高田義裕の人生論

今日の格言

足元が崩れかかっているのに、遠くの景色に注意を向ける事は賢い事であろうか。むしろまず足元に注意して足元を踏み固めるべきでは無いだろうか。。よって、今の自分の現状を深く考慮して今の自分にとって何が最善を尽くすべきなのかを深く吟味しないで、(すなわち、足元を見ないで、)理想ばかりに(遠くの景色ばかりに)心を奪われていたのでは、まことに悲劇という他は無いのである。

2.悪魔サタンは言う。自分の良しとするところで自分を定めれば良い。そうすれば、あなたは70,80年、間違いなく一生を全う出来るであろうと。しかし、大天使ガブリエルは言った。人は永遠に生きられるように初めから造られている。むしろ人は、神エホバから一方的に出る真実であり、真理の言葉によって自分を定めなければならないと聖書に書いてあります。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

順番が違うとそれだけで悲劇的である。私達の意見や考えに聖書の内容も同じであったから、その聖書を信じるという心の動機付けは不真実なものであり、まず先に聖書を開いて、その内容を知ってからその意見に自分も同意するという事でなければならないのである。私達は決して聖書の真理を掲げるのでは無く、私達は常に聖書の真理を擁護しなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     悪の定義

悪とは何か。それは自分に理解出来ない事を理解出来る様になれるよう努力し続ける事を止める事である。すなわち、対話の中断、協議する事の放棄そのものである。この姿勢はこの多様性に満ちた世界にあって、すべての対象を自分にとって敵か味方かというたった2つの区分で分ける思慮に欠けた浅はかで大雑把な下等な考え方であり、それが結局のところ、争いを産み、人々は戦争を始め、殺しあうのである。この世の中は白か黒かで判断出来ないほどすべてが複雑に関連し合っており、敵か味方か、悪か善かなどと言う単純な要素で推し量る事が出来ないほど広大で深淵なのである。神が最初の人間アダムとエバに善悪の知識の木の実を食べないように命じたのは、この全世界の営みすべてを善か悪かで決める事は間違った事であるという事を人にはっきり示すものだったのである。であるから、人と人との人間関係において、相手の人間を自分にとって敵か味方かとか、自分にとって益になるか不利になるかという単純で無神経な価値基準で判断するのでは無く、もっと多様性に満ちた正確で緻密な考え方、すなわち相手の人間の事をもっと詳しく知ろうとする態度を培わなければならないのである。よって相手の人間の気持ちが自分には最初、理解出来なくても、そこで相手の事を理解しようとする努力を止めず、その人の事をもっと分かりたいという気持ちを捨てない事である。そうして行けば、いずれあなたは彼に対して、あの人は気難しいところもあるが、正直さでは私より上回っているという相手の良い面に気付かされ、頭ごなしにあの人は私の敵だ、などという考え方は何と不正確で早計で誤った判断だったのだろうと思い知らされるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

読者の皆さんこんにちは。いつも私のブログの記事を読んで下さって有難うございます。さあ、今日から人類の新しい1ページが始まります。そう、西暦2019年4月14日の今日、この世の中は新しい世代(ミレニアム)へとスタートするのです。これまで今日の(箴言)と題して始めていましたが、これからは今日の(格言)と入れ替わります。新しい世代に向けて読者のあなた方すべてに唯一真の神であるエホバからの豊かな祝福がありますように。アーメン。from(高田義裕:Yoshiyasu.Takada)  in Japan.

1. あなたは同じ人から是認を受ける為に、ある特定の人物から自分を良く見られたい故に、彼が見えるところだけで精一杯頑張っている自分をアピールしていないか。あなたは人が多くいる目立つところでだけ善行や親切を示して注目を集めようとしていないか。それは全くの偽善なのである。人目につくところだけ頑張って、人目の届かない、誰もいないところで手を抜いているとしたら、あなたは少しも神エホバを恐れていない事になる。神はあなたの本当の素性すなわち、本性を知っている。あなたは人目につくところで何の善行や親切を示さず、全く人目の届かない誰も知らない、誰も見ていないところで善行や親切を示すなら、ただお一人でひそかにすべてを見ておられる神エホバを恐れている事になるのである。すなわち、人に是認される者が救われる者なのでは無く、神に是認される者が初めて人からも是認され、救われる者なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは何があろうとも他の人の性格について良くは言っても、悪く言ってはいけない。もしあなたが誰かから、あなたの家の部屋に置いてあるあなたのお気に入りのぬいぐるみの事を悪く言われたなら、そんな事はあなたに全く関係の無い事だ、と言うに違い無いのである。それと同様に、人間一人一人の心もプライベートな部屋の中のそのまた奥にある部屋の様にプライベートなものなのである。そんな誰も知らない家の中の事を赤の他人がどうこう言う権利は無いし、ましてやそれが悪いなどと言う事は失礼千万な事なのである。人と人とは物理的な距離は近くても、精神的距離は物理的宇宙の果てよりも遠いのである。よって相手の性格がたとえ悪くても、あなたはそれを嫌う事は自由だが、それを悪く言って裁く事は決して出来ないと言う事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)     幸いの聖句と災いの聖句

