高田義裕の人生論

今日の格言

発想の転換

あなたは毎日同じような価値観で生きており、ある悩みを抱えているとする。しかしその悩みは常日頃の価値観を打破して見れば解消するかもしれない。例えば、世界地図を広げて見ると、私達は北半球に位置している。だから日頃から北半球が世界の中心であるかの様に考えてはいないだろうか。よって我々の常識から言えば、南半球にはほとんど大陸が無く、オーストラリアしかない。だから南半球は大陸が少なくてオーストラリアしかないから、オーストラリアの人は世界の中心には無くて、ポツンとひとつだけ下にある孤立した大陸だ。さぞ寂しいであろう。などと考えてはいないだろうか。しかし、逆にオーストラリアを視点の基準にすれば、北半球には大半の大陸がある。しかし南半球には私達のオーストラリアという大陸だけしかない。私達オーストラリア人は多くの大陸よりもひとつだけ突出して上の方にあるから、私達は世界の中心であり、世界のナンバーワンだ。と思っているかもしれないのである。また、あるAさんはあるBさんの事を彼女は内気でおとなしい人だ。友達が少なくて、さぞ寂しいであろう。と考えているかもしれない。しかし、BさんからしたらAさんは彼女は誰とでもすぐ仲良くなってしゃべるけど、彼女は寂しくて無理して社交的にしているのでは無いだろうか。友達が少なくても平気な私に比べれば、Aさんは余計な努力をして大変そうだ。と思っているかもしれないのだ。また、常日頃から出来るだけお金の支出を減らすために安いものばかり買ってお金がかからない様にしている人は、今日はこれだけ出費を減らす事が出来た。これだけ安く買えて大変うれしいと思っている。また金持ちは、贅沢で高価な食品ばかりを購入し、こんなに高価で美味しいものばかり買えて私は恵まれていて大変うれしいと思っている。しかし、安いものばかり選んで買う人から見れば、高価な商品ばかりを買う人はもっと安くて美味しい買い方があるのに、無駄にお金を払って損している。なんて損な事をしているのだろう、とほくそ笑んで冷笑する。しかし、金持ちは金持ちで、いつも安いものばかり買って、お金が無いのね、少ない給料からやりくりしなければならないから私みたいに何も考えずに大量に買えないのね、可哀想な人だ。と思っているのである。すなわちこれらに共通して言える事は互いが互いに逆の発想で物事を見ている事である。私達の常識は他の人から見たら非常識なのである。私達の考え方は絶対的なものでは無く、あくまでも、相対的なものである。よって、あなたの抱いている悩みも絶対的な価値観では無いのである。他の人から見ればそれは羨ましい事かもしれないのである。よってぜひ、たまには世界地図を逆さまに見る様にして、あなたの常日頃の常識を逆さまから見つめ直すと良い。すると今までの悩みがまた別の価値観を持ってあなたに新たな世界の境地を開いてくれるかもしれないからだ。

高田義裕の人生論

今日の格言

義なる者にとっては、すべては清いという意味の真意とは、あらゆるどんなひとつひとつの物事に対しても、常に良い部分だけを上手に抽出している人間の事を言うのである。すなわち、雨が降れば、明日は晴れるだろう、と前向きに考え、怒られたら、怒られた相手にでは無く、自分のどこに怒られた要因があるのかを尋ね求め、それを見いだしたなら、よくぞ怒ってくれました、と相手に感謝する事により、怒った相手がむしろ仰天する事であり、災いにあったなら、自分と同じ災いに遭っている人の気持ちが分かった、と喜ぶ事であり、貧しければ、貧しさを楽しむ心の余裕を持っている事であり、性格の悪い人と仕事をしなければならない時には、その人の何かしら良い面を積極的に探す人の事であり、なんにせよ、すべての事を肯定的に前向きに考える人の事を言うのである。よって義なる人によってすべての事柄は清くされ、精錬されるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

