高田義裕の人生論

今日の格言

進化論と神学

愛とは何か?それは聖書にはこう書かれてある。パウロによるコリント人への第一の手紙13章4節[愛は辛抱強く、また親切です。愛はねたまず、自慢せず、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、自分の利を求めず、刺激されても苛立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず、不義を歓ばないで真実なことと共に歓びます。すべてのことに耐え、すべてのことを信じ、すべてのことを希望し、すべてのことを忍耐します。]さて、これら愛の定義を要約するとどうなるであろうか。それは、進化論の価値観から言えば、全く不合理であり、ばかばかしく、自分にとって何の益にもならないどころか、すべて、自分を犠牲にする点で、損失することだらけである。誰もばからしくて愛など実践しようと思わないであろう。進化論的価値観は、いかに自分が有利な立場に立ち、損失を避け、いかに多くの利潤を得るかが、最も大切なことである。この点で言えば、人は自分を犠牲にしてまで他の人に親切にすることは、よほど見返りがなければ何もしないだろうし、また、する必要もないであろう。では、なぜ聖書は愛を実践せよ、と言うのであろうか?その根本的理由は、神が存在しておられ、その神は親切に私達を世話しておられ、他の人に親切にすれば、密かに見ておられる神があなたのその無私の親切に対して、必ず良い報いを与えて下さると、信じているからに他ならない。であるから、一見、何の見返りも無いように思える愛でも、神からの報いという利潤があるからこそ、愛を実践できるのであり、それ以外の理由は無いし、かつ、あるべきではないのである。すなわち、進化論も神学も、自らの益のために行うという点では、全く大差ないのである。すなわち、神を信じていない者が愛を実践しないのは正しいことだし、自分は神を信じていると言いながら、愛を実践しない者は神を信じていない者より、悪人なのである。

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