高田義裕の人生論

今日の格言

倫理の等価交換の原理は間違っているのか。

この世の中、大した労働もせずに楽してお金を貰っている者もいれば、大変苦労して、毎日戦場のような忙しさで働いて、ようやく僅かな賃金を貰っている者もいる。これは不公平ではないか。倫理の等価交換の原理とは、人は骨折った分だけ利潤を得られるというものではなかったか。すなわち、楽している者は後で苦労し、苦労している者は後で楽出来るというものである。しかしこの世の中を見渡して見るとそんな単純な状態には決してなってはいない。だが、確かに言える事は、楽して得たお金というものは何の価値もないという事である。すなわち、同じお金でも、苦しんで得たお金が初めて価値があるのである。要するに社会全体を見渡して、お金の流れというものは、苦労して得たお金が社会を動かしているのである。世の中には全く動かないお金、すなわち、価値のないお金が99%を占めている。この価値のないお金とは、大金持ちの銀行の中に眠ったままの現金である。すなわち、世の中には出て行かないお金であり、世の中全体はたった1%のお金で動いているのである。これは例えれば、全世界のお金が1000兆円あったとして、その999兆円は、眠ったままである。残りの1兆円だけで人口70億人を養っていけと、この世の中の支配者が決めたのである。たったの1兆円を70億人が奪い合いをするのだから、当然仕事は大変きつくなり、修羅場となる。そのほとんどは奴隷となり、ただでこき使われる。これが全世界の経済の仕組みであり、世の中全体の仕組みが既に不公平であり、悪なのである。すなわち、楽している富裕層の働かないで貰う価値のないお金のツケを最下層の民衆及び、奴隷が過酷な労働で望まない形で価値のあるお金でそれを穴埋めしているのである。要するに価値のないお金とは、何もせずに999兆円貰う事に等しく、価値のあるお金とは、建物を建て、掃除をし、野菜を作り、製品を製造し、介護し、命を助け、運搬し、ありとあらゆる仕事を全部こなして、やっと1兆円貰う事なのである。この過酷労働によって初めてお金は価値を与えられていると言える。要するに倫理の等価交換の原理は世の中の支配者によって強引にねじ曲げられているという事である。こんな間違った世の中の仕組みは、いつまでも続きはしない。なぜなら、自然の摂理である倫理の等価交換の原理に逆らっているからである。よって、いずれ必ずこの世の中の不正な経済の仕組みはそのツケを払わなければならず、神の預言する人類の大患難という形で瞬く間に押し流されてしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間にとって生物学的に生きる事が生きる事では決して無く、人間一人一人が自分の存在の高尚さと価値観を見いだすこと、すなわち道徳的、倫理的に生きる事が人間にとって生きるという事なのである。

(人間としての生き方)

1.正しさに対する愛を培うこと。

2.常に相手の人の自尊心をくすぐる様な言動を心掛ける。

3.高慢な人に対しても常に謙遜に接するよう心掛ける。

4.正しさを主張するだけでは、それがたとえどんなに正しくても、それを聞く人にとっては、単なる騒がしいドラ、騒々しいシンバルとしか聞こえないのである。であるから、正しさというものに常に愛を加えなければ真に正しいとは決して言えないのである。

5.罪である一時的な歓び、すなわち、淫行や姦淫やギャンブルや過度の飲酒は決して人を幸福にしない。

6.常に人間は義であり、公正である永続的な喜びを追い求めなければならないのである。

たとえ嫌われるにしても、単に嫌われる事自体が悪い事柄なわけではなく、数十人に嫌われる場合が悪い状況であるのであって、もし、10億人に嫌われるという状況であった場合は、それは逆に物凄い真似の出来ない事であり、逆もまた真なりで、10億人に嫌われるという事は、また同時に他の10億人から愛されているという事に繋がっているからである。よって我々人間は安心して良いのである。なぜなら、誰1人嫌われる事を徹底出来る者もいなければ、誰1人嫌う事も徹底出来る者もないからである。すなわち、すべての人から嫌われる人もおらず、かつ、すべての人から愛される人もいないからである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

ユークリッド背理法

間違っていること自体は問題ではない。なぜなら例えば、壊れている時計があるとして、その時計は実際の時刻から狂っているとする。しかし、その狂い方の性質さえ分かれば、その壊れた時計から正しい時刻が割り出せるのである。例えば、その壊れた時計は実際の時刻から2時間遅れているという事が判明したならば、その狂っている時刻から常に2時間足してやれば、正しい時刻が分かるということである。ここで何事の性質においても、一番狂っている事の最大値は正しい状態の逆であるという事である。ならば、間違っている事の逆に変換すれば正しい事柄が分かるのである。よって、それを一般式で表すと、それは割り算になり、正しい事柄をαとすれば、間違った要素をβとする。すなわちαをβで割ると、α÷β=α×¹⁄β+cとなる。cは余りである。これを変形してα=βx+cとなる。(xは定数)よって、互いに逆の場合はα=½βとなる。(c=0)例えば、具体数字5が正しい数値であるとするなら、間違っている数値が3である場合、5を3で割って、5÷3=1×3+2という事になる。互いが逆の場合は、具体数字4が正しい数値であるとするなら、間違っている数値は2であり、4を2で割って、4÷2=½4=2となる。要するにすべての性質は割り算の公式で解けるという事である。これをユークリッド背理法と呼ぼう。