正しいとは正確である事である。また、悪いとは不正確であるという事である。すなわち、緻密な計算と厳密な調査、すなわち、正直さが正義なのであって、曖昧にする事、いい加減な事、すなわち嘘をつく事が悪なのである。例えば、線路を引くにしても、緻密な計算と厳密な調査をもって線路を引かなければ、電車は走る事が出来ないし、適当にいい加減にビルの土台を作ったなら、ビルは崩壊してしまうのである。よって正しさと悪とは二律背反の関係にあって、正しさの精度は悪の精度に比例し、悪の精度は正しさの精度に反比例するのである。これはどういう事かと言うと、より正しい事を追求していけばいくほど、悪という質も高くなっていくという事である。例えば、土で作った粗末な家で満足すれば、土で作った家はそれで正しいのである。それは手抜きでは無い。しかし、ひとたび、家の住み心地や快適さ、便利な機能やオシャレなインテリアなどに厳密にこだわっていくと、その人にとって土で作った家は悪なのである。彼は高いレベルのものを求めれば求めるほど、適当にいい加減に作った家や商品はすべて、手抜きの悪製品としか映らなくなるからである。すなわち正しさを追求して行けば行くほど、悪であるレベルの高さも量も高くなり、増えていくのである。しかし、そんなに正しさを追求せずに低いレベルで満足すれば、悪であるレベルの高さも量も低くなり、減少するのである。これはなんと皮肉な事であろうか。正しさを追い求める事が、悪の量を増やす事になるのである。これは日頃、真面目に生きるタイプの人間であればあるほど、自分自身に厳しい制限を課し、生きづらくしていくのに対し、物事を深く考えず、適当にのんびりと生きている人間にとって自分自身に厳しい制限を課す事も無く、生きるのが楽である事と同じなのである。すなわち結論として、真面目で正しい事が果たして良い事かと言うと、そうでも無いのである。なぜなら相手の過ちを許すという事は、相手の過ちを厳密に真面目に取り上げず、自分にとって適当にいい加減に曖昧にする事だからである。愛はその点、相手の過ちを許す点で曖昧でいい加減でなければならないのであり、悪も必要な要素である事を示している。すなわち、この多様性に満ちた世界にあって、真面目で正しい事がすべてでは無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

誰もが皆、自分というものを背負っているのである。

2.正しい事を行う事は不可能では無いが、難しい事である。悪い事を行う事は、可能であるばかりか、たやすい事である。

3.よこしまな願望を持つ者は、よこしまな悩みによって1人で悩むのに対し、健全な願望を持つ者は、人との共通の悩みによって、互いに共有する。

4.キャパシティ(容量)の関係で述べれば、神エホバと人との決定的な違いとは、例えば10部屋しかないホテルに12人がいたとすれば、人の観点でいけば、互いに争って勝った者がその部屋に入れば良いという事になるが、絶対者であり、全能である神エホバにとっては、10部屋しかないのであれば、もう一つホテルを建てれば良いという発想なのである。すなわち、この巨大なホテルとも言える地球において、人が溢れて住みにくくなれば、人の常識から行ったら、人を殺して人数を減らすしかないと考えるが、神エホバからすれば、それなら地球をもう一個作れば良いという発想なのである。なぜなら、神は蜘蛛の糸一本で地球を釣り上げることの出来る方であり、神エホバを人間の観点から推し量ってはならないのである。この人間の発想と神からの観点は隔絶の感があるのであり、私達人間にとって決してあらがう事の出来ない不可抗力な法則も、神にとっては外衣のように折りたたむ程度の変更可能な事柄でしかないという事である。それが絶対者の絶対者たる所以である。

高田義裕の人生論

今日の格言

脆いもの、失いやすいもの、壊れやすいものはすべて、これらは悪に起因するものであり、結論として悪とは脆いもの、失いやすいもの、また壊れやすいものなのである。これに対して愛は、決して絶えず、愛とは丈夫で長持ちし、誰にも簡単で、手に入れやすく、また単純明解で人にとって心地良いものなのである。

