高田義裕の人生論

今日の箴言

なんたることか。私は今まで、より得よう得ようと、苦しみながら、必死でやって来たのに、むしろ、真実は、何も得ないことが、すべてを得ることであったという事実である。

2.ハンディキャップをむしろ、そのハンディキャップのゆえに、全くのプラスに変えること。

3.およそ、この世界に、深刻に考えなければならないことなど、初めから一つとして存在しないこと。

4.人は、なぜ、ともすれば、知らず知らずのうちに、他の人に対して、批判的になり、義人のつもりになり、互いの足を引っ張り合おうとし、かつ、他の人を利己的に利用しがちになるのだろう。

5.話すばかりがすべてではないこと。ただ黙するということも、大切な場合があること。

6.人は皆、将来を知りたがるが、人間にとって、その先が手に取るように見え、分かるということは、実は物凄く恐ろしいことだということである。古今東西、成されたすべての偉業は、まだ先が見えないゆえに、恐れも知らない冒険心と、希望とによって、成されて来たということであり、人は既に見えているものに対して希望は抱かないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある幸福な人がいた。彼の生活は、貧しくて質素なものだった。それである人が不思議に思って、なぜ幸福なのか尋ねた。すると彼は言った。私は自分の限界をよく知っている。だから、欲張って、無理をすることも無いし、他の人と比べて自分は劣っている、と思うこともない。すなわち、自分のことをよくわきまえているから、不満に思うことが無い。だから、毎日、余裕を持って、無駄なく生きている。よって、生きることが苦痛で無いのだと。また、ある不幸な人がいた。彼の生活は、裕福で豪華なものだった。それである人が不思議に思って、なぜ不幸なのか尋ねた。すると彼は言った。私は自分には、まだまだ可能性があると信じている。だから、今よりも、もっと良くなりたいから、無理をしてでも頑張っている。あれも手に入れたいし、これも実現したい。だから、今の状態のままでは満足できていない。また、他の人と自分を比べて、自分は常に劣っていると感じて、決して負けたくない。今の自分は、自分の理想からは、程遠くて、不満の内に生きている。だから、毎日が目まぐるしく忙しい。それで、精神的にも、肉体的にも疲れており、ストレスが溜まっている。それでたまに、生きるのが嫌に感じることがあると。それで、二人の事を聞いた人は思った。人は、貧しくとも、幸せに生きられるし、また人は、裕福でも、幸福にはなれないのだと。何と幸福とは、単純には、計り知れないものなのであろうか。この世界は、多様性で満ちているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神の裁き(ハルマゲドン)の近い今日、神に対する私達の犠牲は、物質的な宝ではなく、あくまでも、私達の心の犠牲にこそあること。このような意味で、私達の硬くこびり付いて、石膏のような、頑なな心を砕き、打ち、こね、裂いて、神に対して従順さを示さなければならないのである。

2.何も特別な教育方法など無いし、また、必要無いこと。ただ、親自身が立派な行いを自分自身の為に、自分の栄光の為ではなく、周りを全く気にせずに行えば、子もまた、立派な行いを自分自身の栄光の為ではなく、周りを全く気にせずに行うようになるのである。しかし、親が不実な行いをしていれば、子もまた、不実な行いをするようになるということである。

3.すべてに対して、行動する為の判断の要であり、要点とは、何事もまず、自分が他の人に対して、して欲しいと思う程度の事柄を、自分の方から先に他の人にしてあげるようにすること、何事も、他の人の立場と気持ちに立って考える想像力を培うこと、すなわち、隣人を自分自身のように考え、そして愛すること、これらこそが、あらゆるすべての基であり、すべての初めであるという事である。

