高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人にチャンスと逆境は、平等の量と数と質だけ来る。ただ、他の人より、より成功している様に見える人々は、その平等に来るチャンスを自分のアンテナを磨いて、それが来た時に、逃がさずしっかりと捉えたがゆえに、人よりも成功を増加させることが初めて出来たという事なのである。

2.この世界で、成功している者の理由は、その人の能力いかんではなく、ただ運が良かったという部分がほとんどすべてを占めること。

3.人には、それぞれ好きなものが違うので、また、人はそれぞれ、その人が元気になる要因も、様々に違うということなのである。

4.この世のあらゆる世襲財産は、自分が意図せぬ時に増えたり、減ったり、盗まれたりする可能性を常に秘めているものであり、それを不可能にすることは、私達には決してで来ないのである。それはなぜか。それは全く当たり前に考えて、それらすべては、その初めから、私達のものでは決してないからである。本来、本当に自分自身のものなら、それは自分の思い通りに出来て当然だし、それが勝手に、増えたり、減ったり、盗まれたりするはずなど決してないからである。

5.それが悪いことを知っていて、あえてそれを行うことが一番罪が重い。彼が、それが本当に悪いとは知らずに、それを行っていたとするなら、その悪行に対する哀れみと許しの余地もあったのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

進化論と神の創造説2

人間の誕生説で、進化論と神の創造説があることは以前にも述べた。私達はつい、どちらが正しいのか決着をつけたくなるものだが、ここでは、そのような姿勢はひとまず置いといて、お互いの論理の長所と短所を述べてみたいと思う。まず、進化論だが、その良い面は、適者適存もしくは、弱肉強食の世界を展開していることである。確かに私達の社会は、競争によって成り立っている。自分達の能力や技術は、互いに競い合わないとそれは進歩しない。なぜなら、人という動物は、その根っ子では、怠惰であるからだ。私達は働かなくても食べて行けるのなら、決して働かないからである。しかし、実際には、働かなければ食べて行けないから、仕方なく働いているのが本音ではないだろうか。それで、互いに競い合って、その勝者が多くの利益を得るというシステムにして行かないと、人は努力しようとしないのである。もし、競争のルールが働かなかったら、私達はいまだに石器時代のままであったろうし、現在の医学の進歩や、工業や商業の進歩は無く、現代のような便利な生活を送ることは出来なかったであろう。ここまでは進化論の考え方は、理に適っていると言える。しかし、この世の中は、弱肉強食の論理だけでは説明することの出来ない事柄も存在する。例えば、人々には、思いやりの精神があるし、時には、自分を犠牲にしてまで相手の人間を助けるという、競争論理からは、説明のしにくい利他的な親切心も人間は有しているからである。また、競争主義の成れの果ては、富裕層と貧困層の極端な二極化が進み、いずれは、強者が弱者を支えなければ、崩壊してしまう自己矛盾を抱えているからである。もう一つの短所は、進化論の最大の目的が種の存続にあることである。すなわち、自分の子孫を残すことが進化論では最大の正義であるから、それを人間に当てはめて見ると、男と女はできるだけ沢山の異性と性行為をして、自分の子供を作っても良いことになり、これは、堕胎の増加を助長し、淫行や姦淫を正当化できる道具となってしまうからである。次に、神による創造説の長所を見て行こう。人間が神によって創造されたなら、人間が生きるのに、正当な理由や生き甲斐も神が与えてくれるし、神に信仰を持つことによって、人はその心の内に、平安を見いだすことができる。しかし、その短所は、余りにも神の要求される生活の基準が高いため、万人向けではないことに尽きる。神の高い道徳基準を守ろうとしても、それに従わない者や、その基準から落ちこぼれる人も出てくるからである。そこで、神に従う者と神に従わない者という単純な区分が成され、それに拠り、この世界の多様性は無視され、昔の中世の暗黒時代のような、言論の自由の無い閉鎖的社会が作り出されてしまうからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