2.はっきりと言っておく。御子イエスキリストを飛び越えての真の神への信仰(崇拝)などあり得ないのである。

3.今の私達にとって必要な公理とは、現在の今の状況にとって、何が御子イエスキリストに通じる最善の道、もしくは方向であるかを選択していく事なのである。

4.すべて理知ある人間というものの特質とは、相手に要求するのならば、まず自分が率先して相手に与える事にあるのである。

5.すべて理知ある人間というものの特質とは、まず最初に気付いた者がそれを実践する事にあるのである。

6.理知ある自由意志を持つ人間の特質とは、満ち溢れるほどに持つことでは決して無く、自ら足りて満足を得ることなのである。

7.私達はたとえそれがどんなに正しく、理に適っていても、自分にとっての都合の良い正しさはこれを追い求めず、ただ神エホバによる正しさを追い求めるのである。

8.人間とは本来、怒るということが無くても生きていける生き物であり、人間とは本来、誇るということが無くても生きていける生き物なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

世界の縮図

ある男がいた。彼は非常に貧しく、家も無くジャングルで暮らしていた。彼の日常生活は厳しく毎日獲物を捕ってはなんとか食いつないでいた。その様な厳しい生活を何年も続けてきたために、彼には他の人間には無い、自然の営みの変化を直感で分かる能力が身に付いていた。そしてある日彼の頭の中に瞬時にきらめいた直感があった。気候の僅かな変化を捉えたのである。それは激しい洪水が1ヶ月後に起きる事を示唆するものであった。そこで彼はすぐさま木を切り、洪水に備えるため、船を作り始めた。するといつも男から獲物を買うためにやって来る富んだ人々が何をやっているんだ、と聞いた。すると男はもうすぐ洪水が起こる事を人々に告げ、すぐに高台に避難できるよう準備すべき事を伝えた。すると人々はあざけって笑い、ここ10年間一粒の雨も降っていないのにそんな洪水が起こるわけが無いと言って相手にしなかった。それでも男は黙々と船を作り続けた。すると一匹のキツネはその様子を見て、男のところに近づいて来てこう言った。私はあなたの事を信じるよ。何か僕に出来る事があったら手伝わせてくれ。その代わり本当に洪水が起きたら一緒にその船に乗せてくれないか。男はそれに承諾し、キツネに木の枝を集めるように言った。そうして1カ月後ようやく船は完成した。そしてその日の午後の時分に、ポツリポツリと雨が降り出し、瞬く間に豪雨となった。バケツの水をひっくり返す様な大洪水であった。男と一匹のキツネは船に乗っていた為に命を落とす事無く生き延びる事ができたが、あの富んだ人々は皆、洪水のゆえに溺れ死んだ。そうである。この世界情勢も気候の変化の激しいジャングルのようなものである。今の社会体制で安定の暮らしをしている富裕層は時代のわずかな変化に気付かず、毎日宴会をして騒いでいた。しかしこの社会体制で苦渋のうちにもがき苦しむ者達は、生き残るための野生的本能を日々培っており、どんな時代のわずかな変化にも機敏に動く用意ができていた。そうして世界的大恐慌が突然発生し、それまでの社会体制に慣れきっていた人々は皆、財産を失い、自殺した。しかし、日々厳しい目で世界情勢を分析していた一部の人々は難なくその大恐慌を乗り越え、一躍時代の寵児となって繁栄した。また、常に何かうまい話は無いかと情勢収集を欠かしていなかったキツネの様に用心深い人達はその大恐慌を察知していた人と協力関係を築いていたおかげで彼らの恩恵にあずかる事が出来た。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間に対して、常に客観的な判断者である第三者の人間がいる様に、人間全体に対して客観的な判断者であるエホバ神がおられるのである。この様に私達人間にとって日頃の日常生活には直接には関係しないほど高い、高貴で真なる神聖な方が確実におられるという事である。それはすなわち、砕いて言えば、日々、エホバ神の基準に従いたいと努めている忠実な人が、何度つまずいて自分のどうしようもないと感じる罪深さを改めて痛感するとき、その時こそまさに神エホバがおられるという価値が他の場合よりもさらに勝って満ち溢れるという事柄と一致するのである。現在の私達の立場とは、神エホバの高い規準以前の、最も低い人間同士の間での規準さえも満たしていないというのが現状なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