4.神に全く従うということは、たとえ、どんな状況に陥られようと、神を自分の尺度で測らないということを意味しているのである。

5.たとえ、他の人々のことをどんなに良く見え、かつ、羨ましく思っても、自分はあくまでも、自分でしか無く、よって、自分は自分なりの、自分だけの工夫によって、生きていき、やって行くしかないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰かが楽をすれば、誰かがそのツケを払わされる事になる。これはどういうことかというと、この世界では人間の数は有限であり、無限に人がいるわけではない。ならば、仕事をしている人の人口は更に限られる。例えば、ここで100人の人がいるとしよう。そして、仕事の量も100件あり、それの賃金の総額も100万円あるとする。まず、誰かが仕事を受注し、10人の人間が90万円を仕事もせずにピンハネするとする。すると、1人につき、90000円を受け取ることになる。後は10万円しかない。これを残りの90人が享受することになる。仕事の量は変わらず100件ある。ここで、40人がまたピンハネをし、90000円を受け取った。90000円を40で割ると2250円である。すると後、1万円しかない。しかし、仕事の件数は100件のままである。すると、残りの50人が100件の仕事を10000円でこなさなければならなくなる。仕事100件を50人で割って、1人が2件分の仕事をしなければならなくなり、その賃金は、10000円を50で割って、200円になってしまう。そう、上の富裕層は何の仕事もしないで、1人90000円も稼いだ。そして、そのミドル層も何もしないで、1人2250円を稼いだ。それに対し、一番末端の貧困層は、1人で2倍の仕事をこなして、1件の仕事の賃金を僅か100円で請け負うことになるのである。これの拡大版が、この世界のメカニズムであり、システムなのである。これで、いかに世の中が不平等で、不公正であるかが良く理解できるだろう。すなわち、まともに働いているのは、私達庶民であり、それも物凄い低賃金でこき使われているのである。これでは食べていけないし、過労で病気になって死んでしまう。要するに、上層部の支配層が楽をしている分を、私達庶民が苦しんで支えているのである。これこそ、金という不義なる存在の正体である。要するに、金の価値は、貧困層の過重労働によって支えられているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

セックスする時だけしか心を開けない、もしくは、それしか二人の共通点のない男女は、互いに結婚相手としては、決してふさわしくないこと。

2.本来、今日という日を、一生懸命生き抜いた者のためだけに、明日という日があること。

3.愛してくれる、または、愛する人がいなくて、自分一人しかいない状態など、もはや、何の意味も成さないように、神という生みの親を失った人類に、もはや何の意味もないという事である。

4.なぜ、占いは当たるのか。それは占いとは、統計学と確率の所産であるということである。生命保険も、統計学的に計算すると、ちゃんと儲けられる仕組みになっているのである。すなわち、私達は日頃、どんなに勝手気ままに、自由に行動しているように思っていても、本質的には、塀の中の広い檻の中で動き回っているだけであり、実際には、あくまでも、統計学の予測できる範疇でしか行動していないのである。だから占いは良く当たるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

水が清過ぎるところは、魚も住まないように、立派過ぎることだけでは全く意味がないこと。あくまでも、価値の低いものもあってこそ、初めて立派な事柄は引き立ち、価値が高いと評価されるということである。

2.この世界は、多様性で満ちていること。なぜなら、あなたが、どうひいき目に見ても、自分にとって、欠点だとしか思われないような特徴も、それを良いと思う人間もいるということなのである。この世界は私達が考えているより、遥かに広大であり、決して捨てたものではないのである。よって私達は、自分という小さな世界で、決してくよくよするべきではないし、そうすることは、本人にとって、全くくだらない損なことなのである。

3.この世界には、見られるけれども、見てはならぬもの、行えるけれども、行ってはならぬもの、言えるけれども、言ってはならぬもの、考えられるけれども、考えてはならぬものなどが、無数に存在すること。要するにできることがすべて正しいわけではないのである。私達はそれをわきまえることが出来ない為、できることはすべてしてしまうことによって、自分の身に災いと苦痛を自ら招いてしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

死者の復活はあるか。

聖書には、イエスキリストが死んだ人を復活させる記述が頻繁に出てくる。これは果たして信ぴょう性のあるものなのだろうか。ここで、大きなリンゴの木を思い浮かべてもらいたい。その木は毎年、幾百もの実を生み出す。そんなリンゴの木が何万本と生い茂っている大きな森林地帯があるとする。その木一つ一つには無数の枝が伸びており、その先端から小さな新芽が顔を出す。そして、それは成長して、やがて一つの立派なリンゴがそこにぶら下がるのである。このように、実際には、私達のこの物質世界では、見ることの出来ない霊的な永遠の命の木という森林地帯が存在しているのである。私達の命は、いわば、実をつけたリンゴ一つ一つなのである。その実は時間が経つにつれて、十分熟した後、いずれは腐って地面に落ちる。これが私の死に相当する。しかしながら、実は落ちても、その木や枝はその後もずっと存在し続ける。ということは、また来年には、同じ実を生み出すということなのである。それは、リンゴの実という私達の命が再生することができるということである。すなわち、死者の復活は現実にあるということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は何かを行う時、それを義務感でやっているとしたら、決してそれを続けていけない。いずれはそうすることを、止めてしまうのである。

2.何も迷惑をかけないという事が、それ自体、迷惑になる場合があること。

3.どんな災いや問題も、感謝する気持ちが失われていくところから、すべて端を発しているということである。

4.災いとは、人が、災いであることを、どれほど災いであるか認識している程度に比例して発生すること。すなわち、認識していなければいないほど、災いの発生率は高くなること。

