高田義裕の人生論

今日の格言

自分にとって避けたいと思える事が、実は自分にとって一番大切である事が多い。

2.自分にとって好ましいと思える事が、実は自分にとって一番有害である事が多い。

3.義人とは、その者が知りたいと思う事と、知らなければならない事が一致している人のことを言う。

4.自分の理解に頼ってはならない。自分の考えはいずれあなたを窮地に追い込む事になる。まさに自分が仕掛けた罠に自分が掛かってしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

論理学

加算法と消去法

我々は普段、物事を知るために加算法を使っている。例えば、黄色いという情報があり、それは酸っぱいという情報を加算し、さらにそれは果物の一種である、という情報を集積して、我々はそれを推測し、最終的にそれはレモンの事であるという判断を下すのである。しかし加算法は今の様に、比較的はっきりとした明確な断片的情報が必要不可欠である。しかし、現実では明確な断片的情報すらわからない事が多い。すなわち、知りたい対象物の情報が曖昧なのである。この時に威力を発揮するのが消去法である。例えば、メアリーとは何者かを知りたいのだが、メアリーに関する情報が曖昧で、これといった正確な解答が得られないでいる。メアリーは先週ドラッグストアに行っていた。そこは川の近くにあるドラッグストアだった。今日メアリーは研究所で魚の餌を調合していた。その研究所は、セントルイス研究所という名称だった。彼女はドラッグストアの近くの川で魚を採取した。しかし彼女はその魚に餌を与えようとしなかった。そしてこの間調合していた餌を川に蒔いた。果たして彼女は何者か、という問いである。その正解を次の5つの選択肢から1つ選べ。

1.彼女はドラッグストアの店員である。

2.彼女は魚を取る釣り人である。

3.彼女はセントルイス研究所の研究者である。

4.彼女は川の毒性を調べている。

5.彼女は魚の餌を作るメーカーの職員である。

さあ、どれが正解であろう。彼女は確かにドラッグストアに行ったが、ドラッグストアの店員かまではわからない。また、メアリーはセントルイス研究所にいたので、その研究所の研究者かもしれない。彼女は魚の餌を調合していたから、彼女は魚の餌を作るメーカーの職員かもしれない。しかし、彼女は魚を採取した時に魚に餌はやらなかった。しかし、彼女は川まで行って魚を採取している。どれも正解に近い感じがするが、しかしこれといって決定的な答えも見出せない。よって、我々は知りたい対象の情報が曖昧なので、当てはまらないものから、順に削除(消去)していくのである。彼女はドラッグストアに行ったが、セントルイス研究所にいたので、おそらくドラッグストアの店員ではない、と判断し、ドラッグストアの店員を削除する。彼女は魚を採取したが、魚の餌を調合していたと書かれてあるから、単なる釣り人ではない事は明らかであろう。これも削除する。彼女はセントルイス研究所にいたから、研究所の研究者かもしれないが、ただそれをはっきり示してくれるものはない。次に彼女は川に行って、自分が調合した餌を蒔いているので、川の毒性を調べているわけでは無さそうである。よってこれらの事を総合的に判断して行くと、魚の餌を作るメーカーの職員はたとえセントルイス研究所の研究者でなくてもその研究所を利用する事はできるから、セントルイス研究所の研究者ではない可能性は高い。よって、彼女は魚と関係性があり、また魚の餌を調合したり、川に蒔いたりしている事を考えると、一番正解に近いのは、選択肢の5の彼女は魚の餌を作るメーカーの職員である、という可能性が一番高い。よって、正解は5の彼女は魚の餌を作るメーカーの職員だという事になる。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神に従うか、従わないか。

