高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバの成された御業は、あらゆるすべてのものが自分本位にならないようにし、すべてが公平になるようにバランスのとれたものとして整えられた。しかし神から離反した人間達の行ったすべての業は、あらゆるすべてのものが不公平なまでに絶対性(自己中心性)を渇望し、それによりすべてのものが、どちらか一方に偏りがある状態で存するものになってしまったのである。

2.人間一人一人はたとえ物理的に、すぐ横に隣り合わせていても、個人個人の思いと考えは、1人が銀河系に位置するなら、もう1人は、隣のアンドロメダ星雲までも離れているのである。すなわち人間一人一人は互いに小宇宙なのである。

3.私達、不完全で立場の低い、罪深い人間が神を信じるための理由と根拠を自分達で探さねばならないとしたら、また自分達で探す事が出来ると思うとしたら、それは何と不幸であり、また何と自惚れた事であろうか。神とは本来、ただお一人の神であって、人間の考案した仕方で仕えてもらう神では決してない事を私達人間は既に知っているではないか。

4.天にであれ、また地にであれ、またその中に存するすべてのものであれ、人間が本来持っていた栄光と能力に勝るものは何1つ無かったのである。よって、1人の人、すなわちアダムが神に対して罪を犯した時、それだけで瞬時にして物理的全宇宙に影響が出て、全体にヒビが入り、すべてのものは呪われ、汚されたのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)

 

正しさも度が過ぎると人を殺す事になる。

よくテレビのニュースで司会者が今日は夏のシーズンで観光客が海で海水浴を存分に楽しんでいました、などと言って、視聴者に向かって話すが、実はそのアナウンサーは海など行っておらず、自分がさも体験してきた様に笑顔で話すが、彼は一日中この暑い外には全く出ず、クーラーの効いた涼しいスタジオでしかいないのだ。これは正しさという観点からは彼は間違っている。ここで言う正しさとは、あくまでも彼が現地の遠い海岸まで車なりを使って赴き、実際に海水浴を体験して初めて人に言える資格があるのである。しかし実際にはテレビ局のスケジュール上、そんな事は出来ないし、予算も無い。世の中はこの様な事で満ちている。すなわち、実際体験していない者がさも体験してきた様に代弁する事はよくある。よって正しさの観点からは外れていても、都合上、正しさを守っていないのが私達の日常生活なのである。この様に現実はカチカチの正義では成り立たないのであり、もし文字通りの正しさをすべての生活面において実践しなければならないとすれば、そこには多くの時間と手間とコストがかかってしまい、そこに歪みが生じ、正しい事を行ったために過労で死ぬ人間も出てくる場合があるのである。ここで倫理的問題が出てくる。人間は正しく生きなければならない存在だが、人間を犠牲にしてまで人間は正しくあるべきか、という問いである。すなわち、人間を優先するか、正しさを優先するかという事である。この倫理のジレンマは日常のあちこちに潜んでいる。テロリストの言う事を聞いて身代金を払い、人質になった人を助けるか、それともテロリストとは一切交渉しないという正しさを貫いて、人質になった人達を見殺しにするかどちらか等である。これは宗教にも当てはまる。信者はよく自分の信じている宗教信条のために自分の命さえ投げ出すが、果たして宗教とは何のためにあるのだろう。それはあくまでも人間のために、人間がより幸福に生きるために宗教が存在する意義が与えられているのでは無いか。しかしそれを、宗教信条のために人間の命を犠牲にするなどとは、全く本末転倒であべこべでは無いのか。私は思うのだ。人間にとって命がすべてであり、人間は命を与えて命以上の何を得られようか。生き物にとって命あってこその生活であり、命を犠牲にしてまで得なければならないものなど全く無いのだということを。ここに倫理的存在である故の人間の大きな課題が横たわっているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

