高田義裕の人生論

今日の格言

もし、何かの理由で、ある事柄を行わねばならない必要に迫られても、それを災いとは考えずに、むしろそれを行う絶好の機会(チャンス)と捉えれば良いのではないだろうか。例えば、交通事故に遭って、頭を少し打ったため、脳神経外科で頭をMRIで検査しなければならなくなった時、それを災いと考えずに、このタイミングでいっぺん脳を検査してもらう良い機会ではないか、と良い方に物事を考えるのである。するとある人はその検査のおかげで脳梗塞になる一歩手前でそれを発見出来たという事もあるのである。人間は誰しも自分に予想外の出来事が降りかかる事があるが、人の幸不幸とはどうなるかはわからないものであり、災いを転じて福となす事もあるのである。どうせ人の幸不幸は自分がコントロール出来ないのならば、長いものには巻かれろの精神で、自分に起きる事柄を全肯定してみる、すなわち良い方に楽観的に考える方が得なのである。人間は悩むと心身共に病気になり易く、逆に悩まないで物事をプラス思考で考えた方が人間の心や身体は健康を保つのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     AI(人工知能)は世界を制するか。

昨今、人工知能の事が盛んに話題にされている。人工知能のせいで人間の仕事が奪われるとか、最終的には人工知能が人類を支配する様になるとか、いろいろ危惧されている。しかしここではっきり言っておこう。人工知能はその完璧さ故に人間社会をコントロールする事は絶対に出来ないと。人工知能とはとにかく効率を最優先にし、無駄を排除しようとする。すなわち、一番最適の答えを見つけようとする宿命を持っている。これこそが人工知能の良さでもあり、同時に限界でもある。なぜなら人間社会は必ずしも効率的で最適な活動をしているわけでは決して無いからである。そう、人間は無駄な事も大好きなのである。ある人は自分にはたくさんの服があるのに、それでも自分の気に入った服が見つかるとそれを買ってしまう。これは効率的には無駄なことでは無いだろうか。またある人は仕事で疲れているのに、休日になると、ゆっくり休む事もせずに、自分の好きな登山を楽しんでいたりする。このような非効率的で、一見矛盾した人間の活動を、効率がすべての人工知能には理解する事が出来ない。すなわち、無駄な事も必要である事を理解出来ないのである。よって人工知能は人間の諸活動すべてを理解する事が出来無い。すなわち、生命自体が1つの無駄な存在なのである。生き物はすべて毎日食べ物を食べなければならず、人間も毎日食べ物を食べる事によって食事を楽しんでいる。これは人工知能の常識からすれば、本当に無駄な行為であり、人工知能は人間が食べて楽しむという無駄を無くすために人間が食べなくても生きていけるような無機質な世界を作り出すであろう。そう、人工知能の目指す世界とは無機質で、効率が良すぎて、何かを楽しむという無駄を排除した何も無い椅子とテーブルだけの刑務所の牢獄の部屋のようなものを作り出すのである。しかし、人間は自分の部屋には花を飾ったり、樹木を置いたり、自分の好きな絵を壁にかけたりして無駄な事を楽しみ味わっているのでは無いだろうか。そうした部屋こそ味わい深いものであり、人の心を豊かにしてくれるのである。この意味において、人工知能はもはや万能なものとは言えないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

誰もがナンバーワンになる事を目指す。しかし、人生においては、決してナンバーワンになってはいけない。なぜなら、人生はマラソンに例えられるが、ゴールは死であり、人というマラソンランナーは死ぬまで走り続けねばならないのである。すなわち、人生とは短距離競争では無く、あくまでも長距離競争なのである。マラソンにおいて、最終的にはトップランナーよりセカンドランナーの方が勝利する場合が多い。なぜならトップランナーは一番前に目指すべきランナーがいないから、自分の力を過信する事が多い。すなわち、最後のラストスパートまで力を温存しておかなければならないのに、その力を途中で無駄に浪費してしまって、自分の走るペースを自ら崩してしまい、結局はセカンドランナーに終盤で追い抜かれるからである。それに対してセカンドランナーは常に自分の前に目指すべきトップランナーが見えているから、自分の力を過信する事が無い。彼はトップランナーに振り切られない様に注意深く自分の体力を保って、自分の力を温存しながら油断せず、ひたひたとトップランナーのすぐ後ろをついて行く。そしてラストスパートで一気に貯めておいた力を全力疾走し、最後にはトップランナーを抜かして自分がナンバーワンになる事が出来るのである。要は人生とは長距離競争なのであるから、最後まで油断せずに走り切った者だけが、人生の勝利者となれるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