誰も確実な事であるかどうかはわからない、いい加減な事柄に対しては、本気に取り組もうとする気持ちには決してなれないように、たとえそれが真実であるかの様に思えるいろいろな推論によって誰も自分の命を捧げるほどに真剣になれるはずが無いし、真剣になる必要など全く無いのである。まさにそれらすべてを一掃されるのが神エホバの御意志なのである。

2.私達人間の中で指導者と呼ばれる者はあってはならず、指導者はただお一人御子イエスキリストだけであり、私達人間の中で先生と呼ばれる者はあってはならず、教師はただお一人御子イエスキリストだけであるのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神は御自身が造られた創造物をすべて覚えておられる。すなわち、あの二匹のツバメはその後どうなったか、2,000年前のギリシャにいた人はどんなに悔しい思いをして死んで行ったか、今の全世界に存在する何千兆ものウイルスがどうなっているか、2年前のあなたは何をしていたか、また聖書にもこう書かれている。[神は星の数を数えておられ、そのすべてを各々の名で呼ばれる。] 詩篇147編4節。 また、我々人間一人一人の髪の毛をすべて数えておられ、これまでどれだけの生き物が生まれ、どのような人生を歩んだか、そうして最後は悲惨な死に方をして死んで行った生き物すべての無念な気持ちを覚えておられるのである。それで私は不思議に思って、思い切って神に尋ねてみた。神よ、私は昨日何をしたのかを自分の事なのに覚えていないのですが、あなたがそんな途方もない数の生き物や現象を過去から今に至るまですべて詳細に覚えられるのはどうしてですか。すると神は一つのダイヤモンドを私に見せてくれた。そして神は1分間事にそれをハンマーで叩いて行かれた。するとダイヤモンドは粉々に砕け、細かくなっていった。そしてさらに神は細かくなったダイヤモンドのかけらをまた一つずつハンマーで粉々に叩いて行かれた。そして神は私に言われた。人よ、どんなにダイヤモンドが粉々に小さく別れようとも、それは元を正せばひとつのダイヤモンドに過ぎない。よってどれだけダイヤモンドの破片が細かくそして多くなろうとも、私には常に元のダイヤモンドにしか見えないのだ。それでこの世の現象がいかに多くなろうともそれはひとつのダイヤモンドを粉々に叩いている事と同様であり、私はいつでも瞬時にしてダイヤモンドを元の一つの大きさに戻す事が出来るのだ、と。そう、神は天地の創造以来、起きてきたすべての事柄を瞬時にして元通りにする事がお出来になるのである。このように神にとってまことに異例で成し得ない事は無い事を私は知るようになった。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中にどんな事でも解決できる万能の方法などあるだろうか。答えは否である。これは倫理学的に存在しない。なぜならそんな便利で安易な事柄があったなら、誰もがみんなそれに頼って、怠惰で怠け者になってしまうからである。倫理学第一の法則、楽をすれば必ず後から苦しみが来る、という事柄に基づいてそのような楽する事は決して出来無いのである。神御自身でさえ、そうする事を御自身に許してはいない。なぜなら、神が万物を創造した時、神は何か神だけに許されているなんでも可能な楽ちんな方法で万物を造ったわけではないからである。その証拠にすべての創造物は塵でできており、それはプラスチックや金や銀でできているわけではないからである。あなたは塵で生き物を作れるか。決して作れないだろう。すなわち、人間の問題の解決の仕方はあくまでもひとつひとつ解決していくしか無いのであり、一瞬ですべてを解決できるような方法は無いのである。例えば、相手が10の強さを持つなら、私達はそれよりも勝る11の強さを持って向かって行くのであり、このように常に問題の難易度に応じてその問題より勝った仕方でひとつひとつ問題を解決していくのである。