キリスト教神学叙説

最初の人間夫婦、アダムとエバが禁断の木の実を食べて、神に対して罪を犯したとき、神は、地を呪われた。それ以来、地球は本来の理想的な状態から掛け離れてしまった。よって現在我々が住んでいるこの地上には、罪(死)の秩序が支配しているのである。これは、あるものが必要な場合は、それが全く手に入らず、それが必要でない時には、それは余計なほど沢山あり、また、ある事柄がもっと遅く来て欲しい時には、それは速く来過ぎるし、逆に、緊急にそれが必要とされ、もっと速く来て欲しい時には、それは遅すぎるという全く非効率的で、要領の悪いシステムがまかり通っているのである。あなたも実際の人生経験で、実際には、どうでもよいことは上手く行って、本当に大事で肝心なことは上手くいかないことを実感しているのではないだろうか。また、人間の能力の傾向にしても、悪いことはたやすく行えるが、良いことは行いにくいのではないだろうか。例えば、お金や食糧が必要な発展途上国には、全くそれが行き渡らないし、それ以上お金も食糧も必要のない富裕層の所に更に富が集中して行っているのではないだろうか。また、人間や他の生き物の生態系に良い影響を生み出す発明や発見はなかなか生み出せないが、人は、悪知恵や、人を殺す殺人兵器の開発は驚くように進んでいるのである。また、税に関しても、きちんと税を払っている人には何の評価も与えられないが、税を払っていない人を暴き出すことには、人は、まるで、神のように、威力を発揮するのである。このように、私達は、非常に住みにくい、そして、生きにくい環境の中での生活を余儀なくされているのである。

2.神が、御自身を聖なる者として保っておられる条件や能力と、私達が自分達を貞潔で、健全な者として保つ、条件や能力とは全く同じものなのである。なぜなら、聖書には、それをはっきりと示す聖句があり、[あなた方は聖なる者でならなければならない。なぜなら、私は聖なる者だからである。]と書かれているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世には、近づけば近づくほど見えず、追いかければ追いかけるほど、離れる事柄もまた存在すること。それは性的快楽の追求であり、理想の異性を追い求め続けることである。それらは、すべて雲を掴むような虚無でしかないのである。

2.素晴らしいこと、立派なこと、偉大なこと、価値あることとは、それを成し遂げた側だけではなく、それを成し遂げてはいないが、それを正しく認めてくれたり、それを正しく理解してくれたり、それを評価してくれたり、それを必要としてくれている、受け取る側との両者が揃って、初めて、成立し、あくまでも、存在できるようになるからである。

3.ある物事に対して、反対することは、賛成することよりもはるかに難しい。なぜなら、その反対する事柄についてよく調査し、熟知し、何が反対の理由なのかを筋道立てて考え、相手に納得のいく仕方で、すべてのことを調べなければならないからである。よって、反対することは、並大抵のことではなく、一つの立派な仕事なのである。しかし、ここで、理っておかなければならないことは、すべての事柄をすべて調査し、知り得ているわけでもないのに、ただある一面だけを見て、勝手気ままに反対するというのは、それは決して反対とは呼ばず、それはただの中傷であり、最も次元の低い単なる不平としか、人々に認知されないのである。

4.男女とも、マスターベーションに耽っていたり、その状態で満足しているような段階では、結婚という大人の生活の段階は踏めないこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

