高田義裕の人生論

今日の格言

二元論

できる事をしたからといって、何をした事になろうか。できない事をできるようにする事に意義があるのである。よって、すべての事をすべてで表現しても何をした事になろうか。よって、すべての事をたった2つで表す事に意義があるのである。すなわち、たった2つですべてを表すものを形成させる要素を二元要素と言う。よって、あらゆるものはすべて、二元要素に帰着される。よって、すべての事を二元要素に帰着させる事を二元論と言う。よって、もし、10個あるものが、AとBとCの3個で説明されたとしても、それは正しく説明されたとは言えないという考え方であり、常にあるものが必ず、2つに帰着されなければならないのである。この場合の2を真理定数と言う。

高田義裕の人生論

今日の格言

新確率論

コインの表の表は裏であり、コインの裏の裏は表であるように、偶然の偶然は必然であり、必然の必然は偶然である。よって、偶然の偶然の偶然は、偶然であり、必然の必然の必然は、必然である。よって、必然(偶然の偶然)が偶然起こったとき、それは偶然である。また、偶然(必然の必然)が必然起こったとき、それは必然である。すなわち、逆に言えば、偶然と偶然が必然的に起こった場合を偶然と言い、必然と必然が偶然的に起こった場合を必然と言うのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

本来、すべてのあらゆる問題は心の変化だけですべて解決出来ること。すなわち、向こう側(問題側)が変わるのを期待するのではなく、自分の方から心を変化させる事により、向こう側(問題側)に対する印象を別の視点に変えるという事である。例えば、突然のトラブルにより、自分の全財産を失ったとしても、その失った欠落感に浸って苦しみ続けるのでは無く、自分の心の視点を変えて、すべて失ったのだから、これを契機にまた新しい人生の出発点に立ったのだ、と前向きに考えるのである。また、交通事故で子供を失った場合、その子供を失った喪失感に浸って苦しみ続けるのでは無く、自分の心の視点を変えて、あの子を失ったおかけで、私は一生、我が子の事を彼が生きている時以上に愛する事が出来る、心の若さを得られた、と思って前向きに考えるのである。人は愛する人が死んだ時、その人が生きている頃よりもその人を愛する事が出来るからである。そうして一生その失った人を思い続ける事により、心は老化する事無く、心の若々しさを保つ事が出来るのである。すなわち、どんなに酷い目に遭っても、生きている限り、希望はあるのである。全財産を失ったからといって、あなたの人生まで失われたわけではない。あなたはそれでも生きていかなければならないのである。子供を失ったからといって、あなたの命まで失われたわけではない。あなたはそれでも生きていかなければならないのである。人は生きている間、希望がある。なぜなら、私達は本来、利己的であるからである。利己的であるとは、例えば、自分が悪い事をしても、自分を憎む事はしないという事である。それは自分が他の人の悪口を言っても、反省しないのと同じである。よってたとえ全財産を失おうとも、我が子を失おうとも、それは正しいあなたが正しく悲しんでいるのではなく、利己的なあなたが利己的に悲しんでいるに過ぎないからである。そう、あなたが悲しんでいるのは、全財産を失ったという、欲望が遂げられなくなったという利己的な意味で悲しんでいるのであり、我が子を失ったという、自分にとって今まで漠然と抱いていた利己的な人生経過がうまくいかなくなったという意味で悲しんでいるだけだからである。そう、我々は悲しむ時、誰から見ても同情出来る、正しくて客観的な理由で悲しんでいるわけではないからである。それは、多分に、誰から見ても同情出来ない、身勝手で、主観的な理由で悲しんでいるからである。よって人は悲しむ時、自分の悪いところ、すなわち利己的な意味で失いたくない心の甘さにダメージを受けた故に悲しんでいるのであって、もし、あなたが利他的で正しい事柄の故に悲しんでいるのであれば、あなたは喜んでいるはずだからである。例えば、あなたが不当に扱われ、差別を受けているとする。その意味では、あなたは誰から見ても同情出来る正しい立場にいるのである。そしてその不当で不公正である立場を失った場合、あなたはそれを悲しむのではなく、むしろ喜ぶのではないか。そう、私達が悲しむのは、自分の方に非があるくせに自分は正しいと思っている事を否定されたから悲しんでいるのである。そう、私達が喜ぶのは、自分の方に非がないのに自分は間違っていると思っている事を否定されたから喜んでいるのである。よって、人よ、辛くて悲しい目に遭った時は、自分の閉鎖的な利己的価値観に囚われて孤独に悲しむ事をやめよ。むしろ悲しい時ほど、その悲しさをまず周りの人達にその苦しみの内を吐露すること。そう、他の別の価値観を持った人たちと共に共有してもらうのである。すると、それまで自分がいかに自分にしか通用しない小さな世界に囚われていたか、という事に気付くであろう。そして他の人のからの慰めの言葉や、自分では思いもしなかった別の価値観や視点からのアドバイスを受ける事によって、いかに自分の悩みというものは小さく、そしてこの世の中はいかに自分より大きくて広いものなのだろうか、と悟る事が出来るし、自分の都合という自分の壁を取り壊す事が出来、そこには新たな自由で広い世界という希望が開かれるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

