種で人手不足になっている。今働いている人は、職場の人間関係とパワーハラスメントに耐えながら、一人で何人分もの仕事を抱え、過労死したり、それが元で鬱病が増えている。病院の精神科は、患者で溢れかえっている。物凄く恐ろしい世の中になったものだと思う。もはや日本人は食べていくだけでやっとなのである。いや、食べていけるだけマシである。就職も出来ずに住む所も無く、食べる事さえ出来ずにいる者達は、いっぱいいる。国から年金を貰っても生活出来なくて、70歳,80歳を超えても仕事をしなければならない。それも正社員にはなれない。皆、アルバイトかパートである。日本の銀行も存続が怪しくなっている。お金は預金者のお金でじゃぶじゃぶに余っているが、それを貸し付ける所が無くて、銀行は経営難に陥っている。もはや日本には希望が見えないのである。というか、日本だけでは無く、これはもう世界規模でそうなっているのだと思う。まさに世界の危機であり、人類社会の終焉が間近に迫っている。そこら中で地震が多発し、自然災害も物凄い。一体世の中はどうなってしまうのだろう。神よ、どうか私達を救い給え。苦しんでいる者達を助けて下さい。全創造物は皆、共に呻き、共に苦痛を抱いているからです。

高田義裕の人生論

今日の箴言

心、すなわち、精神や霊というものは、実際には物質の様に明確な存在や重さや形が無いものであり、その意味においては、実在しないもの、もしくは、実体の無いものと言える。それは神が物質的存在では無い故に、神という存在も、物質世界から見れば、実在しないもの、もしくは、実体の無いものという事が出来る。しかし、およそ、この万物の中で、一番存在が希薄であり、全く柔弱なものである私達人間という霊長類が、存在している事が、霊が存在する確かな証拠なのである。さらに、その霊、すなわち、実態の無い、心というものがすべてを決定し、支配する権利を有している現実も我々は知っている。よって、神に対する信仰とは、ほとんどあり得ないほどに、可能性の低いものに対して確かな希望を持つという事であると言える。なぜなら、人間とは、ある意味で、常に危険なところと、安全なところの境目で駆け引きをして、そのリスクの代価として、命を勝ち得ているからである。すなわち、生きるという事自体が実体の無い、実在しないものなのである。そういう意味においては、命そのものが実在と虚無の間で揺れ動く、実体の不確かな性質のものなのであり、ほとんどあり得ないほどに可能性の低いものに確信を抱くという意味においては、人が生きるとは、信仰そのものなのである。よって人間という存在自体が、肉体という実世界と、霊という実体の無い世界という本来なら決して両立せず、共存する事の出来ないもの同士が一つになって存在しているという、全く奇跡の産物なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

毎日、新聞やインターネットのニュースを見て、想像を絶するほど凄惨で、奇怪きわまり無い殺人事件を知る時、私が思うのは、この理解し難い殺人事件が、我々がむしろ、見た事も無い奇怪な宇宙人によって引き起こされたと言われた方が、ある意味で、よほどスッキリとして理解し易いのである。しかし、現実は、私達と全く同一の人間がそれを起こしたという事実を知る時、私達は、当惑し、混乱させられ、その事実を認めたく無いのである。この様に、常識では、考えられ無い事柄が頻繁に起きているのなら、私は、たとえ、どんなに理解出来ない奇跡が起きてもそれを少しも不思議には思わないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

実際には、物事をある事において、はっきりと断言したり、きっぱりと決定するという事は、それだけで、一種のエネルギーや良いものを減らしたり、スポイルしたりするマイナス行為の事なのである。要するに、人間は常にはっきりとした結論や答えを探し求めている者だが、およそこの世界に答えのはっきりした解決方法など、天地創造の初めから、決して無いのである。それは、量子力学においても、電子の位置を正確に知ろうとすると、その電子の速度が曖昧になり、逆に電子の速度を正確に知ろうとすると、その電子の位置が曖昧になる事と同じなのである。すなわち、物事の性質を正確に知ろうとすると、その物事の存在性は曖昧になり、逆に物事の存在性を明らかにしようとすると、その物事の意味が不明瞭なものになるのである。

2.キリスト教神学序説

神が、最初の人間アダムとエバに善悪の知識の実を食するな、と言われた神の命令と、神が最後の人間アダムであるイエスキリストの血を飲み、その肉を食せよ、言われた神の命令は意味上の点で一致すること。

3.イエスキリストが杭の元での死から復活された際、使徒ペテロに3度ご自身を愛しているかを尋ねられたのは、決してペテロを信頼していなかった訳では無い。あくまでも、それ以前に、ペテロが敵に対して3度イエスの事を否認させられた事に対する帳消しの言葉であり、ペテロに対する愛故に、ペテロ自身にそれを確認させ、弁明させる行為だったのである。

4.善も悪も、本来、神の公正で全き規準というバランスの取れた真理というものからすれば、元々は存在しなかった、真理から遠く離れたバランスの取れていない両極端な偏りでしか無いこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何が最も洗練されていて、カッコいいとか、もしくは、何が最もカッコいい服装なのだろうかと必死に考えている者達に対して言える事は、本当に洗練されていて、カッコいい事、もしくは、センスのいい人とか言う者は、この世界で最もカッコ悪いと思われる服装や身なりをしていても、むしろ、それがカッコ良く見える様な雰囲気と価値観に変えてしまえる人の事を言うのである。要は、その人の精神性や生き方が洗練されていれば、何を着てもカッコ良く見えてしまうのである。よって、大事なのは、外見では無く、あくまでも、心なのである。