1.人間にとって、大事な事は、その若いうちに、努力することを苦に思わないくらいに、それを身に付けることに尽きると言える。

2.何事も、中庸が大切であること。しかし、これにも三種類ある。多すぎず、かつ、少な過ぎず、でちょうど良い事柄もあれば、ありすぎた方がちょうど良い事柄もあるし、更に、無さ過ぎる方がちょうど良い事柄もまた存在すること。例えば、一つ目は、仕事の量や、食事の量などであり、二つ目は、互いに対する愛や親切であり、三つ目は、不満や、悩みなどである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何事も、物事を進めていく事や、行動を起こす為には、その手順や内容性もさることながら、それを行うための信条、すなわち、その動機や取り組み方の方向性というものの明確な規定こそが、常に必要不可欠であり、大事な事なのである。それがしっかりしていなくては、何の計り事も上手くいかないのである。なぜなら、それを成し遂げる途中で、必ず、難題や、大きな壁にぶつかるのであり、その時に、支えとなってくれるのが、それを行うための信念だからである。その信念さえしっかりしていれば、人は必ず、その難題や壁を乗り越えられるからである。また、その信念があるからこそ、計画も持続できる原動力が与えられるのであり、しいては、それが将来、他の人とは異なるオリジナリティを生み、その人独特の個性として、他の人に、認知され、注目されるようになるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あるキリスト教徒が、罪人達よ、悔い改めなさい、神の王国は近づいたからです。と言って伝道し始めた。すると、それを耳にしたある人が、そんな聖書の何千年も前の話など、今生きている私達には何の影響も与えないし、全く無関係な事だ、と豪語した。それに対して、そのキリスト教徒は、ある例えを用いてこう言った。ある大富豪の夫婦がいました。彼らには子供がいませんでした。それで、彼らは、ある道端に捨てられていた赤ん坊を引き取り、自分達の子供同然のように育てました。その子供は、愛情に満ち溢れて、すくすくと育ちました。そして、その子は成人して大人になりました。彼は自尊心が強く、周りに見られる孤児ややもめを哀れに思い、彼らを援助するボランティア団体に入りました。そして、自分が恵まれていない人達を助ける事に深い満足と誇りを抱いていました。ところが、あることがきっかけで、自分自身が親に捨てられた道端に取り残された子供であったことを知りました。彼はそれを知ると、目の前が真っ暗になり、彼の自尊心はずたずたに引き裂かれ、大声で泣きました。そして、心の拠り所を失った彼は、苦しんで、自殺を図りました。しかし、そのことに気付いた孤児が、すんでのところで彼を助けました。その時、二人は初めて、相手のことを自分自身のように感じ、二人は抱き合って泣きました。そうして彼は本当の愛とは何かを知りました。この例えを聞いたその人は、私も実は孤児なのだ、と言って悲嘆して去って行った。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昨日日本では、警官が不審者に拳銃を発泡するという事件があった。記事によると、見た目で明らかに不審人物と判断した警察官が職務質問したところ、いきなり、ナイフをかざして、襲いかかって来たため、やむなく発泡したということである。確かにこの推移は、致し方ないことである。しかし、私は、こういう事件を聞くたびに思うことは、それでは、職務質問しなかったら、どうなっていたかと言うことである。すなわち、職務質問しなければ、こんな結果には、ならなかったのでは、と思うのである。これはどういうことかと言うと、職務質問された側の人間が、自分のことを、不審者扱いして、職務質問したこと自体に腹を立て、その行為に及んだ可能性が高いからである。要するに、警官が職務質問したことによって、そういう状況になることを、彼が全く意図せずに、誘発したとも言えるからである。このように、この事件に限ったことではなく、すべての人間関係においても、自分の言動が、災いを招くということは、良くあるからである。よって人は、まず誰かに、どういう状況で、こうしたら、どうなるか、ということを、言動を起こす前に、推測するという想像力を働かせなければならないのである。すなわち、まず、よく吟味して自分の言動を行うようにすれば、トラブルを未然に防ぐことが出来、人間関係もスムーズに行くようになるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しさの哲学