世の中、それだけで正しいとか、間違っているとか、汚れているというものなど一つも無い。すべてはバランスと配置の偏りの度合いによってそれが正しく作用したり、有害なものとして作用したりするのである。例えば、頭の中でエロスな事を想像する事自体が間違っているのではなく、すべてはバランスであって、もし、頭の中で考えている事の比重が、ほとんどエロスに関する事柄であったとするなら、それはエロスな事柄に偏りすぎているという点で初めてその人に害を及ぼすものとなるのである。その人はいずれ性犯罪を犯すという形となって現れる。また逆に、頭の中で清いことばかり考えて、考えることが清い事柄に偏りすぎているという点で、初めてその人に害を及ぼすものとなるのである。その人はいずれ精神に異常を来たすという形となって現れる。

高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバの律法全体は、すなわち、[あなたは心を込め、力を込め、あなたの活力を尽くして、あなたの神エホバを愛さなければならない]そして、[あなたは隣人を自分自身のように愛さなければならない]の、ただ2粒の主要な事柄で全体が発酵するのである。

2.人は片手間で仕事をする事は出来ないし、人は片手間で人と付き合う事も出来ないのである。

3.人は人と本気で交わらなければ、相手の心に決して印象を残すことは出来ない。

4.インスタントな人間には、インスタントな人間しか集まらないのである。また、真実な人間には、真実な人間しか集まらないのである。

5. 1人の非常に親しい人間は、1000人のうわべだけの知人に勝る。

高田義裕の人生論

今日の格言

時間論

あなたは刺繍をしているとする。そう、あなたは初めてセーターを編んでいる。最初はなかなかうまくいかず、一つ編み上げるのに一週間かかった。そして何回も何十回も何百回も何千回も編んでいくうち、あなたは腕を上げて、一つのセーターを編むのに2時間で仕上げられるようになった。そう、あなたは同じ作業を膨大にやる事で、その作業に次第に慣れ、最初より物凄く速く編めるようになったのである。それではあなたは最終的にどれだけの速さでその作業を終えられるようになるか。すなわち、どんなに頑張っても、1時間30分はどうしてもかかるという限界に達した。すなわち、セーター1つを編むのにかかる最速の時間は1時間30分であるというわけである。ではあなたにとってセーター1つを編む最速の時間は絶対的時間か。すなわち、1時間30分は一番速い絶対的時間か、という事である。それでは視点を変えて、逆を考えてみよう。セーター1つを編むのに、どんなにゆっくりやろうとも最も編むのに遅くかかる時間はどれだけか。これに絶対的時間はあるだろうか。それは無い。なぜならどれだけでもゆっくりやろうとも、いくらでも時間はかけれるからである。例えば、1ヶ月かけて完成させる事もできるし、一年かけて完成させる事もできる。これに絶対的時間は無い。いや、むしろ速いとか、遅いとかという概念自体が何を以って絶対的であると言えるのか。例えば、Aさんはあなたよりも1つのセーターを編むのに3時間かかる、というのであれば、Aさんはあなたよりも1時間遅いと言えるのである。逆にあなたはAさんよりも1時間速いと言えるのである。すなわち速いとか、遅いとかという概念は何かと何かを比べて初めて成立する概念なのであり、それは絶対的概念ではなく、あくまでも、相対的概念なのである。こう考えると、あなたが1つのセーターを編むのにかかる最速の時間である1時間30分は絶対的時間ではない事になる。そう、時間に絶対値はないのである。絶対値とは、例えば、遅いをマイナスとし、速いをプラスとすれば、-5と+5の絶対値は5という事になる。よって、もし、時間に絶対値があるとするなら、絶対値が存在する条件は、最も遅い時間と、最も速い時間の数字が一致しなければならない。そんな事は決してないから、結論として、あなたがこれからもずっとセーターを編み上げていくなら、これが一番速いという絶対的時間は無いわけだから、あなたはいずれは1秒間でも0.0001秒間でも1つのセーターを編む事が出来る。これは理屈(理論)で言えば、あなたの1つのセーターを編むのにかかる最速の時間に制限は無いという事である。そう、究極的には、あなたは一瞬でセーターを編む事も出来る事を示唆している。これを宇宙を旅する宇宙船に例えれば、宇宙船で宇宙の果てまで最初は1000億光年かかろうとも、宇宙の果てまで往復する事を何回も何十回も何百回も何千回も無限に繰り返すうち、宇宙船が宇宙の果てまで往復する事に次第に慣れて、究極的には一瞬で宇宙の果てまで往復する事が出来る事を意味するのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