あなたは人を助けるのなら、その人を完全に助けなさい。この完全にという意味とは、もしあなたが誰かを身体的、金銭的に助けた後に、助けた相手に対して恩義せがましくしたり、助けたのをいい事にその人を自分の言いなりにしたりして、相手に知らず知らずのうちに精神的圧迫感を与え続けるなら、助けられた側はあなたに負い目がある故に逆に苦しんであなたを恨むことにならないためである。そんな事になったなら、むしろ助けないほうが良かったのであり、もし人を助けても、まるで何もしなかった様に相手に振舞いなさい。そうすれば相手は本当にあなたに感謝し、あなたはその人を完全に助けた事になるのである。人よ、まず神エホバを見なさい。神は罪深い人類のために、愛する独り子イエスを贖いとして与え、助けてくれたのに少しも私達に対して恩義せがましく無く、何かを要求なさる神では決して無いからである。よって助けるなら、出し惜しみせず価なしに与えなさい。もし与えて誰かを拘束するなら、それは親切では無く、むしろ悪魔サタンのずる賢い、人の弱みに漬け込んだ搾取的行為だからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     日本の没落

同じ日本人として危惧しているのは、日本はもはや先進国などでは無く、後進国であるという事である。世界の国々の若者達は、皆、学ぶ精神が旺盛で生き生きとしているし、ひと旗上げてやろうとベンチャー精神に溢れている。しかし日本ではもはや、その様な気迫のある若者達は圧倒的に少数であり、日本からビルゲイツやスティーブジョブズの様な人材は生まれて来ない。日本人は皆、保守的で守りの姿勢に入り、何かリスクを抱えてでも新しい未知の領域に挑戦しようという元気もなければ、それを実行に移すだけの資金力も無い。あるのはただ人間が生きていくための最低限必要な必需品を扱うだけの企業が儲けているだけである。すなわち、トイレットペーパーや洗剤や食品、またリサイクル業などの生活必需品を製造、もしくは販売している企業が潤っているだけなのである。そこには何か別の新しいものを生み出す力は無い。ただ消費しているだけで、利潤を産む様な生産的なものを開発しているわけではないのである。日本の若者はただ与えられた仕事をこなすだけのレイバーであり、自発的に何かをしようという意識が欠落している。そう、もう社会に活気が無く、お金を持っているのは年寄り達ばかりで、若者は極貧に喘いでいる。まさに今の日本は、昔の鎖国をしていた江戸時代に急速に戻りつつある。昔の様な物理的な壁や障壁が何もあるわけではないのに、精神的に壁を作っているのである。日本人は圧倒的に英語力が無くて、海外に飛び出そうという発想は無い。まさに世界の基準からおいてけぼりにされてしまっているのである。このままいけば日本はいずれ最貧国の仲間入りをするであろう。のさばるのは、官僚や政治家や公務員ばかりとなり、これはもはや民主主義ではなく、昔のロシアの様な独裁的共産主義よりも酷いことになろう。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバが人に対して言われる、自分の考えに頼ってはならないという意味とは、人がたとえ自分の信じる道を一生懸命に謙虚な気持ちで真面目に行ったとしても、あなたが望んでいるほど成果がほとんど得られないということ、むしろ自分の信じる事柄から裏切られてしまうという意味なのである。よって私達人間は自分の方からあれこれせん越に詮索して考え込まずに、ただ単純にまず神エホバに依り頼み、神エホバが言われる事柄に注意を払い、その方の言われる事に従わなければ、自分のためにはならないという事なのである。よって人は常に自分の力に依り頼むのでは無く、常に真剣な気持ちで神エホバに祈り続け、すべての思い患いを神エホバに委ね、エホバ神に依り頼むなら、あなたの人生は何によってもつまづくこと無く、道は平らにされ、あなたは平安のうちに人生を歩むことが出来る様になるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     灯台下暗し

