高田義裕の人生論

今日の箴言

誰も1つの入れ物に2つのものを入れる事は出来ない様に、私達は神エホバの事柄とその他の事柄を同時に入れる事は出来ないのである。よって、私達は神の盃と悪霊の盃とに同時にあずかる事は出来ないのであり、神と富とに同時に仕える事は出来ないのである。すべて、一方を捨て、他方を受け入れるかのどちらかなのである。

2.神エホバは、甘やかせる方では決して無いが、決して厳しい方では無いのである。神エホバは非常に寛容でその心は大きく、懐の深い、その心に幅を持たれる方であり、融通の利く方なのである。

3.私達人間にとって、何が大事であるかと言えば、それはハードであって、ソフトでは無い事、すなわち、どんな良い事を知り得たかというソフトでは無く、物事をどう良いふうに考えられるかという心掛け、すなわち、ハードの部分なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)    なぜ自分の側の信号ばかりが赤になるのか。

この世の中のありとあらゆるものは複雑に動き、複雑な関係性を持っている。例えば、人間関係は複雑だし、車の動きも複雑である。そこには全くランダムな関係しか無く、そこには何の規則性も無い様に見れる。しかし、この複雑性はあくまでも人工衛星から見る様な全体的視野から眺めて見ればの話である。ここで、人間関係なり、車の動き方なりを非常に局所的、部分的に見てみよう。すなわち、顕微鏡で物事を見る様にしてみるのである。そうすると、マクロの視点からは、何の規則性も見られかった複雑な関係が、ミクロレベルで見ると、途端に、すべてに規則性が現れて来るのである。人間ならどんなに複雑な関係でも、その人間を要素として捉えるなら、たったの7種類の要素で成り立っている事が分かる。すなわち、どんな人間も親であり、子供であり、孫であり、祖父母であり、兄弟であり、男であり、女であるという事のどれかに分けられるという事である。車の動きもそうである。車の動きをある1つの信号機の周り100メートルの範囲内に限定すると、車の動きはすべて先物順になっている。すなわち、先に来た車が先頭におり、後に来た車が後尾にいる。後に来た車が前の車を追い越して前方に行くという事は無い。そんな事をすれば、運転手はパニックになり、次々と交通事故を起こすだろう。すなわちそこには先に来たもの順という単純な規則性が見出されるのである。この様に全体的には複雑でも、それは部分的には規則性があるのである。ここで、あなたは日々車を運転して買い物に行ったり、会社に行ったり、ドライブに行ったりしている事であろう。そこには何ら規則性は無く、全くなランダムな時間帯で行っているに違い無い。なぜなら、人は行動する時、いちいち計測して動いている訳では無く、気分のままに行動しているからである。また、信号についても、全世界規模で眺めると、信号が赤になったり、青になったりする事に何の規則性も無く、ランダムな時間帯で赤になったり、青になったりしているはずである。しかし、先程と同じ様に信号の赤になったり青になったりする時間帯を全体的視野から離れて、非常に局所的、部分的に拡大して見ると、あなたがいつも通る道路の信号は、あなたが全くランダムに、偶然的にそこを通ったとしても、いつも自分の側の信号が赤になる事に気付かないであろうか。自分は別に意識的に時間を見計らって、その信号の交差点を通る訳では無いのに、なぜか、いつも赤信号に引っかかってしまうのである。ここでまた、先程で述べた規則性が現れてきているという事であり、この様な理由で自分の側の信号がいつも赤信号になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバから見れば、人はその年若い頃から、心の傾向が悪い方に傾いているが、人から同じ人を見れば、私達はお互いに悪い者同士というよりも、私達はお互いに弱い者同士なのである。よって、人が悪を行うのは、悪いからでは無く、その人の良心が弱いからである、と結論出来る。よって私達は悪人を憎むのでは無く、悪人を憐れむのである。

2.神エホバに従っていない者にも繁栄や幸福はあるが、それらは必然的、その人の労力によって得たもの、永遠的、永続的なものでは決して無く、それらはほぼ偶然に拠るのである。よって神エホバに従わない者は、たとえ今幸福で繁栄していても、それは長くは続かないのである。

3.理にかなっており、また、当然の事として、私達はまず聞かなければ理解を得る事が出来ないし、理解してからで無ければ、それに全く従う事も出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あらゆるすべての物は、それが存在するだけでエネルギーを消費し、エネルギーを奪うものであり、個体それぞれが1つのストレス、すなわち圧力的存在、もしくは消費的存在であると言えるのであり、およそ、この万物すべての存在において、他の犠牲を受けずにそれだけで自足しているものなど決して無いのである。よって、すべては利他的犠牲愛、すなわちアガペーによってその存在を許されているのである。その最たるものが、エホバ神という愛の存在であり、エホバ神は御自身1人ですべての存在を生かし、支えておられるのである。

