高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)

 

正しさも度が過ぎると人を殺す事になる。

よくテレビのニュースで司会者が今日は夏のシーズンで観光客が海で海水浴を存分に楽しんでいました、などと言って、視聴者に向かって話すが、実はそのアナウンサーは海など行っておらず、自分がさも体験してきた様に笑顔で話すが、彼は一日中この暑い外には全く出ず、クーラーの効いた涼しいスタジオでしかいないのだ。これは正しさという観点からは彼は間違っている。ここで言う正しさとは、あくまでも彼が現地の遠い海岸まで車なりを使って赴き、実際に海水浴を体験して初めて人に言える資格があるのである。しかし実際にはテレビ局のスケジュール上、そんな事は出来ないし、予算も無い。世の中はこの様な事で満ちている。すなわち、実際体験していない者がさも体験してきた様に代弁する事はよくある。よって正しさの観点からは外れていても、都合上、正しさを守っていないのが私達の日常生活なのである。この様に現実はカチカチの正義では成り立たないのであり、もし文字通りの正しさをすべての生活面において実践しなければならないとすれば、そこには多くの時間と手間とコストがかかってしまい、そこに歪みが生じ、正しい事を行ったために過労で死ぬ人間も出てくる場合があるのである。ここで倫理的問題が出てくる。人間は正しく生きなければならない存在だが、人間を犠牲にしてまで人間は正しくあるべきか、という問いである。すなわち、人間を優先するか、正しさを優先するかという事である。この倫理のジレンマは日常のあちこちに潜んでいる。テロリストの言う事を聞いて身代金を払い、人質になった人を助けるか、それともテロリストとは一切交渉しないという正しさを貫いて、人質になった人達を見殺しにするかどちらか等である。これは宗教にも当てはまる。信者はよく自分の信じている宗教信条のために自分の命さえ投げ出すが、果たして宗教とは何のためにあるのだろう。それはあくまでも人間のために、人間がより幸福に生きるために宗教が存在する意義が与えられているのでは無いか。しかしそれを、宗教信条のために人間の命を犠牲にするなどとは、全く本末転倒であべこべでは無いのか。私は思うのだ。人間にとって命がすべてであり、人間は命を与えて命以上の何を得られようか。生き物にとって命あってこその生活であり、命を犠牲にしてまで得なければならないものなど全く無いのだということを。ここに倫理的存在である故の人間の大きな課題が横たわっているのである。

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