5.夫婦は、互いにセックスの相性は良くても、互いに、人間的にも、相性が良いとは決して限らないこと。これが、単純には行かない、現実のすれ違いの苦悩と、人間関係の難しいところである。

6.人間関係とは、とりあえず、互いが常に協力すること、すなわち、相手に対して、自分が妥協できるところは、互いに妥協していく事の連続の営みのことであること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

謙遜とは何か。それは、腰が低くて、へりくだっていることである。それでは、自分は気が弱い為に、結果として相手に対して腰が低いという事は謙遜か。それは必要に迫られて、仕方なくやっている意味であれば、それは謙遜ではない。それでは、神は謙遜か。神は人々の悪い行いに対して、怒ることもできるが、それを忍耐し、辛抱して人々がその悪行を悔い改めるのを待っておられるとする。ここで、謙遜とは決して怒らないことと定義する。しかし、神は、今怒るのを差し控えて我慢しているとするならば、いずれは限界に来て、その怒りを人間にぶちまけるのではないだろうか。それでは、結局は、神も怒るのだから、先程の定義に従えば、神は謙遜ではないことになってしまうのである。

2.私は昨日、自動車運転免許の更新手続きに行って来たのだが、そのちょうど一カ月ほど前に、シートベルトをしていなくて、白バイクの警官にキップを切られてしまった。もし、その事がなければ、自分の家から最寄りの警察署で更新出来たかもしれなかったのだが、その違反の為に、私は、自分の家より遠く離れた運転免許センターまで行かなければならなかった。おまけに、120分もある違反者用交通安全指導の講習も受けなければならなかった。しかし、改めて、この交通安全教室の講習を受けて、いかに普段身近に運転している自動車というものが、危険であり、事故を起こすことによって、加害者や被害者が受けるダメージは底知れない事であることかを再認識させられた。日本では、自動車運転の違反が全く無い優良ドライバーは優遇され、遠くの運転免許センターまで更新しに行かなくても良く、また、安全教育の講習も免除される。しかし、私がここで感じた事は、例え、優良ドライバーであっても、安全教育指導を受けるべきだと思った。なぜなら、例え、優良ドライバーであっても、教育指導を受けなければ、日々、改正される道路交通法についての知識も知ることが出来ないし、自分の運転に慢心して、つい、気が緩んで、いかに安全というものが、大事なことであり、有り難いものであるかという認識が薄れてしまいがちだからである。その意識の欠如こそ、悲惨な交通事故を引き起こしてしまうからである。やっぱり人は、その優劣に関わらず、交通教育だけに限らず、様々な分野において、定期的に教育を受け続ける必要があると思う。なぜなら、私達はとにかく、忘れる生き物だから、定期的に認識を心に植え付ける為の訓練が必要だからである。およそ、この世界で、誰にも感化され無くても、自分の言動を常に律していける人間など一人もいないからである。こう考えると、何の違反も無いゆえに、何の教育指導も受けなくても良い人よりも、むしろ、何かの違反を犯したのがきっかけで、教育指導を受けた人の方が、よほど安全ドライバーになれるのではないかと言う思いに至ったのである。すなわち、罪を犯して、服役している者の方が、普段、何の罪も犯さずに、普通に暮らしている人よりも、その罪の重さをよく認識しているゆえに、罪を犯しにくいのではないかと思うのである。よって、次に最も罪を犯しやすい者の予備軍は、何の罪も犯さないゆえにまた、罪の重さも知ることのない普通の人達かもしれないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人にチャンスと逆境は、平等の量と数と質だけ来る。ただ、他の人より、より成功している様に見える人々は、その平等に来るチャンスを自分のアンテナを磨いて、それが来た時に、逃がさずしっかりと捉えたがゆえに、人よりも成功を増加させることが初めて出来たという事なのである。

2.この世界で、成功している者の理由は、その人の能力いかんではなく、ただ運が良かったという部分がほとんどすべてを占めること。

3.人には、それぞれ好きなものが違うので、また、人はそれぞれ、その人が元気になる要因も、様々に違うということなのである。

4.この世のあらゆる世襲財産は、自分が意図せぬ時に増えたり、減ったり、盗まれたりする可能性を常に秘めているものであり、それを不可能にすることは、私達には決してで来ないのである。それはなぜか。それは全く当たり前に考えて、それらすべては、その初めから、私達のものでは決してないからである。本来、本当に自分自身のものなら、それは自分の思い通りに出来て当然だし、それが勝手に、増えたり、減ったり、盗まれたりするはずなど決してないからである。

5.それが悪いことを知っていて、あえてそれを行うことが一番罪が重い。彼が、それが本当に悪いとは知らずに、それを行っていたとするなら、その悪行に対する哀れみと許しの余地もあったのである。