高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)      完璧主義の不条理

何事も完璧という事は無い。それで私達は心の潔癖症を治さなければならない。例えば、車を走らせるにはガソリンが必要であるが、ガソリンを満タンに入れれば、それで完璧なわけではない。なぜなら、ガソリンを満タンに入れた分、車体の重量はそれだけ重くなって、それだけ燃費が悪くなるからである。また、お金をできるだけ多く稼いでも、それで完璧なわけではない。なぜならお金を多く稼ぐほど所得税も多く取られてそれだけお金の量が減ってしまうからだ。このように何かの目的のためにα要素が必要不可欠であっても、そのα要素を多く摂取すれば、その目的が最大値を摂るわけでは決してないからである。すなわちある目的をΩとすると、それを組成させるのにαが必要である。つまりΩ+α=Ω+nである。このnを無限に増やして行っても、つまりΩ+α=Ω+(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,,,,,,n+1,n)として行っても、Ωは最大値にはならないのである。すなわち、ある有限定数n=βを超えたら、むしろ効果は無限に収縮(減少)するのである。よって、Ωの最大値=Ω+βであるという事である。逆に言えば、Ωの最小値=Ω+(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,,,,,,n+1,n)であり、これを不等式で表すと、Ω+β>Ω+(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,,,,n+1,n)であるという事である。これは身近に言えば、健康になりたいと思って適度にランニングするのは良いが、ランニングし過ぎると体を壊してしまう事と同様である。この適度な加減こそ、ここで言う有限定数βになるわけである。よって人は幸せになろうとすればするほど、不幸になって行くのであり、人は幸福になるためには無理をせず、適度に頑張る事によって初めて幸福になれるという事である。それで私達はあらゆる事に対して節度を保ち、完璧主義という心の潔癖症に陥らないようにすべきである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

人は自分が受けるよりも、他の人に与える方を自分にとって苦痛でなくなる様に訓練しなければならない。そしてその段階から与える事を自分にとって当たり前になってしまう様にし、最終的にはそれが自分にとって喜びとなるようにまで自分を訓練し続けなければならない。

2.人間はたとえ10回失敗しても、11回目に成功すればそれで良いのである。何が重要であるかと言うと、努力し続ける事が重要なのである。

3.世の知恵、すなわち人間から出た知恵は、神エホバから見れば全く愚かな事である。

4.人にとって他の人から正当な評価を受けたいと思うのは正常な事である。しかし、自分の名を大いなるものにしようという欲求は利己的なものである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人よ、継続は力なり、なのである。あなたは今している事を諦めずに続けて行きなさい。何事も続けていく事が大事であり、続けていけばいずれ必ず良い事があるからである。

2.思考停止人間になってはいけない。人間は常に考え続けねばならない。1つの価値観にこだわってこれで十分である、と思った時から人は考えなくなるからである。よって、常に常識を疑い、既成観念を再吟味し、常に工夫して新しい事を開拓していく精神を培わなければならない。人間にとって思考停止する事は、廃人になる事に等しいからである。よって、人は常に考えて、考えて、考え続けなければならないのである。