万物方程式

電子辞書で単語を調べるとき、初めにaを入力すると、それに該当する単語は無数にある。それはairであったり、amであったり、alwaysであったり、すなわち、言い換えれば、ただ1つaという条件を満たすものを探せ、と言えば、それは沢山の単語がその条件を満たすわけである。しかし、ただ2つaとbという条件を満たすものを探せ、と言われれば、先ほどのaだけ満たせばよい条件よりも単語の数は絞られてくる。すなわち、条件aのみの単語の数>条件aとbのみの単語の数という事になる。この様にして必要な条件の文字をどんどん増やしていけば、それを満たす単語の数もどんどん減少して限られてくるという事である。そう、限られてくるという事は、言い換えれば、あらゆる単語に該当する可能性が低くなっていくという事である。これを一般的に言えば、ある法則があって、万物に対して当てはまる普遍性を持つためには、その必要とする条件は先ほどの様に数が少なければ少ないほど普遍性を持つという事である。よって万物方程式というものが存在するとすれば、それはすべてに対して任意の存在になるはずである。すべての事に通用し当てはまる条件とはそれは条件0である。すなわち条件が0で全くの任意の存在である事が万物方程式であるための0条件なのである。すなわち、(無)こそ、万物方程式なのである。なぜなら何も無いところからすべてのものが生じる可能性を持つからである。逆にすべてのものが存在する、(有)にはすべてのものが生じる可能性を持たない。先ほどの電子辞書で単語を調べるとき、すべての文字を満たす条件を探せ、と言われれば、例えば、aやbやcやdを含む単語はその文字の数が増えれば増えるほどただ1つに決まる。よって、(有)とは1のことなのである。ここで(無)の状態と有の状態とは互いに逆の関係である。よってこれを一般式で表せば、(無)=-1という事になる。よって万物方程式とは-1の事である。万物方程式=-1である。

高田義裕の人生論

今日の格言

抑え難い罪への衝動が強ければ強いほど、また超越した神の義もそれに勝って満ち溢れるのである。

2.神エホバによって直接に創造されたもの以外、すなわち人間の手の業によって創造された、一見有利であり、一見機能的だと思われるものすべては、神の創造物から比べれば、ガラクタ同然のものであり、踏まれても反応しない道端の石の様に、無きに等しいものであり、かつ、目の前を瞬時に過ぎ去る窓際の風景の様に、はかないものであること。

3.潔癖症は完全主義の一種である。

4.貪欲さとは、決して手に入れることの出来ないものを追い求めること、すなわち水面に写った月を手ですくい上げることに似ているのである。

5.人間の創造したもの、すなわち完全主義、国家主義、民主主義、共産主義、独裁主義、利己主義、形式主義、聖書主義、全体主義、ポピュリズム、エロチズム、オナニズム、刹那主義、個人主義、人間主義、ニコラオ派、上昇主義、巨視主義、能力主義、潔癖主義、現実主義、ご都合主義、対処論、平等論、結果論、進化論、これら多数のものを避けなさい。

6.誰でも嫌な思い、失敗などはしたく無い。しかし人生、人にとっては、失敗してそれを肌で感じ、教訓を得なければ何も始まらないし、本当に理解し、学ぶという事も出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

若い時の苦労は買ってでもしろ、とよく言われる。その言葉は真実である。人は自分の若い頃から、すなわち、まだまだ気力も活力もある、物覚えの良い時に努力すれば、年をとった時、その若い頃にした苦労が報われるからである。しかし、逆に若い頃から楽していると、何も見につかずに年だけとってしまう。そして40代くらいから、それまで楽してきたツケが回ってくるのである。そう、年をとってから苦労しても、その苦労はただ苦しい思いをするだけで、何も報われない苦労になってしまうのである。年をとってから、いざ頑張ろうと重い腰を上げても、体がついていかず、物事も物覚えが悪くてなかなか見につかない。そのため、他の人からいい年をしてそんな事も出来ないのか、と罵られ、自分の苦しみを理解してくれ、同情してくれる人は誰もいないからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理の等価交換の原理は間違っているのか。

