高田義裕の人生論

今日の格言

絶望という状態に関してさえ、その時にこそ神エホバがおられるという益がより満ち満ちるものなのであり、それは死という、もはやどうしようもない絶望さえも捉えておく事の出来ない、神エホバという奇蹟の存在がおられるのである。神エホバこそ苦難の時に生まれた友人なのである。

2.大部分の人々は、自分達の都合の良い時にだけ真実を語ったり行ったりする。すなわち、ほとんどの人間は自分にとって差し障りが無く、自分にとって損失がほとんど無い事を見計らって、その時だけにのみ、神エホバから出る真実を語ったり行ったりするが、残念ながらそれはほとんど自分達の益にはならないのである。本当に真実を愛する者、すなわち神エホバを愛する者は、たとえ自分に不利な場合でも、たとえ自分に損失を伴う場合でも、常に真実を語り、真実を行う者なのである。まさに聖書にこう書かれてある。出エジプト記34章14節にこうある。[あなた方はほかの神にひれ伏してはならない。エホバは全くの専心を要求することで知られている。私は全くの専心を要求する神なのである。]と。

高田義裕の人生論

今日の格言

あなたは資産として土地を所有しているであろうか。そこで誰でも困る事は、土地の管理である。地面からは雑草が常に生えてくる。土地の所有者は雑草を刈っても刈っても生えてくる事を知っているであろう。すなわち、何もしないで放って置くと、知らない間に雑草が伸び放題になって手が付けられなくなるものである。よって土地の所有者は常に地面を日頃から手入れしておかなければならない。これと同様に、我々の心の中も常に手入れが必要である。日頃から自分の心を手入れせず、何もしないで置くと、知らない間に心の中にも雑草が生えてきて、それをそのまま放置して置くと、しまいには心の雑草という傲慢さが伸び放題になって心が荒れてしまい、取り返しのつかない事になる。すなわち、我々は自分の心の状態を毎日点検し、常に毎日生えてくる心の雑草を刈り取らなけばならないのである。そう、人間は常に傲慢になる習性を持っているのである。男性なら、顎のひげを毎日剃らなければならない様に、人は何もしないでいると、自分でも意識しない間に心が傲慢になって汚れていくのである。よって人は自身の心の清さを保つためには常に意識的な努力が必要不可欠なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人が人を死に至らしめる場合、それは殺人であるが、人を創造した神が人を死に至らしめる場合、それは人にとって滅びを意味するのであり、それ自体は公正で義に適った裁きなのである。

2.   (題名)      マンネリズムの構造

マンネリズムとは、あるAという目的の為にBという手段を取る事にしていたにもかかわらず、それを継続し続ける事によって、例えば、ABABABABABABABABABAB....と無限ループに陥る事に依り、AとBの順番が逆転し、BABABABABABABABA....となって、Bという手段の為にAという目的が手段化されてしまうことである。例えば、人は生活の為にお金を稼ぐという、(人の生活の為)=Aという目的の為に、(お金を稼ぐ)=Bという手段が後に続いたにもかかわらず、それを継続していくうちに、順番が入れ替わり、(お金を稼ぐ)=Bの為に(人の生活の為)=Aを犠牲にするという、人の為にお金があったのに、お金の為に人があるなどという全くの不合理で不条理な事柄に変化してしまう事を言うのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

主人が主人的な態度を取ったからといって、それは自然で当たり前の事であり、そこに傲慢さの入る余地は無いのである。ただ主人で無い者が、さも主人であるかの様な態度を取る場合にのみ、そこには傲慢さの弊害が生じてくるのである。よってこの場合、主人とはエホバ神の事であり、神が神の様な態度を取ったからといって、そこには全く傲慢さのかけらも無い。しかし単なる人が神の様な態度を取ったとしたら、そこには傲慢さの弊害が生じてくるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

最悪とは、すなわち全人類の大半を占めている。すなわち即効性の急性悪の事では無く、むしろ徐々に効いてくる慢性悪の事である。例えば、食料品においては何日経っても腐らない防腐剤が含まれているし、飲料水においては着色料が使われているし、医薬品では、副作用があるものばかりであるし、自動車の排気ガスも少しずつ地球環境を汚染させるし、マスコミュニケーションにおいては現体制の本当の事情を一般大衆には知らせず、毎日少しずつ現在の保守的体制をむしろ支持させるように仕向けている。すなわち、1日単位で計れば、毒性がほとんど表面化しないし、数値的にも問題無いレベルであるが、それを来る日も来る日も毎日摂取させる事によって、10年単位で計るとその僅かな毒性が積もり積もって癌や脳梗塞や心臓発作を引き起こす原因となっているのである。すなわち、我々は企業の利益の為にゆっくりとした自殺を強いられているのである。これはもし人類に全く健康な食料品や医薬品や製品を企業が本気になって開発したなら、その開発費用は莫大なものとなり、企業は利益は出ず、食べていけなくなるのである。要するに毒性を薄めるだけ薄めて、まるで無害な様に見せかけ、数十年経ってからその弊害が出る様にしているのである。それは自分達の製造した製品が原因で病気になる事を責任回避するための常套手段だからである。すぐに悪影響が出なければ、企業側に責任がある事は法律上認める事が出来ないからである。すなわち原因の所在を曖昧なものにして企業は生き延びているのである。よって、我々一般大衆が、本当に改革の声を挙げるべきなのは、すぐ効果の分かる即効性のある急性悪、すなわち窃盗やテロリストや殺人や麻薬や暴力などでは無く、日常の生活に当たり前の様に入り込んでいる、普段我々が意識しない巨悪という慢性悪なのである。すなわち、現在の支配体制、社会構造体制にこそメスを入れなければならないのであり、この今の既得権体制を崩壊させない限り、その体制の犠牲者である窃盗やテロリストや殺人や麻薬や暴力という小悪は無くならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