神に従わないとは、率直に言うと、一時の快楽に身を委ねるという事である。また、神に従うとは、率直に言うと、一時の快楽に身を委ねないという事である。我々の人生は短い。であるから、どうしても、長期的利益を考えず、短期的利益を優先しやすい。すなわち、今すぐ貰える100万円を取るか、10年後に貰える1000億円を取るかのどちらかに迫られるのである。当然我々は明日どうなるかわからない身だから、今すぐ貰える100万円を選んでしまう。なぜなら、10年間無事に過ごせるかわからないからである。よって神に従っていく人は非常に稀であるという事が分かる。まさに聖書にこう書かれている。新約聖書、マタイによる福音書7章13と14節、イエスキリストがユダヤの民衆に語られた言葉。[狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく、それを通って入って行く人は多いからです。一方、命に至る門は狭く、その道は狭められており、それを見いだす人は少ないのです。]この命に至る道とは、永遠の命の事である。永遠の命とは聖霊による心の奥底から湧き上がる素晴らしい心地良さの事である。本来、生きるとは、恍惚とした、ものすごい歓びなのである。我々は今、それを経験する事は非常に難しい。それを得るには相当の信仰が必要だ。私はそれを夢によって、体験する事が出来た。これはもう、言葉では言い表せないほど、非常に満ち足りた気持ちになれる。はっきり言って、聖霊による歓びに勝る歓びはないと言っていい。それに比べたら、この世の中が提供するどんな歓びもそれに勝らないほどである。ドラッグをやってのセックスのオーガズムや、億万長者や有名人になった時の優越感や、社会に役に立つ発見や発明をして、ノーベル賞をもらう歓びもどれにもそれに匹敵しないのである。ぜひ、一時の虚しい快楽にではなく、本当に満ち足りた気持ちになれる安定した幸福感を味わって欲しい。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

どんな人間も自分を産んだ父と母がいる。もし、進化論が正しいとして、我々人間が偶然の所産で誕生したのだとしたら、それほど不名誉な事はないであろう。進化論の考えに従えば、我々は正当な父と母から生まれたのではなく、父と母でない人達の淫交によって生まれた、望まない子供であり、路地裏に捨てられた孤児である事を正当化する様なものだからである。よって、我々人間は正当な父親であるエホバ神によって、誕生したのだとしたら、それは、我々人間社会の常識において、全く正当で当たり前の事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

なぜ神は私達の祈りを聞かれない場合があるか。それは私達の祈りの内容が誤った認識に基づく場合にのみ限られる。例えば、貧しいのでお金が欲しいと祈っても、それは叶えてもらえない場合がある。なぜなら、あなたの貧しさの原因が浪費癖にあるとしたら、たとえ神が祈りを聞いて、あなたにお金を与えても、あなたはまたそのお金を浪費に使うという事を神は既に見通しておられるからである。それでは解決にならない。すなわち、お金を与える事で、その人の貧しさが本当に解決されるのであれば、神はあなたの祈りを必ず聞いてくださるのである。すなわち、神はあなたの祈りの心の動機を調べておられるのである。その祈りが確かに正当なものであれば、神はあなたの祈りをすぐに聞いてくださる。しかし、逆に、その祈りの動機が何か利己的で、よこしまな傾向があるのであれば、神はその人の心を見られるので、あなたが悔い改めに至るよう、あえて祈りに応えない事により、あなたに戒めを与えておられるのである。よって、あなたの祈りを神が聞いてくださらないとしたら、あなたのその切なる願いが本当の意味であなたの解決にならないから聞いてくださらないのである。よって、祈る前に、自分の心を吟味し、どう祈れば良いかを神に祈りなさい。そうすれば、神はすぐにあなたのその祈りに対して、矯正を施して下さり、あなたがどう祈れば良いか教えてくださるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間1人1人に価値があるわけではない。人は互いに集まりあって、関連し合う事によって、初めて1人1人に価値が生まれるのである。なぜなら、この世の中とは途方もなく大きな機械のようなものである。その機械から1つの部品を取り出しても、その部品自体にはなんの意味もない。あくまでもその機械の中のあるべき位置に正しく取り込まれる事によって初めて機械全体は動き出し、その部品も意味を成すのである。そう、人間1人1人は、この世の中という途方もなく大きな機械の部品1つ1つなのである。よってあなたはこの世の中から1人外れて、孤独になっても、あなた自身の存在に意義は見出せない。むしろこの世の中ときちんと関わり合う事により、初めて、自分自身の存在の意義を見い出せる。そう、あなたは自分には居場所がない、と思って1人、世の中から外れて孤独を選んだのかもしれない。しかし、あなたはこの世の中という途方もなく大きな機械の部品の一部なのである。すなわち、あなたにはあなたにとってふさわしい居場所が必ずあるのである。あなたという部品が1つ欠けても、世の中という途方もなく大きな機械全体は動かないのである。よってこの世の中に、あなたは必要ないと言える人間は1人もおらず、すべての人間の1人1人は必要の故に、あくまでも生を受けたのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