3.    (題名)   一番強いのは誰か。

全世界で一番強いのと、相手が強くなればなるほど、自分も強くなる事とは一体どちらの方が強いのか。では現段階の全世界をαとしよう。あなたはα世界で一番強いとする。しかし世界は常に向上し変化し続けていくから、1年後には、α+1となっている。これを不等式で表すとα<α+1となり、あなたの強さは1つ減って、α-1となる。すなわち、ある時点で世界一でも、時間が経てば、あなたは世界一ではなくなってしまうのである。それに対して戦う相手がαとしよう。あなたは相手が強くなればなるほど、さらに強くなるのだから、あなたはα+1となり、不等式で表すとα<α+1となる。しかし相手は常に向上し変化し続けていくから、相手は1年後にはα+1となっている。しかし相手が強くなると同時にあなたもまた強くなるから、あなたは(α+1)+1となり、α+2となる。すなわち不等式で表すとα+1<α+2である。すなわちあなたは常に一番強いという事になるのである。これを一般式で表すと、(α+n)<(α+n)+1となる。nとは1.2.3….n-1.nの事であり、無限級数である。この様に絶対値よりも相対値の方が永遠に安定する場合があるという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生を送る点で何事も否定的に見るより、肯定的に見る事は大きな利得の手段である。例えばコップに水が半分入っている。Aさんはそれを見て、もう半分しかないと否定的に見る。また別のBさんはそれを見て、まだ半分も入っていると肯定的に見る。この違いは大きい。なぜならAさんはそのコップに入った水を不満気に思いながら飲むだろうし、Bさんはそのコップに入った水を楽しみながら飲むからである。不満は精神のストレスとなって少しずつ鬱積していく。そして些細なストレスの積み重ねが大病を引き起こしたり、心の病を誘発する。だからAさんはこう思うべきなのである。もうコップに水が半分しかない。それではこの貴重な水をじっくりと味わって楽しむ事にしよう。こう考えれば心にストレスが溜まる事がない。よって人生においても、ある人は年収800万円を貰っている。しかしその人が私は年収800万円しか貰っていないと考えたなら、その人には不満が溜まりストレスとなる。しかしまた別の人が、年収200万円を貰っている。しかしその人は年収800万円も貰っている人を見て、悔しがったり、妬んだりする事なく、その人が年収800万円も貰っている事を自分の事の様に喜んであげる。彼は私より難しくて辛い仕事をしているからそれだけの報酬が貰えるのだ、なんと有能な人だろうとその人を褒めるのである。そして自分はたとえ年収200万円しか貰っていなくても、自分は自分の能力に応じてその金額は妥当なものだ、としてそれで満足する。それで彼はストレスを感じたりしないため、ストレスが溜まって病気になったりする事がない。よって何事も肯定的に考えよう。たとえ大きな災いや苦難や不幸に見舞われたとしても、それを否定的に捉え、悲観するのではなく、災いを転じて福となすという、したたかな精神を持って事に当たり、苦難は自分の内面を成長させてくれる絶好の機会だと捉え、肯定的に捉え、私は不幸でも、自分より不幸な人はいっぱいいると考え、不幸な人全般を自分の肉親の様に感じて、共に苦しみを共有する態度を培うのである。その様に物事を楽観的にポジティブに考える事によって、その良い心の些細な積み重ねが最終的には幸運を呼び寄せ、物事が順調にいく様になるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

他の人に自分をどこまで見せればよいか。普通の人は自分の良いところだけを見せる。義人は自分のありのままを見せる。聖人は自分の見られたくないところだけを見せる。神は自分の悪いところだけを見せる。すなわち、人格が上位の存在ほど、自分を他の人より低く見せるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