灯台は大海原に浮かぶ船に陸が近い事を告げ、船が今どこの場所に位置しているかを教えてくれる。灯台は船にとっては有り難い命づなである。あなた方も人生という大海原を航海する船の様なものである。私達が生きるためには灯台の様に自分の立ち位置を教えてくれる教師の様な存在も必要である。この世の中には灯台の様に周りを明るく照らし、進むべき道を指針してくれる指導者の様な者達もいるであろう。しかし、灯台は遠くまで光を届けてくれるけれども、灯台の足元は真っ暗なのである。これはまるで綺麗にセッティングされた舞台の様である。すなわち、観客席から見れば美しい背景や綺麗な衣装をした役者達が踊ったりして華やかであるけれども、いざ観客席からは見えない舞台裏を見れば、そこには照明器具や大道具や小道具が乱雑に散らかっており、そこでは様々なスタジオのスタッフが所狭しとせわしく動き回り、観客席から見えないところでは荒々しい怒鳴り声や役者同士の言い合いの喧嘩もある。そうだ、この世の中で光の様に輝いている様に見える人間達は、他の人から見れば、華々しくて立派に見えるが、他の人から見えない、すなわち舞台裏とも言うべき私生活では、ふしだらで放縦な勝手気ままな生き方をしているのである。彼らは表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける事に長けている厚かましい者達なのである。よって、あなた方はそれらの者達を生きるための指針としてはいけない。なぜなら彼らは偽善者であり、あなた方が彼らに抱く純粋な敬意の気持ちは必ず裏切られるからである。あなた方は決して人間の有名人や人気のあるスターに心奪われてはならない。ただあなた方は人間ではない、聖であり霊なる方である裏表のないエホバ神だけに心を専心しなければならない。この方こそ真の光であり、我々人間の人生を正しく導ける唯一の方だからである。人間はこの方にこそ依り頼め。神は決してあなたの期待を裏切る様な方では決して無いからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

あなたは他の人より自分が出遅れていると思うか。周りの友人や知り合いはみんな結婚して子供を産み、その子供達も成長して自立して行く。しかし、あなたはまだ1人であり、結婚もしておらず、日々の生活は何も変化していない。あなたは自分を他の人と比べて自分は劣っていると卑下しているか。それならあなたは安心するといい。あなたは多分、大人物であり、大器晩成型なのだ。これを例えで考えて見よう。あなた以外の人々はみんなネズミである。ネズミはネズミ算式に繁殖するし、生まれてからの成長も速い。すぐに大きくなって子供を産む。彼らは早熟であり、彼らの時間の進み方は速い。それに対し、あなたは巨大なゾウである。ゾウは生まれてから成長するまで長い時間がかかる。ましてや子象が成長して大人になり自立するためには、ネズミが成長して自立する時間の何十倍もの時間を要する。そして長い時間が経過し、同じ日に生まれたネズミは年老いて寿命が尽きようとしている。しかしゾウは立派に成長し、これから希望に満ちた人生の始まりとなる。そう、成長するのが遅くても、それがあなたが劣っているという理由にはならないのである。むしろあなたの友人や知り合いが年をとって老人になり、衰えて行く頃に、あなたは最盛期を迎えるのである。あなたは自分が出遅れた分の遅れを一気に取り戻し、ついには彼らより勝った者と成れるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

最近ようやく気付いた事は、どんな時でも、人とは必要に迫られなければ、それを決して行おうとはしないという真実である。よってある事柄を行う必要性が緊急には求められていない場合、たとえその人が、それは良い事柄だからそれを行おうと思っても、決してそれを行なう事が無いままに終わってしまうという事実なのである。よって、今の現代、神の裁きが間も無く来ようとしているのに、人々は神に対して罪を悔い改める必要に迫られているのにそれを自覚していないので、人は自分達がまさに滅びるその瞬間まで罪を悔い改めずに日々の生活にかまけているのである。

2.真理は決定する事が出来ない、もしくは1つにしぼれない、また言い切る事が出来ない、常に抽象的であると思っている者達に対して言える事は、真理とは常に断言されており、ただ1つであり、常に具体的であり、既に決定されているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人が掲げる一般性や普遍性は、たとえどんなに努力し吟味され、科学的推理の緻密さによって書かれ、構成されたとしても、当てずっぽうな事、確率の偶然性、誰にでもまた、どんな状況にでも当てはまる様な無難な平均値でしか無いのであり、それらは統計学という占いという範疇を出ないのである。真の普遍性とは、常に具体的であって、真の普遍性とは、曖昧模糊とした、どうとでもとれる様な抽象性では決して無いのである。

2.神エホバ以外から出る義を掲げる立派な人間達に決してついて行ってはならない。なぜなら彼らは立派な事柄を一方的に言いはしても、自らは指一本で支える事もしない、すなわち実行しようとはしないからである。