高田義裕の人生論

今日の箴言

昨日日本では、警官が不審者に拳銃を発泡するという事件があった。記事によると、見た目で明らかに不審人物と判断した警察官が職務質問したところ、いきなり、ナイフをかざして、襲いかかって来たため、やむなく発泡したということである。確かにこの推移は、致し方ないことである。しかし、私は、こういう事件を聞くたびに思うことは、それでは、職務質問しなかったら、どうなっていたかと言うことである。すなわち、職務質問しなければ、こんな結果には、ならなかったのでは、と思うのである。これはどういうことかと言うと、職務質問された側の人間が、自分のことを、不審者扱いして、職務質問したこと自体に腹を立て、その行為に及んだ可能性が高いからである。要するに、警官が職務質問したことによって、そういう状況になることを、彼が全く意図せずに、誘発したとも言えるからである。このように、この事件に限ったことではなく、すべての人間関係においても、自分の言動が、災いを招くということは、良くあるからである。よって人は、まず誰かに、どういう状況で、こうしたら、どうなるか、ということを、言動を起こす前に、推測するという想像力を働かせなければならないのである。すなわち、まず、よく吟味して自分の言動を行うようにすれば、トラブルを未然に防ぐことが出来、人間関係もスムーズに行くようになるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しさの哲学

料理を作るという事は、作るだけで後は、何もしないということを言うのでは決してなく、暗黙の内に、食べ終わった料理や皿を洗って片付ける、という行為も含めて、それで1セットで初めて、料理をすると言えるのである。それと同様に、正しいという事も、ただ単に、正しい事だけを知っていればそれで良いというものでは決してなく、また同時に、何が正しくない事であるかも知っていて初めて、それで1セットで、何が正しいのかを知っていることになるのである。しかし、私達は、往々にして、何が正しいのかという知識は持っていても、何が間違っていることかを知らない場合が多い。これは、序論と本論を飛び越えて、結論だけを知っているようなものである。すなわち、どうしてそれは正しいのかという理由を知らないのである。例えば、あなたが公園に居て、しばらく歩いていくと、目の前に、ここからは出入り禁止という看板が立てられていたとする。しかし、そこにはどうして立ち入り禁止なのかという理由が書かれていない。あなたは向こう側を見るが、何ら危険な様子も見られない。するとあなたは好奇心から、立ち入り禁止のゾーンの中に入ろうとするのではないだろうか。しかし、その瞬間、向こう側から、ライオンが近付いてくるのが見える。これでようやく出入り禁止の理由が理解できた。向こう側にはライオンの群れがいて、危険だから立ち入り禁止の看板が立てられていたのである。このように、正しさの理由を知らないで、それは行ってはならないとただ知っているだけでは、間違いを犯してしまうのである。例えば、あなたは盗んではならない、という事を知識で親から教えられていても、なぜ盗むことは悪いのかという理由を知らないために、人は、いずれ必ず、盗んでしまうのである。よって、人類は、何が悪い事か、という理由を知らないため、常に人にとって、何が正しいのかという渇望が生じて来るのである。要するに私達は無知なのだ。しかし、何ぴとたりとも、人は正しくなろうとして、正しくなることは出来ず、賢くなろうとして賢くなることは出来ず、すべてを知ろうとしてすべてを知ることは決して出来ないという事である。人間の本来の理想な状態とは、生まれた時から既に、何が正しく、何が賢くかを知っていて、更に、すべてを知っている事なのである。要するに、意図的に、かつ、欲求を満たすようにそれらの事を追い求める事自体が、既に、間違っているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

世界中の読者の皆さん、こんにちは。高田義裕です。読者の皆さんから本当に多くの感謝のコメントを頂いて有難うございます。正直、こんなに反響があるとは、思いもしませんでした。大変驚いております。皆さんからのメッセージに大変、励まされました。皆さんに読んで頂けると思うと、大変、励みになります。皆様のご意見にすべてにお答えすることは、出来ませんが、お一人お一人のこれからの人生がより良いものとなるよう、心から祈っております。それでは、今日も、箴言をご紹介します。皆さん、張り切っていきましょう。

進化論と神の創造説

人間とはどのようにして誕生したのか、これを人類は常に模索して来たし、現在もそれを模索し続けている。現代人の大半は、進化論を受け入れている。しかし、まだ、多くの国々では、聖書による、神の創造説を信じている。果たしてどちらが正しいのであろうか。ここで、進化論を否定せずに、進化論の究極形を考えよう。進化論とは、長い時間をかけて、生き物が現在の状態よりもはるかに優れた状態に進化していくことを言う。それでは、これから人類はずっと進歩し続けて、究極的にはどうなるのかと考えてみると、結局は、神みたいな存在になるというのが、事の結論であろう。要するに、進化論を突き詰めていっても、結局は神にたどり着くのである。また、人類の誕生は、私達よりも、はるかにレベルの高い宇宙人によって成された、という意見もある。それでは、ここでも同じく、宇宙人による人類の誕生説を否定するのではなく、その論理を突き詰めて考えて行こう。まず、人類より次元の高い宇宙人が人間を造ったとする。しかし、ここで、新たな問題が発生する。それは、人類を造った宇宙人はどうやって生まれたのかという疑問である。これもまた、さっきの延長線上で、その宇宙人は、彼らよりもまた、さらに優れた宇宙人によって生み出されたということである。ならば、さらに、次の宇宙人は彼らよりもまたはるかに優れた宇宙人によって、とこれが延々と続く。これを究極的にまで煮詰めると、結局は神の様な存在になるとしか言えなくなるのである。すなわち、進化論も、人類の宇宙人による誕生説も、なんら、神の創造説を否定し得るものでは決してなく、ただ単に、人間の神による創造説を先延ばしにした考えに過ぎないのである。これら二つの論理は、結局は神の創造説に帰着されてしまうのである。よって、一番有力なのは、神による人類の誕生説なのである。