神エホバに依り頼む者は幸いだ。また、神エホバなど知らないと言う者は災いだ。よって、今、災いに遭っている者は幸いだ。なぜなら彼は神の力を知るようになるからである。彼は災いからも助け出される。また今、幸福な者は災いだ。なぜなら彼は神の力を侮るからである。彼らは突然逆境に陥り、もはや癒される事が無い。よって自分の能力が無い者は幸いだ。なぜなら彼は自分の力に頼らず、エホバに依り頼むからである。彼の行う事はすべて成功する。また、能力のある者は災いだ。なぜなら彼は自分の能力に頼り、エホバなど知らないと言うからだ。彼はその能力の高さの故に突然砕かれるであろう。弱い者は幸いだ。なぜなら彼はエホバによって強くされるからである。強い者は災いだ。彼は自分の強さ故に油断し、敵に討ち取られるからである。自信の無い者は幸いだ。彼はエホバによって優越感に満たされる。自信がある者は災いだ。彼は自分の自慢の能力によって自信を打ち砕かれるからだ。謙遜な者は幸いだ。彼はエホバから愛されるからである。彼は逆境の時も恥を掻かず、飢饉の日にも満ち足りる。傲慢な者は災いだ。彼はエホバから憎まれるからである。彼は順境の時でさえ、恥をかき、周りの者が豊かでも、彼だけが飢え苦しむからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)     神という最後の砦

あなたは職場で大きなミスを犯してしまった時、職場の上司にこっぴどく怒られた経験があるであろう。しかし、その時普段から仲良くしている職場の同僚が仲介に入ってくれてあなたがミスを犯した後の後始末を手伝ってくれた。しかし、ある時その、仲の良い同僚と仕事の事で喧嘩をしてしまい、それが原因であなたは仕事を辞めてしまった。そこで無職となり、あなたは昔からの友人に助けを求めた。友人は快くあなたの為に新しい職場を紹介してくれた。あなたは友人に感謝してその仕事に就いたが、その職場の同僚があなたと馬が合わず、その同僚から嫌がらせを受けた。それが原因であなたはその職場を退職した。それでその仕事を紹介してくれた友人にその事を話したところ、彼は呆れ返って、2度と君に仕事は紹介出来ないと言って断られた。あなたはもはや自分の親にその事情を説明して助けて貰うしかなかった。あなたの親はあなたの事情を察してくれ、あなたが無職でも、次の仕事が見つかるまでしばらく経済的に助けてくれた。しかし、次の仕事はなかなか見つからなかった。それであなたの親はしびれを切らしてあなたに、仕事をしないなら出て行ってくれ、私達も自分を養うだけで精一杯なのだ、と。そしてあなたは実家を出るしか無くなった。どうであろう。あなたという人間をどんな状況にあっても助けてくれる人間はどこにもいないのである。あなたの親でさえあなたを見限ったのである。あなたの仲の良かった同僚も昔からの親友も、はたまたあなたの親も救ってくれるのには限界があるという事である。しかし、真の親であり、父がいる。それは神であり、あなたの神はたとえあなたが犯罪を犯して刑務所に入れられてもあなたの事を気遣って下さるのである。神からの助けとは人間と違って限界というものが無い。あなたの弱さや限界もよく理解しているし、どんな時にもあなたを守って下さるのである。すなわち、人間にとって最後の救いの砦は神なのである。この神にさえ見限られたら人間にはもはや救いは無いのである。よってこの世の中の事物の体制の終わりの時、ハルマゲドンにおいて神による最後の審判が執行される時、それでも神に反抗する者はもはや滅ぼされてしまうのである。なぜなら、どんなに悪い事をしている人間に対してさえも、その人の事を助けてくださっていた神にあえて反逆するという事には、もはや同情の余地は無いからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)     人間性の大切さ