2.一人一人の人生はあくまでも、各々その人だけのものなのだ。よって、その人にしか分からない苦しみもあれば、また、その人にしか分からない喜びもあるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人々は神からの奇蹟というものを信じ無い傾向にあるけれども、もし、奇蹟というものの定義を、日常の事柄からかけ離れたもの、もしくは、周囲から見て、明らかに不自然で、偏った異質なものと見なすなら、奇蹟を非現実的で、あり得無いと思っている人達にとって、あなた方が現在、この世の中で生きている営みの中で、大自然という全体から見れば、私達人間の社会は、物凄く不自然で偏った異常なまでの進化なのである。それは、核ミサイルの存在であり、地球温暖化の排気ガス問題であり、伐採に拠る森林の急激な減少であり、それで十分、稀で奇蹟的な事柄を、人間は、行っているのである。ただ、この場合、あくまでも、神が行われる、稀な事、すなわち奇蹟は、そのすべてが良い事の為に常に行われるのに対して、人間が行う稀な事、すなわち、奇蹟は、そのすべてが良い方向にでは無く、常に周りを貪り、破壊するという、悪い結果をもたらすと言った点で、決定的な相違があるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

だいたいが、災いとは、その人が、その災いを受けるに値する程、悪いと言う理由で受けるのでは決して無く、ただ、その定義とは、そのままで上手くやって来れた今迄の同じやり方が、通用しなくなって行き詰まるという状態に過ぎないのである。また、だいたいが、幸福とは、それを受けるに値する程、正しいと言う理由で受けるのでは決して無く、ただ、その定義とは、今現在の対処の仕方が、周りの状態に上手くあっていて、流れに乗っているという状態に過ぎないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

悪行者の行う、取り返しがつかない程の深刻な悪事は、必ずと言っていいほど、取るに足りないほど、幼稚で身勝手な動機によって引き起こされること。逆に、義者の行う善行は、必ずと言っていいほど、他者からは、信じられないほど深刻に覚悟を決めて行う真剣な気持ちと言う動機によって成されていること。要するに、本当の義者は、人に何か親切な事をして、自分で親切にしてあげた、と自己満足して、悦に浸るという事がどういう事かを知らないのである。すなわち、自分は良い事を行ったのに、自分は報われないなどと言う不足を味わう感情を持ち合わせていないからである。しかし、凡人は、これだけしてやったのに、何も報われないと感じて、親切を行うのは割りに合わないと考え、親切を止めてしまうのである。ここに、義者と普通の人との格差が生じるという事である。

2.奪うという定義は、相手に、ちょっとの事をしてあげて、その代わりにその倍以上の事を要求する態度の事を言うこと。

3.何かに病的だと言えるほどに優れて秀でている者は、その代わりに、何か別の事に異常なまでに病的なこと。よって、天才と呼ばれる人は、心理学的に言えば、精神状態がバランスの取れていない、偏りのある人格障害を抱えており、実際には本当に賢くて、優れている訳では決して無いという事なのである。よって、何の取り柄も無い、凡人と呼ばれる人は、心理学的に言えば、精神状態がバランスが取れており、何の偏りも無い健常者であると言う事になる。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間関係において、優れた者が好かれるのでも無く、また、劣っている者が嫌われるのでも無い。ただ、素直で無い者だけが嫌われるのであり、ただ、素直な者だけが好かれるのである。

2.人と仲良くなるのは、多くの時間と、多くの出費と、多くの忍耐と、多くの心遣いとが必要だが、逆に、人と仲たがいするのは、ほんの一瞬で出来るほど、た易い事なのである。これは、人を生かし、育てるのは難しいが、人を死に至らせるのは、非常に一瞬で、た易い事と同じである。また、正当のルートに従って、段階をきちんと踏んで、あるものを得る事は難しいが、不当に無理やりに、奪う事は、全く、た易い事なのである。

3.へつらいや、互いの利益に係わる豪華な贈り物を受け取る事よりも、ふとした親切や、時宜に適った行いで受ける、ほんの小さな褒め言葉や、些細な思いやりを受ける時の方が、真の豪華で価値ある贈り物なのである。それは、ふと年若い少女が、年上の青年に対して、ほのかに抱いた純粋な感謝と好意の心によって、道端に咲いていた一輪の花を、恥ずかしながらも、彼に差し出す様なものだと思う。

高田義裕の人生論

今日の箴言

およそ、義に適う事が、人間の最大の目標だと思う事があるかもしれないけれども、確かに、聖書には、自己自制や良い行いについてそれを行うべきであると書かれてあるのには違い無いが、必ずしもそれを最終目的にせよ、と書かれてある訳では決して無いという事である。すなわち、神は最初から、人間達に少しも良い行状を示し求めている訳でも無ければ、より立派で、より規準の高い、義のレベルに到達するよう要求しておられる訳でも決して無いという事である。人間を含めたすべての生きとし生けるものとは、その性質上、本来ただ自己欲求を満足させるだけの存在であり、それ以上立派でも無ければ、それ以上愚かである訳でも無いのである。よって、あくまで、生き物の世界にあるのは、自分の当然の欲求を不当に、不自然にも抑圧したり、我慢したりする事では無く、ただあるのは、互いの全く同等の立場である人間同士を尊重し合い、ギリギリのラインである、話し合いで、互いの協定ライン、もしくは妥協ラインを決定して行くコミュニケーションの営みの繰り返しだけなのである。そこに何が正しくて何が悪いかなどという立派な議論など入る余地も無いのである。