世界中の愛する読者の皆様こんにちは。高田義裕です。いつも私のブログを読んでくださって本当にありがとうございます。しかし残念ですが、私の個人的事情に依り今日をもってブログを終了させていただくことになりました。本当に寂しい限りです。今まで読んでくださった読者の皆様に深く感謝しております。これから読者様の人生がより豊かでより幸福なものとなりますよう心からエホバ神に祈っております。それではお元気で、さようなら。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間は他の人と自分をどうしても比べてしまう傾向にあるが、実は人と人同志は互いに比べる事は出来ない。例えばあなたがAさんだとして、相手のBさんと比べて、自分よりBさんの方が能力がある事に気付いて、自分はBさんより劣っていると考え、劣等感を抱いたり、妬んだりする必要は全く無い。なぜならライオンとゾウはどちらが優れているかなどと比べられるだろうか。それはナンセンスである。なぜならライオンとゾウは全く別の生き物だからである。また、ジャガイモとニンジンはどちらが優れているかなどと考えるだろうか。普通は考えない。なぜならジャガイモとニンジンは別の野菜だからである。ジャガイモにはニンジンには無い良さがあるし、ニンジンもジャガイモには無い良さがあるのである。要するに、人間とは同じ姿や形をしていても個人一人一人は全く別の生き物なのである。よってAさんにはBさんには無い良いところがあるし、BさんにはAさんには無い良いところがあるのである。もし、Aさんという身体的にも精神的にも全く同じ条件のクローン人間を造って競わせるのであれば、それは比べられるかもしれないが、お互いに性格も人格も違う人と人同志を比べてもそれは意味を成さないのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中にはすべて揃っている人など1人もいない。けれども私達人間は他の人のいいところだけを見て、それを羨ましいと思って妬んでいる。例えば、ある大金持ちを見て、人は自分も彼の様に大金持ちになりたいと思うかもしれないが、確かに彼は大金持ちかもしれないけれども、実は子供に恵まれず、自分の老後が不安で夜も眠れなかったりする。また、人々から絶大な人気のあるスター俳優を見て、自分もああなりたいと思うかもしれないが、そのスター俳優は、すごく貧しい国に生まれ、自分の親から奴隷として売られ、その連れて行かれた国でたいそう苦労してたまたま現実の地位に収まる事が出来た。すなわち彼は親からの愛情を受けて来なかったから、非常に愛に飢えており、実は鬱病を抱えている。また異性から羨望のまなざしで見られるほど大変美しい女性がいるが、実は幼少の頃、自分の叔父から性的虐待を受けており、大の男嫌いだったりする。また頭脳明晰で芸術や数学の分野で活躍している、ある事にずば抜けて才能がある人でも、実は発達障害という人格障害を抱えていたりする。また性格的にとても頼りになり、たくましい人でも、普段は暴力的で粗暴だったりするし、また、とても気の優しい人でも、とても内気で対人恐怖症であったりする。また、とても優秀で仕事が出来ても、同僚からは嫌われる性格の悪い人であったりする。この様に隣の芝生は青く見えるけれども、実は人とは大差無いのであって、他の人の事を羨ましいと思っているあなたこそが、他の人から羨ましいと思われているかもしれないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバの下には何ものも権限は無いのである。

2.自分の義を追い求めている者は、自分の栄光を求めている。しかし、神エホバの義を追い求めている者は自分の栄光を求めてはいない者であり、その者は真実な者である。

3.本物とは、常に自分が本物とは自らが自称しない者である。

高田義裕の人生論

今日の格言

宗教とは、もしそれが一番正しい、それが唯一の真理であるという確信のもとにそれを信じるというのであれば、それはもはや精神的な強力なアヘンである。この世の中に一番正しいものがあるとか、これが真理である、とか言っている人は、この世の中は皆、正方形で出来ている、正三角形で出来ている、正八面体で出来ていると主張する事と同じである。ではこの世の中はすべてが白か黒かではっきり区別する事が出来、正解が常にある、数学の問題の様に解決出来るほど単純明解なものであろうか。いや、決してそうでは無い。現実世界は、正解というものが見出せない数学の問題の様に単純では無い。そこには、いびつな三角形や歪んだ四角形や大きさの揃っていない多面体ばかりである。そう、簡単にまっすぐな定規で長さや面積を測り出せる様なものでは無いのである。この世の中には、解決しようにも解決出来ない問題で満ちている。人が周りにジャガイモやニンジンや玉ねぎやピーマンや大根やトマトなどの野菜の種類が豊富にあり、いろんな選択肢がある中で、自分があえてトウモロコシを選ぶとしたら、それは本当の本人の意志であり、正しい事である。しかし逆に、世の中全体が飢饉に見舞わられており、トウモロコシしかないのであれば、誰でもトウモロコシを食べるほかない。宗教を信じている人もそうである。自分の宗教が一番正しい、これこそ唯一の真理であると思っている人は、飢饉でトウモロコシを食べるしかない人と似ている。要するにトウモロコシ以外の野菜を知らないだけで、本当に自分の意志でトウモロコシを選んだわけでは無いのである。これは犬と同じである。犬にとっては飼い主がすべてだが、それは飼い主以外の人間を知らないから飼い主に従っているだけである。では、その飼い主は一番正しく、真理であり、神か。決してそうでは無い。その飼い主はたくさんいる人間の1人にしか過ぎないのである。すなわち、それは絶対的なものでは無い。それはあくまでも相対的なものである。よって結論として、それが一番正しいから、それが唯一の真理だから、それを信じるという動機づけは間違っているという事である。なぜなら、それは食べる野菜はトウモロコシしか無いと言っている事と同じであるからである。