高田義裕の人生論

今日の格言

人はより良く生きるため、要するに、より神エホバに関して生きるために知識は必要であるが、知識を付ける事を目的とする者は痛みを増し加え、人を思い上がらせるものである。

高田義裕の人生論

今日の格言

この人間社会の成り立ちの根本的本質は、実に不健全で不健康なものである。例えば、これは患者という病人と医師との関係に見い出す事ができる。まず、根本的に医者は病気を治す事が出来ない。しかし、患者である病人にとって少しでも良くなろうと医者に診てもらうしかない。医者も自分が本当は病気を治せないと知っていながら、それは表向きには決して出さない。なぜなら患者とは自分が儲ける為のお客様だからだ。患者も医者から完全に病気を治してもらおうと期待していない。お互いにそれは承知の上なのだ。よって患者は通院や入院を定期的に繰り返す事になる。医者も定期的にお金を払ってくれる慢性的な病人のおかげで食べていける。これはもう、互いのもたれ合いであり、互いに相互依存している。医者が患者を一方的に治すという健全な構造では無く、患者様あっての医者、お医者様あっての患者という互いに対等な病的関係なのだ。そこには何の建設的かつ、生産的社会活動も無い。あるのはただ患者がお金を払い、医者は薬を出すだけの単なる消費活動に過ぎない。この様な地球の資源を食い尽くすだけのもたれ合いこそが地球環境を破壊し、300万種以上にも及ぶ生態系を破壊している。この社会的弱者と社会的強者の関係は至るところで見られる。資本家と労働者も互いにもたれ合いの関係であり、労働者という社会的弱者を食い物にして利潤を得ている。すなわち、すべてが搾取社会なのだ。すべて強い立場にある者、強い権力を持つ者(国や企業)は、弱者(国民や消費者)の弱みに付け込んで利潤を得ているのである。もはや世界規模で国民の国民による国民の為の政治など行われておらず、政府は庶民をセルフコントロールする事で精一杯である。もはや民主主義は有名無実なものとなったのだ。これからは政府によってますます国民が監視される超管理社会、すなわち密告社会へと移行して行くであろう。しかしこの様な病的な人間社会はいつまでも続かない。なぜならどんな強い権力を持つ支配者達よりもさらに強力な支配者がおられるからである。それは神である。神はいつまでもこの自然の生態系を犠牲にして成り立っている、驕りの富を得てぶどう酒に酔っている人間社会をお許しにならない。まさに人類社会はその終末に向かって息をはずませており、最後の審判であるハルマゲドンによって神によって不利な裁きを受けて滅ぼされる運命にあるのである。まさに聖書にこう書かれてある。[しかし、諸国民は憤り、あなた(神)御自身の憤りも到来しました。また、死んだ者たちを裁き、預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに、そして、あなたの御名を恐れる者たち、小なる者にも大なる者にもその報いを与え、地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定められた時が到来しました。] ヨハネの黙示録11章18節。

高田義裕の人生論

今日の格言

進化論の矛盾

生命は進化によって始まったという。最初は単純な造りのものから始まって、長い年月を経て、複雑な構造を持つ哺乳類や人間などが誕生したと言う。進化論は適者生存、すなわち、変化する環境に順応に対応するために、できる限り無駄を削ぎ落とし、できる限り効率性が良いものだけが生き残って来たというのが、その進化論の屋台骨である。しかし、効率性というものを尺度に考えた場合、単純な造りのものの方がより効率が良いのでは無いだろうか。どうして単純な造りの効率性の高いものから、より複雑で体も大きいもの、すなわち、効率性の悪い、多くのエネルギーを消費する哺乳類や人間が生まれてくるのであろうか。効率性と適者生存の観点から言えば、生命は進化ではなく、退化して行っているのである。例えば、人間は製品を作る時に最初は効率性が悪くてエネルギーも無駄に消費する製品、車にしても、冷蔵庫にしても洗濯機にしても、性能の悪いものから徐々に無駄を削ぎ落とし、製品の造りを複雑なものからより単純なものに改良していくのではないだろうか。すなわち、無駄に大きかった製品から、現在の製品はものすごく小さくてコンパクトになり、造りも単純にして、壊れにくくなっているのではないだろうか。要するに生命の誕生の仕方が進化論が正しければ、逆になるはずなのである。すなわち、初めは大きくて複雑な構造を持つ多くの無駄なエネルギーを消費する哺乳類や人間からその無駄な部分を削ぎ落とし、より小さく単純な造りに進化する事によって、長い年月を経て、アメーバやプランクトンなどのエネルギー消費も少なく、造りも単純な生き物に進化していくはずなのである。要するに進化論の述べている事は、進化論の屋台骨である適者生存を自ら否定しているのである。なぜなら生命自体が1つの無駄では無いか。生命を維持するためには、毎日多くの食糧を消費しなければならないし、もし効率重視なら、何も食べなくても生きていけるような生命でなければならない。しかし、他の生命の犠牲なくして生命はその存在を維持出来ないのであり、生き物という存在自体が1つの無駄な存在だからである。もし効率重視と適者生存が、物事を推し量る絶対的条件ならば、初めから生命など存在する必要性は全く無いのである。なぜなら何も無い事が一番効率性が良く、無駄の無い事なのだから。