足元が崩れかかっているのに、遠くの景色に注意を向ける事は賢い事であろうか。むしろまず足元に注意して足元を踏み固めるべきでは無いだろうか。。よって、今の自分の現状を深く考慮して今の自分にとって何が最善を尽くすべきなのかを深く吟味しないで、(すなわち、足元を見ないで、)理想ばかりに(遠くの景色ばかりに)心を奪われていたのでは、まことに悲劇という他は無いのである。

2.悪魔サタンは言う。自分の良しとするところで自分を定めれば良い。そうすれば、あなたは70,80年、間違いなく一生を全う出来るであろうと。しかし、大天使ガブリエルは言った。人は永遠に生きられるように初めから造られている。むしろ人は、神エホバから一方的に出る真実であり、真理の言葉によって自分を定めなければならないと聖書に書いてあります。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

順番が違うとそれだけで悲劇的である。私達の意見や考えに聖書の内容も同じであったから、その聖書を信じるという心の動機付けは不真実なものであり、まず先に聖書を開いて、その内容を知ってからその意見に自分も同意するという事でなければならないのである。私達は決して聖書の真理を掲げるのでは無く、私達は常に聖書の真理を擁護しなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     悪の定義

悪とは何か。それは自分に理解出来ない事を理解出来る様になれるよう努力し続ける事を止める事である。すなわち、対話の中断、協議する事の放棄そのものである。この姿勢はこの多様性に満ちた世界にあって、すべての対象を自分にとって敵か味方かというたった2つの区分で分ける思慮に欠けた浅はかで大雑把な下等な考え方であり、それが結局のところ、争いを産み、人々は戦争を始め、殺しあうのである。この世の中は白か黒かで判断出来ないほどすべてが複雑に関連し合っており、敵か味方か、悪か善かなどと言う単純な要素で推し量る事が出来ないほど広大で深淵なのである。神が最初の人間アダムとエバに善悪の知識の木の実を食べないように命じたのは、この全世界の営みすべてを善か悪かで決める事は間違った事であるという事を人にはっきり示すものだったのである。であるから、人と人との人間関係において、相手の人間を自分にとって敵か味方かとか、自分にとって益になるか不利になるかという単純で無神経な価値基準で判断するのでは無く、もっと多様性に満ちた正確で緻密な考え方、すなわち相手の人間の事をもっと詳しく知ろうとする態度を培わなければならないのである。よって相手の人間の気持ちが自分には最初、理解出来なくても、そこで相手の事を理解しようとする努力を止めず、その人の事をもっと分かりたいという気持ちを捨てない事である。そうして行けば、いずれあなたは彼に対して、あの人は気難しいところもあるが、正直さでは私より上回っているという相手の良い面に気付かされ、頭ごなしにあの人は私の敵だ、などという考え方は何と不正確で早計で誤った判断だったのだろうと思い知らされるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

読者の皆さんこんにちは。いつも私のブログの記事を読んで下さって有難うございます。さあ、今日から人類の新しい1ページが始まります。そう、西暦2019年4月14日の今日、この世の中は新しい世代(ミレニアム)へとスタートするのです。これまで今日の(箴言)と題して始めていましたが、これからは今日の(格言)と入れ替わります。新しい世代に向けて読者のあなた方すべてに唯一真の神であるエホバからの豊かな祝福がありますように。アーメン。from(高田義裕:Yoshiyasu.Takada)  in Japan.

1. あなたは同じ人から是認を受ける為に、ある特定の人物から自分を良く見られたい故に、彼が見えるところだけで精一杯頑張っている自分をアピールしていないか。あなたは人が多くいる目立つところでだけ善行や親切を示して注目を集めようとしていないか。それは全くの偽善なのである。人目につくところだけ頑張って、人目の届かない、誰もいないところで手を抜いているとしたら、あなたは少しも神エホバを恐れていない事になる。神はあなたの本当の素性すなわち、本性を知っている。あなたは人目につくところで何の善行や親切を示さず、全く人目の届かない誰も知らない、誰も見ていないところで善行や親切を示すなら、ただお一人でひそかにすべてを見ておられる神エホバを恐れている事になるのである。すなわち、人に是認される者が救われる者なのでは無く、神に是認される者が初めて人からも是認され、救われる者なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは何があろうとも他の人の性格について良くは言っても、悪く言ってはいけない。もしあなたが誰かから、あなたの家の部屋に置いてあるあなたのお気に入りのぬいぐるみの事を悪く言われたなら、そんな事はあなたに全く関係の無い事だ、と言うに違い無いのである。それと同様に、人間一人一人の心もプライベートな部屋の中のそのまた奥にある部屋の様にプライベートなものなのである。そんな誰も知らない家の中の事を赤の他人がどうこう言う権利は無いし、ましてやそれが悪いなどと言う事は失礼千万な事なのである。人と人とは物理的な距離は近くても、精神的距離は物理的宇宙の果てよりも遠いのである。よって相手の性格がたとえ悪くても、あなたはそれを嫌う事は自由だが、それを悪く言って裁く事は決して出来ないと言う事である。