カルト宗教と真の宗教との違い

我々人間の正しい認識とはどの様なものか。それは命以外に貴重なものはない、という事である。よって、命を犠牲にしてまで、追い求めるものはすべて悪である。例えば、昔のオウム真理教などは、他の一般市民の命を犠牲にしてまで、自分達の宗教信条を優先したのである。これは殺人以外の何物でもない。すなわち、自分達の信じる彼らの言う真理が、命以上に尊ばれる時、それはカルト教に変貌するのである。我々の理性による科学的見地は、命のために命を犠牲にする事は悪なのである。しかしである、人間という存在は、例えば、母親が自分の子供が災害に直面して死にそうになった時、母親は子供を避難させて、自分がその身代わりになろうとするのではないだろうか。これは何を示しているか。すなわち命のために命を犠牲にする存在が人間なのである。人間にとって命はすべてであるから、人はすべてのためにすべてを投げ出す覚悟を潜在意識として有しているのである。この我々の理性による、科学的見地からは説明出来ない特質を人間は持っているのである。よって、神がいて、その神のために自分の命を犠牲にする行為が宗教なのである。この犠牲心が偽りの神のために自分の命が注ぎ出される場合、これがカルト宗教なのである。しかし、もし本当の神がいて、その神のために人間が自分の命を犠牲にしてまで神を優先する場合、それは母親が自分の子供のために進んで自分の命を犠牲にする事と同じように気高い事なのである。よって本当の神のために自分の命を投げ出すなら、それが真の宗教なのであり、これは自分を犠牲にしてまで、他の人に尽くすという人間にとって一番正しい特質なのである。よって人は正しさを全う出来るならば、自分の命も惜しくないという気高さを有しているのである。これが人間が神のかたちに造られた事を証明するものである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間にとって、何事も命より優先すべきものはない。よって、もし、仕事をする時、それが命より仕事が優先される時、その仕事は悪である。また、遊ぶ時、それが命より遊びが優先される時、その遊びは悪である。また、楽しむ時、それが命より楽しみが優先される時、その楽しみは悪である。よって、何が正しくて何が悪いかを判断する基準は命より優先すべきものはない、という判断である。それでは、ものすごく貧しくて、明日食べるものもない故に自分の命を支えるため、自分の命を犠牲にしてでも働く場合はどうか。これは矛盾している。命を守るために命を犠牲にするからである。すなわち、命より命が優先される時、その命は悪であるか。これを命のジレンマと言う。これは空腹のあまり、自分の腕の肉を食う様なものである。しかし、ここで、自分で自分の体を全部食う事は出来ない。なぜなら、全部食う前に私達は自分の命を落とすだろう。よって命のために完全に命を犠牲にする事は出来ないので、結論として、命を命より優先する事は出来ない。よって命より優先すべきものはない、という論題の中に、命は入らない。しかし、実際、我々は貧しさ故に自分の身を削ってまで働いて自分を犠牲にしている。すなわち私達は常に、命のジレンマの狭間で揺らめいているのである。そう、生きるとはそれ自体、矛盾なのである。それで、命より命を優先しているという事は、我々は命以上の存在である事を示している。すなわち、命より優先すべきものはない、と仮定して思考を広げていくと、我々は命以上のものであると結論付けられてしまうのである。よって命は命によって支えられているのではなく、命は命以上の存在によって成り立っている事が分かる。よって我々のこの世界には、命より優先すべきものがあるという事である。すなわち、結論として、何が正しくて何が悪いかを判断する基準は、命より優先すべきものはないという判断によって、命より優先すべきものがあると判断する事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人としてのあり方