2.人は皆、すべてのものを後にして、すべてのものを売り払って、すべてのものを諦めて、すべてのものを最後にして、すべて自分の誇りとしていた頼みのものを捨てて、すべての価値あるものをあえて放棄して、神エホバの真実であり、真理である全く信頼でき、全く確信出来る神の御言葉を競って買わなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

お金という制度がいかに効率が悪く、無駄なエネルギーを消費し、地球環境を破壊しているかお分かりだろうか。日々食料品や衣服や数々の日常製品を作っている企業は、毎年どのくらいの食料品や衣服や数々の日常製品が売れるかを計算して物を作るのであるが、毎年膨大な量の売れ残りが発生する。それでは企業はその売れ残りをどうするかと言うと、まだ十分食べられるし、着れるし、使える新品の食料品や衣服や数々の日常製品をすべて破棄しているのである。それらはすべて産業廃棄物として処理され、ほとんどリサイクルされずに、そのまま捨てられる。その捨てられる受け皿は、発展途上国などの貧しい国々へと丸投げされる。なぜなら、産業廃棄物をリサイクルするための費用は莫大なものとなり、そんなところに環境保全の為のコストをかけると企業の利益は赤字になってしまうからである。これでは当然の様に地球環境は破壊される。また、売れ残りの量の製品を作った分だけの貴重なエネルギーも無駄に浪費した事になる。無駄なエネルギーを使った分だけ、石油や石炭などの原料を燃焼させたわけだから、その分を燃焼させたために発生する二酸化炭素や有害な物質もそのまま地球環境に放出される。これによってますます地球環境は破壊され、無駄に消費され、疲弊していくのである。それなら、その売れ残りの食料品や衣服や数々の日常製品を貧しい人達に無料で与えれば良いではないか、と言う人もいるかもしれないが、もしそうしたら、ひどい思いをしてお金を払って食料品や衣服や数々の日常製品を購入した人達にとっては、裏で無料で貰える人々がいては全く不公平であり、わざわざ苦労してお金を払うのが馬鹿らしい事になってしまう。すなわち貨幣制度そのものの根幹が揺らいでしまうのである。人々は皆、富を追い求め、儲けたいという欲望の追求を辞める事は決して出来ないから、貨幣制度も辞める事が出来ない。すなわち愚かな貨幣制度を維持するために地球環境の自然や生態系が犠牲にされているのである。よって、お金というものは甚だ不義なものであり、あなた方はお金など決して愛してはいけない。所詮お金などただの紙切れに過ぎないのである。現在、地球環境は破壊されている事によって、世界規模で大災害などの異常気象が頻繁に起きている。これは人間社会の儲けたいという強欲と貪欲さに対する自然からのしっぺ返しであり、人間自身が生じさせた行為の報いを人間自身が刈り取っているのである。すなわち、自然災害の甚大な被害の原因は人間自身にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間を老化させる原因とは何か。それは人が人生を重ねるうちに、自分はこれだけの偉業を成してきたという自負心が人を老化させるのである。もし人が人生を重ねる中で、様々な知識や知恵や技術や才能を培ってきた事を少しも誇らないなら、人は永遠に老化する事は無いのである。すなわち、永遠に若いままでいられる。すなわち、永遠の命である。しかし、古今東西、自分の築き上げて来た努力や労力によって得た富と栄光と地位を誇らずにいた人間は1人もいないので、すべての人間は必ず衰え、老化し、いずれは死んで行くのである。

2.本当の謙遜さとは、相手の人間の立派な努力や才能を心から本当に認めて凄い、と言って褒めてあげられるかにかかっている。すなわち相手の事を素直に尊敬出来る人こそ謙遜な者なのである。相手の凄さを認める事の一番のアドバンテージは、それを言われた相手の人が本当に喜んでくれ、あなたの良き友達になってくれる事である。

3.人間にとって親友とはいつ作るべきか。それはまだ、経験不足である故に素直で純粋な心を持っている10代までに作るべきである。なぜなら30代40代を過ぎると、人はもう既にいろんな経験をして、人には言えない事情を必ず持っている。よっていい歳をして親友を作る事は出来ない。なぜならあなたがよほど相手の人間のために自分の命を投げ出してまでの親切を示さない限りは、相手の人はあなたに心を許してはくれないからである。あなたも自分の命を投げ出してまで親友を得たいとは思っていないだろう。楽して親しい人間関係を持とうとしてもそれは浅はかで虫のいい話なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