高田義裕の人生論

今日の格言

昔の人類は、すなわち人類の祖である、アダムとエバは、自分達の置かれた立場があまりにも自由な環境であったため、その自由が本来、神から与えられたものであるという認識が薄れ、自分達が神そのものであるかの様に錯覚したのである。よってすべての不幸、災いの原因は、感謝の念の欠如から、心が傲慢になってしまった事に起因するのである。

2.自動車のタイヤについて、駆動輪よりも駆動輪でないタイヤの方がより磨耗すること。すなわち、人生においても、自分の意志で考え、行動して生きる者よりも、駆動輪でないタイヤの様に、ただ人から引きずられる様に他人の決めた道に従って生きる者の方が、苦しみを感じ安く、早く老け込むこと。

3.虐げられる者はより虐げられ、誇り高ぶる者はより誇り高ぶるがよい。すべての復讐は私のものである。私を信頼し、私を待ち続けよ、とエホバ神は言われる。

高田義裕の人生論

今日の格言

地に富を築くのでは無く、天に富を築くのである。すなわち、霊的価値観を自覚し、それを実践することなのである。例えば、人から罵られてもそれを忍び、相手に言い返さないこと、また、陰で悪口を言われても、それを根に持たず、自分も同じように相手のことを陰で悪口を言わないこと、絶えず親切にし、感謝しない者に対しても、自分の良いものを与え続けること、自分にとって苦手意識のある人を愛し続けること、相手の自分に対するミスを許してあげること、短気を起こして、攻撃的にならずに、すべての人に対して平和を維持し、温和な態度で接すること、である。これらの事を行い続けるなら、あなたの生活は安定したものとなり、決して物質的富、すなわち、食べ物や衣服や、生活必需品に事欠くことは決してない。しかし、それに対し、地に富を築くこと、すなわち肉的で動物的価値観、例えばお金を愛すること、人から罵られたら、自分も同じように罵り返すこと、陰で悪口を言われたなら、自分も負けずに相手のことを陰で悪口を言うこと、相手の自分に対するミスを許さないこと、自分にとって苦手意識のある相手に距離を置いて避けること、人に同情心を持たず、親切心も無く、相手の立場に無関心で、自分の益だけの為に生きること、常に短気を起こして、周りの者に当たり散らすこと、である。これらの事を行い続けるなら、あなたの生活は窮乏に至り、必ず物質的富、すなわち、食べ物や衣服や、生活必需品に事欠くようになるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人はよく公平に、フェアーに物事を決めましょう、と言うが、およそこの世に公平でフェアーな立場にある人間など1人もいないのである。例えば、私は何も悪い事をしていないからフェアーな立場であると言っても、その人が生きていけるのは仕事をしているおかげで給料を貰って生活しているのであり、その仕事自体がすなわち、その人の勤める会社がある政治組織と深い関わりを持っていたり、そして、その政治組織は世間では右翼派として社会に影響を及ぼしている場合がある。すなわち自分には直接関係のないところであなたは意識していなくても、左翼派か、右翼派かのどちらかに身を守ってもらっているのである。いくら私は右翼派ではないと言っても、自分の勤める会社が右翼派と仲良くしているのであれば、あなたは世間的から見て、望まない右翼派なのである。同様に自分は左翼派ではないと言っている人がいても、自分の勤める会社が左翼派と仲良くしているのであれば、あなたは世間的から見て、望まない左翼派なのである。要するに左翼派でも無く、右翼派でもないと本人はどれだけ思っていても、結局はどちらかに傾いているのである。よって、誰も公平で、どこにも所属していないフェアーな立場など初めから持っていないのである。すなわち私達は他の誰の立場をも批評など出来ないのであり、人間が物事を公平にフェアーに決める事は出来ないのである。ただあるとすれば、その時勢での人気のある考え方なり、理想なりがその時勢での公平でフェアーな立場とすり替わっているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人が教える者になるためには、まず、学ぶ者にならなければならず、人が与える者になるためには、まず、恵んで貰わなければならず、最初になるためには最後とならなければならないのである。すなわち、最も偉い者になるためには、まず、最も惨めな者にならなければならないのである。