高田義裕の人生論

今日の格言

真理は真理であり、それはまた同時に正しいものでもあるけれども、単に正しいこと、すなわち誰もが称賛する立派で良い事柄が必ずしも真理であるとは限らないのである。よって正しさとは真理にとっての必要条件ではあっても、必要十分条件では無いのである。また、真理は同時に義に適っているけれども、単なる義が必ずしも真理であるとは限らないのである。よって義とは真理にとって十分条件ではあっても、必要十分条件では無いのである。これと同じ理屈で、神は神であり、神はまた同時に正しい方であられるけれども、単に正しいこと、すなわち完璧に正しいことが神では無いのである。また神は義なる方であるけれども、単に義であること、すなわち完璧な義も神では無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

哲学的矛盾

すべての事は存在すると仮定する。すると、すべての事は存在しないという事も存在する。これは矛盾である。よって結論として、すべての事は存在しない。また、すべての事は存在しないと仮定する。すると、すべての事は存在しないということも存在しない。これは矛盾する。よって結論として、すべての事は存在する。

高田義裕の人生論

今日の格言

哲学的背理法(2)

すべての事は不可能であると仮定する。すると、すべての事は不可能である事も不可能である事になる。これは仮定と矛盾する。よって結論として、すべての事は可能である。

高田義裕の人生論

今日の格言

哲学的背理法

すべての事は可能であると仮定する。ではなぜこの世の中には不可能な事が存在するのかと言うと、それはまだ私達人間がそれを可能にする手段を知らないだけか、ただ私達人間がそれを可能にする能力が無いか、それとも私達人間がそれを可能にしようとする意志が無いかの3つの理由しか無いのである。すなわち、すべての事において、これは不可能であるという事を証明する事は出来ないのである。しかしここで、可能な事を不可能にする事も可能である事になる。これは最初の仮定と矛盾する。よって結論として、すべての事は可能では無い。

高田義裕の人生論

今日の格言

私は幼少の時から人間の善とは何かを考え、学び、模索し、実践してきた。この49年間の成果を今、振り返って言える事は、その努力は全く無駄だった事がはっきり分かった事だ。とことん究極にまで努力しても人間は何1つ完璧には出来ないという事を思い知らされ、悟る事が出来た。しかし、努力はしても無駄だから、努力しなくても良いという意味では無い。むしろ、とことん努力したからこそ、努力しても無駄だ、という知識を得る事が出来たのであり、もし努力しなければ、私は自分にはまだまだ能力があって、努力すれば物事を成し遂げる事が出来るのではないかと淡い期待を信じていたことであろう。であるから読者の皆さんも、自分に興味を持った分野でとことん努力する事をお勧めする。努力して初めて自分はなんて平凡で、小さな存在なんだ、という事を身をもって体験する事が出来る。すなわち、努力もしないで、自分はできる人間だ、と半ば妄想に近い悶々とした気持ちで人生を送るのと違って、とことん努力して自分の限界を思い知らされる方が、気持ちもすっきりするし、何よりも大事なのは、他の人の至らなさを素直に許せる様になる事だ。そう、自分に謙虚さが自然に湧いてきて、他の人も自分も何も違わない同じ人間であるという事が本当に理解できるのだ。そういう諦めの境地に達して初めて人間は謙虚になれるのである。すなわち、努力していない者ほど、すべてを知ったかの様にして誇り、尊大な態度をとっているのが、事の常なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

良い事柄を無自覚に行うよりも、良い事柄を自覚を持って行う事の方がより本物なのでは無いだろうか。そしてだんだんとそれを無意識のうちに行う様になるまでそれを習慣化してしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

昔はもっと時間は遅く流れていた。産業革命以前は時間に追われる事もなく、1日の厳しいノルマが与えられていたわけでもない。しかし、産業革命以後、交通手段やコンピュータなどの向上で日常生活が便利になり、豊かになると、それに応じて仕事の量は増え、仕事の質も高いものが要求され、スピード、すなわち効率性が求められるようになった。人間の人生においても同様である。人は幼児から子供時代までは時間がゆっくり流れていた。しかし成人し、大人になり、いろいろ経験を積んで自分の問題解決能力が高くなると、それに応じて自分にのしかかってくる問題の量や質も多くなり、難易度も高くなるということである。すなわち、人がある問題というハードルを乗り越えると、その次に休む暇もなく次の新たな問題というハードルがのしかかってくるのである。これは次から次へとやってくる波に対応しなければならないサーフィンのようである。よって人間性が高くなるほど与えられる課題も難易度が高くなり、人間性が低いほど与えられる課題の難易度も低くなるという事である。自分はそんな厳しい目に遭いたくないと思ってそこから逃げていくと、それは仕事をサボるようなものであり、課題の難易度は低くても、課題は山積するばかりであり、いずれは膨大な量の問題と強制的に対峙しなければならなくなり、結局は酷い目に遭う事になる。よって人は生きている限り、死ねまで荒波という大海を泳いで行かなければならないのである。