この世の中、大した労働もせずに楽してお金を貰っている者もいれば、大変苦労して、毎日戦場のような忙しさで働いて、ようやく僅かな賃金を貰っている者もいる。これは不公平ではないか。倫理の等価交換の原理とは、人は骨折った分だけ利潤を得られるというものではなかったか。すなわち、楽している者は後で苦労し、苦労している者は後で楽出来るというものである。しかしこの世の中を見渡して見るとそんな単純な状態には決してなってはいない。だが、確かに言える事は、楽して得たお金というものは何の価値もないという事である。すなわち、同じお金でも、苦しんで得たお金が初めて価値があるのである。要するに社会全体を見渡して、お金の流れというものは、苦労して得たお金が社会を動かしているのである。世の中には全く動かないお金、すなわち、価値のないお金が99%を占めている。この価値のないお金とは、大金持ちの銀行の中に眠ったままの現金である。すなわち、世の中には出て行かないお金であり、世の中全体はたった1%のお金で動いているのである。これは例えれば、全世界のお金が1000兆円あったとして、その999兆円は、眠ったままである。残りの1兆円だけで人口70億人を養っていけと、この世の中の支配者が決めたのである。たったの1兆円を70億人が奪い合いをするのだから、当然仕事は大変きつくなり、修羅場となる。そのほとんどは奴隷となり、ただでこき使われる。これが全世界の経済の仕組みであり、世の中全体の仕組みが既に不公平であり、悪なのである。すなわち、楽している富裕層の働かないで貰う価値のないお金のツケを最下層の民衆及び、奴隷が過酷な労働で望まない形で価値のあるお金でそれを穴埋めしているのである。要するに価値のないお金とは、何もせずに999兆円貰う事に等しく、価値のあるお金とは、建物を建て、掃除をし、野菜を作り、製品を製造し、介護し、命を助け、運搬し、ありとあらゆる仕事を全部こなして、やっと1兆円貰う事なのである。この過酷労働によって初めてお金は価値を与えられていると言える。要するに倫理の等価交換の原理は世の中の支配者によって強引にねじ曲げられているという事である。こんな間違った世の中の仕組みは、いつまでも続きはしない。なぜなら、自然の摂理である倫理の等価交換の原理に逆らっているからである。よって、いずれ必ずこの世の中の不正な経済の仕組みはそのツケを払わなければならず、神の預言する人類の大患難という形で瞬く間に押し流されてしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間にとって生物学的に生きる事が生きる事では決して無く、人間一人一人が自分の存在の高尚さと価値観を見いだすこと、すなわち道徳的、倫理的に生きる事が人間にとって生きるという事なのである。

(人間としての生き方)

1.正しさに対する愛を培うこと。

2.常に相手の人の自尊心をくすぐる様な言動を心掛ける。

3.高慢な人に対しても常に謙遜に接するよう心掛ける。

4.正しさを主張するだけでは、それがたとえどんなに正しくても、それを聞く人にとっては、単なる騒がしいドラ、騒々しいシンバルとしか聞こえないのである。であるから、正しさというものに常に愛を加えなければ真に正しいとは決して言えないのである。

5.罪である一時的な歓び、すなわち、淫行や姦淫やギャンブルや過度の飲酒は決して人を幸福にしない。

6.常に人間は義であり、公正である永続的な喜びを追い求めなければならないのである。

たとえ嫌われるにしても、単に嫌われる事自体が悪い事柄なわけではなく、数十人に嫌われる場合が悪い状況であるのであって、もし、10億人に嫌われるという状況であった場合は、それは逆に物凄い真似の出来ない事であり、逆もまた真なりで、10億人に嫌われるという事は、また同時に他の10億人から愛されているという事に繋がっているからである。よって我々人間は安心して良いのである。なぜなら、誰1人嫌われる事を徹底出来る者もいなければ、誰1人嫌う事も徹底出来る者もないからである。すなわち、すべての人から嫌われる人もおらず、かつ、すべての人から愛される人もいないからである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