人は人生において非常なピンチに陥る事がある。その時に、まさに生死を分ける条件がある。それはその人の性格が悪いものであるか、性格の良い人であるかの差である。人間にとって敵とは常に人間なのである。要するに、どんなに鬼の様に恐ろしい敵であっても、彼らとて人間なのである。すなわち、赤い血が流れている以上、鬼の目にも涙なのであり、敵でも機嫌が良かったり、あなたの心が正直で信頼出来る人間性を持っているのであれば、敵である彼らも一目置いて、あなたの事を悪い扱いにしないのである。彼らはひょっとすると、あなたの欺瞞の無い純粋な心に惹かれて自分の本当の胸の内を明かしてくれるかもしれないし、本来なら厳しい罰を与えるところを容赦してくれる場合があるのである。また、誰にも教えてくれない貴重な情報をも教えてくれるであろう。よって人よ、ぜひ自分の心を精錬し、今あなたが人間性の悪い、性格の悪い、貪欲で、わがままで、短気で、感謝の念の無い、片意地で、傲慢で、親切心の無い人間であるのならば、それを人間性の良い、性格の良い、貪欲で無い、わがままで無い、温和で、感謝の念のある、協調性のある、謙遜で、親切心に満ちた人間になれるよう努力するように。それらの良い特質を普段から身に付けるよう努力する事を習慣づけるなら、もし、自分に非常に不利でピンチな状態に陥ろうとも、あなた自身の人間性があなた自身を救う事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名  )     偽りの宗教と真の宗教との違い

偽りの宗教はその教えを行う事によって、それを信じようとする者に対して良い事しか約束しないし、良い事しか起こらないとしか言わないものなのである。真の宗教とは何かと言うと、以外な事にその教えを行う事によって、良い事ばかりあるとは言わずにむしろ、それを行う事によって災いに遭う場合もある事を自らがはっきりと、正直に言っている事にあるのである。すなわち偽りの宗教は偽善的であるのに対し、真の宗教とはあえて綺麗事は言わずにむしろ信ずる者に対して苦役を共にする事を奨励するのである。だから、みんなは楽したいから、偽りの宗教の方を信じるのであり、みんなは苦しむのは嫌だから、真の宗教を嫌うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

大都市ニューヨークに豪華で立派な建物のホテルがあった。そこは世界中から政治家やハリウッドスターや大富豪達が泊まる場所であった。そしてある時、1人の大富豪がそのホテルのぴかぴかに光った大理石のロビーを歩いていた。彼は今日、大事なビジネスの件でこのホテルのVIPルームで取引先と会合し、自分に非常に有利な商売の取引を成功させたばかりだった。彼は有頂天でロビーを歩いていたのだが、ロビーの隅にあるトイレにふと目をやると、そこには年老いた1人の清掃員がトイレを掃除していた。それを見て彼は、こんなお年寄りになってまで汚いトイレ掃除をして安い賃金で貧しく生活しなければならないのかと思い、彼を不愍に思い哀れんだ。そしてそれと比べて自分はいかに素晴らしい身分にいるのかと改めて感じ、心の中でひそかに清掃員に対して侮蔑感を感じながら自分に対しては優越感を感じた。どうであろう読者よ、このホテルの中で一番偉いのは誰であろうか。このホテルの支配人であろうか。それともここに泊まりに来る彼の様な大富豪達であろうか。いや決してそうでは無い。このホテルの事を隅々までよく知っているのは、あのお年寄りの清掃員であり、ロビーの大理石をぴかぴかに磨いたのも彼であった。彼は誰も目の届かない細かな部分まで毎日綺麗に掃除をしており、その部屋の使い方でその泊まった人間の人格的レベルを把握する事が出来たほどだ。彼の頭の中では、この世の中で有名で世界中から脚光を浴びているVIP中のVIPほど部屋の使い方が汚くて散らかしてある傾向を知っていた。それでも彼は文句1つ言わずに黙々と掃除を続けた。そうである、彼のお陰でこのホテルの綺麗さは保たれており、その綺麗な床を歩く者は彼のお陰で優越感を抱いているのも同然であった。実際、自分が掃除したソファーや椅子にVIP達が何も気にせずに座っておしゃべりしたり、安楽そうに寝転がっているのを見ると、彼らはまるで彼の手の中にある赤子の様であった。そう、その清掃員の目で見たら、お客のすべてが自分が掃除した所を自慢気に歩いているのが、彼にとっては自慢なのであった。こうして華々しい立場にある人達よりも、普段から全く目立たず、影で汚くて卑しい仕事をしている人間達こそ本当に偉大なのである。