生きるという事は厳しい。なぜなら、生きるという事は、自分というものを売り込むという事だからである。すなわち、生きるという事は、自分という不完全で品質のあまり良くない商品を売り込んで、相手に買わせるようなものだからである。それには相当の自己表現力、すなわち卓越した営業力が必要だ。なぜなら私たちは格段優れているわけではない普通の凡人だからである。大半の人はこの比喩的な意味での口のうまさを磨いていないため、安く買い叩かれる。そう、ほとんどの人は実際の自分の良さを相手にアピールする事が上手にできない故に、自分の良さを発揮できずに終わる。すなわち、本当の自分を他の人に知ってもらう事が出来ないのである。特別な才能のある人なら優遇されるが、我々凡人は、一人一人個性が違うのに、凡人という有難くない表現でひとくくりにされてしまう。そう、本当はもっと別の分野で活躍できる可能性を持っているのに、自己表現力が乏しい故に、我々は望まない境遇に身を置かざるを得ないのだ。それだけ人間とは人間に対して自分を知ってもらうという事は大変難しい事なのである。要するにこの世の中は、才能がなくても、自分を売り込む営業力があれば、成功してしまうものなのである。逆にどれだけ才能があっても、自分を売り込む営業力がなければ、人生の敗残者となってしまうのである。世の中はこのように理不尽なものであるから、我々はもっと自己表現力を身につけよう。要するに相手に自分の事をよく知ってもらうための練習をするのである。例えば、あなたが内気なら、無理をして外交的に振る舞うのではなく、相手の話をよく聞いてあげる、という内気という受動的な性質が良さとして発揮できるように努力したりする事なのである。そう、大半の人は自分の弱点を隠そうとばかりするのであるが、逆に自分の弱点を良いふうに発揮できるように、自分に素直になってみる事である。そう、自分の弱点を直そうとしてもそれは非現実な事だから、自分の弱点を逆に利用してやるのである。まず自分に対して素直で正直になる事が人生においてうまく立ち回るコツなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神の存在とは、証明されるべきものではなく、確信されるべきものである。なぜならば、神の存在が証明されたところで、人々はなんの影響も受けないからである。たとえ神の存在が証明されたとしても、人は神に信仰を抱かないからである。しかし、神の存在を確信する事はその人に影響を与える。その人は神に対して信仰を持つからである。神に対する確信は人を行動へと促し、神の御意志に調和した行動を取るよう、その人の心に直接影響を及ぼすからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