人は、自己達成を目指すのでは決してなく、人は、自己確立を目指すのである。なぜなら、自己達成は、人の外側にあるものであるのに対して、自己確立は人の内面にあるものであるからである。もし、あなたが誰かからプレゼントをもらった時、プレゼントの箱が非常に大きいものをもらったとする。そしてどんなものが入っているか楽しみにして開けてみると、なんと中身は何も入っていなかった。これを見てあなたはどう思うであろう。騙されたと思うに違いない。また、あなたは別の人からプレゼントをもらった時、非常に小さなプレゼントの箱をもらったとする。あなたはプレゼントの箱が小さいので、大したものは入っていないだろうと思って箱を開けてみた。するとそこには金でできた高級腕時計が入っていた。あなたは当然びっくりする。なぜならその腕時計は時価1000万円を下らないものだったからである。この様に自己達成は人から見える外面ばかりを磨き上げ、大きく見せるのであるが、その代わりに中身は何もない空っぽなのである。しかし、自己確立は人から見える外面は小さく、地味で粗末なものであるが、その代わり中身は貴重なものがたくさん詰まっているものなのである。すなわち外見が良く見える人ほど内面は空っぽなのである。また、本当に立派な人ほど見た目には地味なのである。よって人を外見の良さで判断してはいけない。人間にとって一番大事なのは、私達の目には見えない心の状態だからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

今、患難に遭っている者達よ、あなた方は喜び踊りなさい。なぜなら、あなた方の苦しい忍耐は心を精錬し、清く、そして純粋にし、なんという真剣さをあなた方の内に生み出した事でしょう。その真剣さが、神への信仰を生み、切なる期待を抱いて神からの救いを求める清い良心へと作り変えられていくのです。実際、人間が神に近づく事は良い事なのです。まさに聖書にこうあります。[あなた方は自分の思い煩いをすべて神に委ねなさい。そうすれば神は顧みてくださるからです。] 私自身、今も患難のうちにあります。しかし、私はそれを喜んでいます。なぜなら、患難が私の心を精錬し、清く、そして純粋にし、神に対する信仰を培わせてくれ、本当に神に依り頼む事の真剣さを私の心の中に植え付けてくれるからです。このようにして、神と自分との親密な関係がより強固なものにされたからです。しかし、今、幸福で満ち足りている者達は災いです。あなた方は身を震わせて嘆き悲しみなさい。なぜなら、あなた方の快楽はその心を傲慢にし、汚し、そして優柔不断にならせ、なんの真剣さをも生み出さないからです。そうです、あなた方は神を必要とせず、むしろ神への信仰を蝕み、その心は終始、汚れた堕落の底へと作り変えられていくからです。実際、人間が神に近づかない事は悪い事なのです。よって今、患難にある者達よ、この聖書の言葉に思いを留めなさい。新約聖書、ヨハネによる福音書16章33節、イエスキリストご自身が語られた言葉。[あなた方がわたしによって平安を得るために、わたしはこれらの事を言いました。世にあってあなた方には患難がありますが、勇気を出しなさい。わたしは世を征服したのです。]