2.すべての物事の本質的様相とは、何か究極的には絶対的な不動の大法則がすべてを支配し、永久に変化しないという状態なのでは決して無く、すべては相対的であり、優劣の関係であり、勝敗の関係であり、大小の関係であり、常に動いて止まない変動の状態になっている事がこの万物のすべての様態なのである。すなわち、地球はその上で生きている生き物すべてにとっては不動であるが、さらに地球に勝った太陽が地球にとって不動の存在であり、地球は太陽を中心に猛スピードで動いているのであり、また、太陽より勝った銀河系が太陽にとって不動の存在であり、太陽は銀河系を中心に猛スピードで動いているのであり、銀河系より大きい超銀河団が銀河系にとって不動の存在であり、銀河系は超銀河団を中心に猛スピードで動いているのである。このようにすべては相対的関係であり、この関係が延々と無限に広がっている状態が我々の生きている世界なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

簡単な仕事をいくら沢山やっても、難しい仕事を1つやった事にもならない。しかし、逆に、非常に難しい仕事を1つでもすれば、簡単な仕事を何十回やった事に等しくなる。なぜなら、難しい仕事は体も頭も良く使わなければならないから、その分能力が付いて、何事にも融通のきくようになるからである。

2.人生の知恵として、人間は表面的に見せるだけでも良いから、自分が出会うすべての人間と仲良くなっておくべきである。すなわち、誰かに仕事の事で怒られても、素直に相手の言う事を受け入れる姿勢であり、自分の目から見て、誰かが、仕事もせずにぶらぶらしているところを見て、それに憤りを抱いてその人を非難しない事であり、人の話をつまらなくても最後までよく聞いてあげる事などである。なぜならあなたはいつ自分が予想もしていないアクシデントに見舞わられるかわからないからである。そういった自分が窮地に追い込まれ弱い立場に立った時、あなたはすべての人に対して仲良くしていたおかげで、予想もしていない人に同情心によって助けもらえるからである。その相手は、今まで自分が憎んでいた人の上司かもしれないし、普段心の中でバカにしていた人の友人かもしれないのである。すなわち私達にとって世間は狭いのであり、どこでどう人と人とが繋がっているかはわからないのであり、同じ地域で生活していれば、どこかしらで繋がる接点を持っているからである。よって、自分の言動を注意深く選んで、常に人とのトラブルを自分が謙虚になって、たとえ自分が悪く無くても、相手を罵ったりせずに、うまく丸く収める事によって結局は回り回って自分の身を守っている事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生、自分の為だけに生きる、という事が本来の答えであり、正論なのである。よって、私は子供の為に生きるとか、私は恋人の為に生きるとか言うのは、逃げであり、心理的に逃避行動なのである。なぜなら自分という存在に意義が見出せない事を、きれい事のように言い訳して自分を欺いているからである。そんな人間に恋人が出来るわけがないし、子供を真っ当に育てられるわけがないのである。

2.最も賢い者とは、自分の強みと自分の弱みをちゃんと理解している人間の事を言うのである。そうすれば、自分が苦手な事には手を出さずに自分の身を守れるし、自分が得意とする事にはとことん攻めの姿勢で取り組み、利潤を自分のものとする事が出来るのである。

3.何事も苦しい思いをしなければ、本当の有り難さも知る事は出来ないし、真の幸福感もまた味わえないのである。

4.周りの物事を自分の希望的推測で見たり、判断しないこと。その自分の心の弱さを捨てて、実際の現実を直視する覚悟と勇気を持たなければならないのである。ここで現実とは、決して美しいものでは無く、もっと冷淡で残酷で生々しいものなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

探求していく手順さえ誤りがなければ、すべての事柄は解く事が可能であること。

2.道に迷ったら、現実を直視するようにせよ。そうすれば道を踏み外す事はない。

3.人を真に動かすものは純粋な愛であり、圧力や威力や権威や相手に対する借りではないのである。

4.私達は自分のことよりもまず、神の方を愛さねばならない。

5.相手に好意を持てば、相手も自分に好意を持ってくれるのであり、逆に、相手に悪感情を抱くならば、相手も自分に悪感情を抱くようになるのである。

6.自信は誰かから授けられる性質のものではなく、あくまでも、自分から努力して培わなければ得られないものである。

7.まず、自分が楽しんでいなければ、相手をも楽しませる事は出来ないのであり、まず自分が満たされていなければ、相手をも満足させる事は出来ないのであり、まず自分が幸福でなければ、相手をも幸福にさせる事は出来ないのであり、まず自分を愛する事が出来なければ、他の人をも愛する事は出来ないのである。

8.すべてを知っていて、真に賢いという事の定義とは、何を知っておくべきで、かつ何を知るべきでないかを初めから全部知っている状態の事を初めて指すのである。よって私達は何でも知りたがる傾向にあるから、私達は永久に賢くなれないのである。

9.自分の望むままに欲求を満たす事が、必ずしも自分にとっての幸福となるとは限らないこと。