新型コロナウイルスが猛威をふるっている。最初は日本と韓国が一番感染者が多かったのに、今は、その猛威がヨーロッパに移動し始めた。なんという感染力の強さだろう。しかし、ここで考えたいのは、本当に怖いのはコロナウイルスではなく、人間だという事だ。コロナウイルスが人を動かしているように見えるが、実は人がコロナウイルスを動かしているのである。コロナウイルスでパニックになる人や、別に何にも思わない人もいるし、国のミスリードで、本来なら感染しなかった地域に拡大したり、本来なら感染するはずの地域が感染しなかったりするのだ。この騒ぎに乗じて、マスクや物資を法外の値段で売りつけて儲けようとしている者もいるし、善意により無償でマスクや物資を提供してくれる人もいる。そう、人間はみんなやる事がバラバラなのである。本来なら、全人類が一致して、協力し、コロナウイルスを撲滅する事に集中しなければならないのに、人類は自分の命がかかっているのに、対処の仕方が支離滅裂なのである。このバラバラの対応がコロナウイルスをさらに拡散させる原因となっているのである。なんと人間とは互いに一致できない生き物なのだろう。そう、世界をまとめられるような、カリスマ的なリーダーシップを取れる指導者がいないのだ。コロナウイルスを拡散させないようにすると、日常の売り買いや商売は滞る。なぜなら人々が集まり会えないからだ。そのため、生活が厳しくなり、借金や支払いができなくなる人が増え、コロナウイルスで死ななくても、経済的に打撃を受け、首をくくらなければならなくなる人も大勢出てくる。要するに、コロナウイルスを収束する事を優先すると、生活難に陥るし、生活を優先して、対策を何もしないと、コロナウイルスをさらに拡散させる事になってしまう。すなわち、コロナウイルスを収束させながら、経済も活性化させるという事が同時に行えないのである。これはある意味、核ミサイルより、恐ろしい世界である。すなわち八方ふさがりな状態になってしまうのである。暖かくなれば、コロナウイルスも収束するだろうと言われているが、熱帯雨林の熱い南アメリカの国々まで感染は広がっているから、それも怪しくなってきた。一旦、感染が収束して、人々が再度集まり出すと、また感染が広がる恐れもある。この見通しの立たない恐怖ほど恐ろしいものは無かろう。伝染病とはなんという混沌(カオス)を生み出すのだろう。私たちにとって、ほとんど未知の新しい体験であり、対処できなくて当たり前なのである。誰も伝染病など予想していなかったのだから。よって、もはや我々の手に負えない事柄は神に頼るしかない。まさに神に祈り求めて、この全世界のコロナウイルスのパンデミックをなんとか収束させて下さるよう請願を捧げるのである。唯一全能の神エホバよ。私たち人類は苦悩しております。どうか、すべての人々を見捨てないで、救い出してください。たくさんの尊い命が失われております。どうか、私たちの日頃の罪をお許しください。どうか、あなたのその全能の力により、コロナウイルスが収束しますように。そうして、また元の普通の生活を取り戻し、生活難にあえぐ私たちをどうか救い出してください。私たちの思い煩いをすべてあなた、エホバに委ねます。なぜなら、あなたはそれを顧みてくださる方だからです。このあなたに対する日々の感謝の気持ちと切なる願いを込めて、御子イエスキリストの尊い御名を通してあなた、エホバにお祈り申し上げます。アーメン。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々の世界はより高度ではあるが、決して幸せではない。

2.自分という存在を良い事の特別にも、悪い事の特別にも考えてはならない。

3.我々は富を得る事はたくさんの物を所有する事だと思っている。しかし、生きるとは、本来、何も所有しない事なのである。なぜなら、私たちが物を所有する時、それを所有し続ける限り、その所有物はどんどん古く時代遅れなものになっていく。すなわち、それはずっと変化せず、埃をかぶっていくのである。しかし生きるとは、常に流動的で、変化に絶えないものであり、常に新しいものを求めて、進歩する前進的なものである。よって、所有するということは、死ぬという事なのである。要するに、進歩を止めて、そこで止まってしまう事なのである。よってたくさんの物を所有しても、世の中はどんどん進歩していくから、自分の持っている物はどんどん古くなって、価値が下がっていくのである。そんなものがどうして富んでいると言えるのか。よって、人はたくさん物を所有すればするほど、損をするという事である。