実際的な知恵として、相手の人間に自分の思い通りに動いてもらおうとする為には、あなたは相手に正しい事を助言するよりも、相手の人間のほんの小さな長所をも見逃さずに褒めてあげる方が人はあなたの言う事をよく聞いてくれるであろう。

2.本来万物すべては、死の淵へととうとうと流れ入っていくブラックホール並みの強い引力によって死へと突き進んでいるのであり、しかし、神エホバはその死へと引き込む力よりも遥かに強い引力によって流れを逆流させておられ、万物が死へと呑み込まれるのを引き止めておられるのである。またその死と抵抗する流れが止まってしまわない為に、無尽蔵に無限に流れを永遠に起こしている能動的で活力ある神なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

神エホバを認める事によって、我々人間は初めて、我々が成し得る事で成し得ないものは無いという事もまた知るのである。

2.新約聖書のテモテへの第二の手紙3章16節にある、[聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益です。]とある様に、聖書を読めば、自分の心の傾向がいかなるものかが暴露され、すべての問題は自分自身の心と行動にある事が分かるのである。もし聖書を読んでも何も感じない者は、聖書が潔白である以上、その人の心は病んでいるという結論を出すしか無いのである。

3.人は自分の考えと他の人の考えとに同時に従えないのと同様に、人は自分の考えと神の考えとに同時に仕える事は出来ない。どちらか一方を捨て、他方を拾うか、どちらか1つを重んじ、もう一つを軽んじるかのどちらかしか無いのである。

4.神の言葉、聖書が存在する理由は、それによって人々を裁くための論拠とする為では決して無く、世が神の言葉、聖書を通して救われるためなのである。すなわち、聖書の聖句が各々の心の良心に推薦しているのである。むしろ、自分や他の人を裁こう、裁こうとしているのは、自分達の心の中にある優越意識であって、それは実は、悪魔サタンに類する事柄であり、各々自分の欲望により誘われて試練を受けるのである。

5.神エホバとは、厳しい裁き人では決して無く、神エホバとは、愛であり、心のへりくだった謙遜さがエホバ神なのである。

6.すべての基盤として、人がたとえ、どんなに素晴らしい事柄を知りえて、それを行っていたとしても、その気持ちに愛が無ければ何の意味も無く、また心がけが良くなければ何の意味も無く、また謙遜で無ければ何の意味も成さないのである。

7.はっきりと言っておく。およそこの世の中に他の生き物(人)からの犠牲を受けずに動いている存在など決して無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

イソップ物語の北風と太陽の話の結末でも分かる様に、結局は、人の心を動かすものは強要される正しさでは決して無く、純粋な愛しか無いのである。

2.独創性とは、何も無いところから有を生じさせる様なものなのでは決して無く、すべて既にあるものの中から、それまでは何の関連性も無いと思われていたもの同士を結び付ける事によって生じるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真の自己肯定感とは、自己否定を肯定出来る事である。また、真の自己否定とは、自己肯定を否定出来る事である。よって、自己を否定出来る者は自己を肯定出来る事に等しい。すなわち、自己否定を出来ない者が自己肯定を出来ない者なのである。この世の中には、せっかく神から与えられた命を楽しめないで、持て余している者がいっぱいいる。そう、せっかくの自分の人生を謳歌出来ないのである。そういう人は大体、自分の事が好きでは無い。自分に自信を持てないから、自尊心がすり減っているのである。そういう人は自分を否定的に見ていると思いがちだが、実際には逆である。本当に自分を否定出来る者はまた同時に自分を肯定出来る者なのである。生きる事が辛くて自殺願望がある者は、自己否定出来ない者なのである。しかし、自己否定出来る者は自分に自信があり、自信の命を楽しんでおり、自分の人生を謳歌している。こう言った意味においては、大半の人は自分の人生を謳歌していないのである。なぜなら自分の事を否定出来る者が何処かにいるだろうか。何処にもいない。しかし、あえて自分の事を否定出来る者は自分を客観的に見るだけの心に余裕がある者なのであり、他の人から自分の事を否定されれば否定されるほど高笑いが出来る者なのである。逆に自分の事を否定出来ない者は、あえて自分の事を客観的に見る事が出来無くて、心に余裕が無く、自分を主観的にしか見れない人なのである。そういう人ほど他の人から自分の事を否定されれば否定されるほど落ち込んでしまう人なのである。