高田義裕の人生論

今日の箴言

正しさの哲学

料理を作るという事は、作るだけで後は、何もしないということを言うのでは決してなく、暗黙の内に、食べ終わった料理や皿を洗って片付ける、という行為も含めて、それで1セットで初めて、料理をすると言えるのである。それと同様に、正しいという事も、ただ単に、正しい事だけを知っていればそれで良いというものでは決してなく、また同時に、何が正しくない事であるかも知っていて初めて、それで1セットで、何が正しいのかを知っていることになるのである。しかし、私達は、往々にして、何が正しいのかという知識は持っていても、何が間違っていることかを知らない場合が多い。これは、序論と本論を飛び越えて、結論だけを知っているようなものである。すなわち、どうしてそれは正しいのかという理由を知らないのである。例えば、あなたが公園に居て、しばらく歩いていくと、目の前に、ここからは出入り禁止という看板が立てられていたとする。しかし、そこにはどうして立ち入り禁止なのかという理由が書かれていない。あなたは向こう側を見るが、何ら危険な様子も見られない。するとあなたは好奇心から、立ち入り禁止のゾーンの中に入ろうとするのではないだろうか。しかし、その瞬間、向こう側から、ライオンが近付いてくるのが見える。これでようやく出入り禁止の理由が理解できた。向こう側にはライオンの群れがいて、危険だから立ち入り禁止の看板が立てられていたのである。このように、正しさの理由を知らないで、それは行ってはならないとただ知っているだけでは、間違いを犯してしまうのである。例えば、あなたは盗んではならない、という事を知識で親から教えられていても、なぜ盗むことは悪いのかという理由を知らないために、人は、いずれ必ず、盗んでしまうのである。よって、人類は、何が悪い事か、という理由を知らないため、常に人にとって、何が正しいのかという渇望が生じて来るのである。要するに私達は無知なのだ。しかし、何ぴとたりとも、人は正しくなろうとして、正しくなることは出来ず、賢くなろうとして賢くなることは出来ず、すべてを知ろうとしてすべてを知ることは決して出来ないという事である。人間の本来の理想な状態とは、生まれた時から既に、何が正しく、何が賢くかを知っていて、更に、すべてを知っている事なのである。要するに、意図的に、かつ、欲求を満たすようにそれらの事を追い求める事自体が、既に、間違っているのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。