1.誰もが、社会に出て、働いていけば分かるように、この世の優秀さとは、所詮、ずる賢さに過ぎないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

1.小人と大人は小さな容器と、大きな容器に例えられる。小さな容器に無理やり、大きなものを入れようとすると、小さな容器はその形が歪んだり、もしくは壊れたりするように、小人に、その能力以上に権威を与えると、思い上がって、余分な誇りと、傲慢さを生じさせてしまうのである。しかし、大人である真の君子は、大きな容器に多くのものが入るように、彼にどれだけ沢山の権威や権力を与えても、決してそれを悪用しないし、それによって決して傲慢になったり、自惚れたりすることはないのである。

キリスト教神学叙説

1.神のいい加減さは、人の精密さに勝る。

2.神の弱さは、人の力強さに勝る。

3.神の愚かさは、人の賢さに勝る。

4.人にとっては、偶然な事(ランダム)でも、神にとっては、すべては、必然であること。

5.神の少ない事柄は、人間よりも多い。

6.神の限界は、人にとっては無限である。

7.死とは、自分自身のこと以外に、他の人を、顧みない事である。

8.すべての悪の根源は、[盗む]ことである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

1.黙して行動することは、ただ、言うことに勝る。

2.たった一つの実行力は、多くの計画案に勝る。よって、人にとって、実行力こそすべてである。

3.単なる知識の収集は人を思い上がらせるのに対し、人が肌で得た経験は、人を育てあげる。

4.どれだけ立派な事柄に気付いたかどうかが問題ではなく、ただ、どれだけ良い事柄を行ったかが問題なのである。

5.無自覚な者には、知識が必要であり、知識を得ている者には、行動が必要である。

6.自分のした事が、間違いである、とはっきり認識出来なければ、それを止めようとする気持ちも湧かないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

1.たとえ、人を戒めるにしても、人を褒めるにしても、そのベースになっていなければならないものは愛である。

2.私達は、すべての人達に対して、たとえ、どんなことを話すにしろ、そのベースになっていなければならないものは、常に、相手に対して敬意を払うことである。

3.異常なことをしなければ、自分の正常さを保てないとき、その状態のことを初めて、異常と言う。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは人とお喋りするとき、僕はこう思うのだけど、と自分の気持ちを述べたとする。すると、必ず相手はそれと反対の意見を述べてくる事に気付いているのではないだろうか。ここで大事なのは、あなたが相手に期待しているのは、相手の意見を聞きたいというよりは、ただ、自分の気持ちに素直に同調してもらいたいのである。自分の気持ちを打ち明けると、相手が、ああそうなんだ、僕もそうだと思うよ、という肯定の答え、言い換えれば、ただ、自分の気持ちを相手に受け止めてもらいたいだけなのである。しかし、大半の人はそこまで気が回らず、自分の主張を言ってくるのである。あなたはそれにがっかりし、不満を覚えることであろう。だから、まず自分の方から先に、相手が何か自分の気持ちを訴えてきたときには、ただ、素直にそれを、そのまま受け止めてあげると良い。そうすれば、いつか必ず、相手も同じようにしてくれるであろう。また、相手の人間が自分とは反対の気持ちを伝えることは、相手に非があって、思いやりに欠けている点もあるが、また別の理由もある。それは倫理の平衡バランスである。人間とは、倫理的動物であるから、本能的に、倫理的平衡バランスを保とうとする。すなわち、他の意見を述べることによって、意見の偏りを無意識に元に戻そうとするのである。だから、あなたの言った意見の反対のことを言ってくるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

1.批評することはたやすいが、褒めることは難しい。

2.滅びることはたやすいが、発展することは難しい。

3.死ぬことはたやすいが、生きることは難しい。

4.憎むことはたやすいが、許すことは難しい。

5.見捨てることはたやすいが、救うことは難しい。

6.使うのはたやすいが、造るのは難しい。

高田義裕の人生論

今日の箴言

1.自分の期待以上に、また、自分の能力以上に、うまくいっている者は沢山いるが、自分の思い(意図)どおりに行っている者など一人もいないのである。よって、前者は、いずれ、自分の予想していない時に、予想もしていない問題に直面する事になり、いつか突然、うまくいっていた事がうまくいかなくなる事を覚悟すべきである。しかし、後者は、自分の予測している通りに問題が生じる事を予測出来るし、いつうまくいかなくなるかを、事前に知っているので、その問題が生じる前に、それに対する予防策を打てるのである。よって、彼の行うことは常に成功し続けるのである。

2.人は望みが多きければ多きい程、悲嘆もまた多きくなる。

3.人は富めば富む程、また、心配も多きくなる。

4.人は賢くなればなる程、また、心の痛みも多きくなる。

高田義裕の人生論

今日の箴言

死とは何か。

人間の体は絶えず、新陳代謝を繰り返しており、これは言い換えれば、人体内部の細胞間での生と死、また、互いの栄枯盛衰の激しい戦いなのである。古くなった細胞の意志がいつまでも生き続けたいと思っては、新しい細胞が生まれてこないのであり、古い細胞が犠牲となって死んで初めて、体全体が生き続けていくことができるのである。すなわち、古い細胞が利己的になって、いつまでも死なないため、どんどん体全体の細胞は古くなっていく。そして、古い細胞の数が新しい細胞が生まれるという過程を凌駕する時、そこで初めて体全体の死が訪れるのである。よって、死とは、本来の正常な新陳代謝が機能しなくなる事によって得る結果なのである。すなわち、人間の死は、いつまでも死なない細胞が存在するために起こる現象なのである。