ユークリッド背理法

間違っていること自体は問題ではない。なぜなら例えば、壊れている時計があるとして、その時計は実際の時刻から狂っているとする。しかし、その狂い方の性質さえ分かれば、その壊れた時計から正しい時刻が割り出せるのである。例えば、その壊れた時計は実際の時刻から2時間遅れているという事が判明したならば、その狂っている時刻から常に2時間足してやれば、正しい時刻が分かるということである。ここで何事の性質においても、一番狂っている事の最大値は正しい状態の逆であるという事である。ならば、間違っている事の逆に変換すれば正しい事柄が分かるのである。よって、それを一般式で表すと、それは割り算になり、正しい事柄をαとすれば、間違った要素をβとする。すなわちαをβで割ると、α÷β=α×¹⁄β+cとなる。cは余りである。これを変形してα=βx+cとなる。(xは定数)よって、互いに逆の場合はα=½βとなる。(c=0)例えば、具体数字5が正しい数値であるとするなら、間違っている数値が3である場合、5を3で割って、5÷3=1×3+2という事になる。互いが逆の場合は、具体数字4が正しい数値であるとするなら、間違っている数値は2であり、4を2で割って、4÷2=½4=2となる。要するにすべての性質は割り算の公式で解けるという事である。これをユークリッド背理法と呼ぼう。

高田義裕の人生論

今日の格言

昔の人類は、すなわち人類の祖である、アダムとエバは、自分達の置かれた立場があまりにも自由な環境であったため、その自由が本来、神から与えられたものであるという認識が薄れ、自分達が神そのものであるかの様に錯覚したのである。よってすべての不幸、災いの原因は、感謝の念の欠如から、心が傲慢になってしまった事に起因するのである。

2.自動車のタイヤについて、駆動輪よりも駆動輪でないタイヤの方がより磨耗すること。すなわち、人生においても、自分の意志で考え、行動して生きる者よりも、駆動輪でないタイヤの様に、ただ人から引きずられる様に他人の決めた道に従って生きる者の方が、苦しみを感じ安く、早く老け込むこと。

3.虐げられる者はより虐げられ、誇り高ぶる者はより誇り高ぶるがよい。すべての復讐は私のものである。私を信頼し、私を待ち続けよ、とエホバ神は言われる。

高田義裕の人生論

今日の格言

地に富を築くのでは無く、天に富を築くのである。すなわち、霊的価値観を自覚し、それを実践することなのである。例えば、人から罵られてもそれを忍び、相手に言い返さないこと、また、陰で悪口を言われても、それを根に持たず、自分も同じように相手のことを陰で悪口を言わないこと、絶えず親切にし、感謝しない者に対しても、自分の良いものを与え続けること、自分にとって苦手意識のある人を愛し続けること、相手の自分に対するミスを許してあげること、短気を起こして、攻撃的にならずに、すべての人に対して平和を維持し、温和な態度で接すること、である。これらの事を行い続けるなら、あなたの生活は安定したものとなり、決して物質的富、すなわち、食べ物や衣服や、生活必需品に事欠くことは決してない。しかし、それに対し、地に富を築くこと、すなわち肉的で動物的価値観、例えばお金を愛すること、人から罵られたら、自分も同じように罵り返すこと、陰で悪口を言われたなら、自分も負けずに相手のことを陰で悪口を言うこと、相手の自分に対するミスを許さないこと、自分にとって苦手意識のある相手に距離を置いて避けること、人に同情心を持たず、親切心も無く、相手の立場に無関心で、自分の益だけの為に生きること、常に短気を起こして、周りの者に当たり散らすこと、である。これらの事を行い続けるなら、あなたの生活は窮乏に至り、必ず物質的富、すなわち、食べ物や衣服や、生活必需品に事欠くようになるからである。