料理を作るという事は、作るだけで後は、何もしないということを言うのでは決してなく、暗黙の内に、食べ終わった料理や皿を洗って片付ける、という行為も含めて、それで1セットで初めて、料理をすると言えるのである。それと同様に、正しいという事も、ただ単に、正しい事だけを知っていればそれで良いというものでは決してなく、また同時に、何が正しくない事であるかも知っていて初めて、それで1セットで、何が正しいのかを知っていることになるのである。しかし、私達は、往々にして、何が正しいのかという知識は持っていても、何が間違っていることかを知らない場合が多い。これは、序論と本論を飛び越えて、結論だけを知っているようなものである。すなわち、どうしてそれは正しいのかという理由を知らないのである。例えば、あなたが公園に居て、しばらく歩いていくと、目の前に、ここからは出入り禁止という看板が立てられていたとする。しかし、そこにはどうして立ち入り禁止なのかという理由が書かれていない。あなたは向こう側を見るが、何ら危険な様子も見られない。するとあなたは好奇心から、立ち入り禁止のゾーンの中に入ろうとするのではないだろうか。しかし、その瞬間、向こう側から、ライオンが近付いてくるのが見える。これでようやく出入り禁止の理由が理解できた。向こう側にはライオンの群れがいて、危険だから立ち入り禁止の看板が立てられていたのである。このように、正しさの理由を知らないで、それは行ってはならないとただ知っているだけでは、間違いを犯してしまうのである。例えば、あなたは盗んではならない、という事を知識で親から教えられていても、なぜ盗むことは悪いのかという理由を知らないために、人は、いずれ必ず、盗んでしまうのである。よって、人類は、何が悪い事か、という理由を知らないため、常に人にとって、何が正しいのかという渇望が生じて来るのである。要するに私達は無知なのだ。しかし、何ぴとたりとも、人は正しくなろうとして、正しくなることは出来ず、賢くなろうとして賢くなることは出来ず、すべてを知ろうとしてすべてを知ることは決して出来ないという事である。人間の本来の理想な状態とは、生まれた時から既に、何が正しく、何が賢くかを知っていて、更に、すべてを知っている事なのである。要するに、意図的に、かつ、欲求を満たすようにそれらの事を追い求める事自体が、既に、間違っているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

世界中の読者の皆さん、こんにちは。高田義裕です。読者の皆さんから本当に多くの感謝のコメントを頂いて有難うございます。正直、こんなに反響があるとは、思いもしませんでした。大変驚いております。皆さんからのメッセージに大変、励まされました。皆さんに読んで頂けると思うと、大変、励みになります。皆様のご意見にすべてにお答えすることは、出来ませんが、お一人お一人のこれからの人生がより良いものとなるよう、心から祈っております。それでは、今日も、箴言をご紹介します。皆さん、張り切っていきましょう。

進化論と神の創造説

人間とはどのようにして誕生したのか、これを人類は常に模索して来たし、現在もそれを模索し続けている。現代人の大半は、進化論を受け入れている。しかし、まだ、多くの国々では、聖書による、神の創造説を信じている。果たしてどちらが正しいのであろうか。ここで、進化論を否定せずに、進化論の究極形を考えよう。進化論とは、長い時間をかけて、生き物が現在の状態よりもはるかに優れた状態に進化していくことを言う。それでは、これから人類はずっと進歩し続けて、究極的にはどうなるのかと考えてみると、結局は、神みたいな存在になるというのが、事の結論であろう。要するに、進化論を突き詰めていっても、結局は神にたどり着くのである。また、人類の誕生は、私達よりも、はるかにレベルの高い宇宙人によって成された、という意見もある。それでは、ここでも同じく、宇宙人による人類の誕生説を否定するのではなく、その論理を突き詰めて考えて行こう。まず、人類より次元の高い宇宙人が人間を造ったとする。しかし、ここで、新たな問題が発生する。それは、人類を造った宇宙人はどうやって生まれたのかという疑問である。これもまた、さっきの延長線上で、その宇宙人は、彼らよりもまた、さらに優れた宇宙人によって生み出されたということである。ならば、さらに、次の宇宙人は彼らよりもまたはるかに優れた宇宙人によって、とこれが延々と続く。これを究極的にまで煮詰めると、結局は神の様な存在になるとしか言えなくなるのである。すなわち、進化論も、人類の宇宙人による誕生説も、なんら、神の創造説を否定し得るものでは決してなく、ただ単に、人間の神による創造説を先延ばしにした考えに過ぎないのである。これら二つの論理は、結局は神の創造説に帰着されてしまうのである。よって、一番有力なのは、神による人類の誕生説なのである。

1.誰もが、社会に出て、働いていけば分かるように、この世の優秀さとは、所詮、ずる賢さに過ぎないのである。