高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

神エホバを認める事によって、我々人間は初めて、我々が成し得る事で成し得ないものは無いという事もまた知るのである。

2.新約聖書のテモテへの第二の手紙3章16節にある、[聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益です。]とある様に、聖書を読めば、自分の心の傾向がいかなるものかが暴露され、すべての問題は自分自身の心と行動にある事が分かるのである。もし聖書を読んでも何も感じない者は、聖書が潔白である以上、その人の心は病んでいるという結論を出すしか無いのである。

3.人は自分の考えと他の人の考えとに同時に従えないのと同様に、人は自分の考えと神の考えとに同時に仕える事は出来ない。どちらか一方を捨て、他方を拾うか、どちらか1つを重んじ、もう一つを軽んじるかのどちらかしか無いのである。

4.神の言葉、聖書が存在する理由は、それによって人々を裁くための論拠とする為では決して無く、世が神の言葉、聖書を通して救われるためなのである。すなわち、聖書の聖句が各々の心の良心に推薦しているのである。むしろ、自分や他の人を裁こう、裁こうとしているのは、自分達の心の中にある優越意識であって、それは実は、悪魔サタンに類する事柄であり、各々自分の欲望により誘われて試練を受けるのである。

5.神エホバとは、厳しい裁き人では決して無く、神エホバとは、愛であり、心のへりくだった謙遜さがエホバ神なのである。

6.すべての基盤として、人がたとえ、どんなに素晴らしい事柄を知りえて、それを行っていたとしても、その気持ちに愛が無ければ何の意味も無く、また心がけが良くなければ何の意味も無く、また謙遜で無ければ何の意味も成さないのである。

7.はっきりと言っておく。およそこの世の中に他の生き物(人)からの犠牲を受けずに動いている存在など決して無いのである。

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