高田義裕の人生論

今日の箴言

どうも私は人付き合いに対して本気では無く、心そこにあらずで、別の事を考えいると思われ、適当にやり過ごそうと思っている為、人が付かないのでは無いか。それと、何事も本音を言わないで、何か腹に一物を持って、煮え切らない為、終始警戒して人との距離を置いている事もあり、他の人はそれをあまり好意を持って見ていないのでは無いか。要するに、二枚舌を使って腹の中ではせせら笑っている嫌な奴だと思われ、その様な態度が見て取れる為、相手は腹が立つのでは無いか。要するに、私は人間関係を持とうとしているのでは無く、あくまでも、人間関係を自分にとって、都合の良い単なる手段として捉えているのではあるまいか。また、あまりしゃべれない、しゃべりたく無くなったと言うよりは、しゃべるのが面倒くさくなっただけでは無いのか。やはり、人と話す時は、常にそれに集中力を付けて、真剣に話しを聞き、あくまでも、本音で話すべきなのである。

2.私の性格は、人間関係について、どちらかと言うと、プライドが高く、ちょっとした事で傷つく所があり、その様な傷つきを経験したく無い為に人前に出る事を躊躇して消極的になり、引っ込み思案になっている事である。また、人との付き合い方も、お互い差しさわりのないおおまかな理解の所で止めておきたい、すなわち、それ以上の深い仲を持とうとしない、もしくは、自分の深い所に立ち入って欲しく無いと言うナイーブな面があるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神と悪魔の対話

[神]   あなた方は姦淫(不倫)してはならない。

[悪魔]   人よ、おおいに姦淫(不倫)しなさい。確かに、Aさんの不倫の結果は失敗に終わった。しかし、あなたの不倫は成功するかもしれないではないか。何事もやってみなければ分からない。この世界に全く同じ条件の不倫など存在しない。いやむしろ、この世界の中で1つとして同じものは無い。神の言う様に、不倫という事柄を一般化して、不倫全体をひとくくりにして、不倫は悪いなどと一方的に判断するのは間違っている。不倫の相手や状況や背景は1人ずつ全く別なのであり、すべての不倫を否定する根拠は何処にも無い。すなわち、すべての不倫は悪いなどという主張は間違っているのである。不倫だけに言える事では無い。あらゆるすべてのものに共通する法則とか普遍的真理など、何処にも無いのである。よって、物事を知る為には、1つ1ついちいち、実際にやってみなければ何も分からないのである。何も試さずに、すべてのものをひとくくりにして、それを一般化し、何か共通の法則を見い出そうとしても、それは無駄なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私が最近気付いた事は、いかになまぬるい気持ち(甘やかし)がその人を修整出来ない死へと追いやってしまうかという事である。ぐずぐずして決心する事に尻込みして、結局行動を起こさず、その結果、欲求不満が溜まって犯罪を犯してしまったり、精神に異常をきたすよりは、その人にとって、その時は非常に辛くて、厳しい事かもしれないけれど、愛のムチとして、その人にその人の問題点をハッキリと指摘してやる、ショック療法が必要不可欠なのである。これは、結局は全体的に見て、本人にとって益となるのである。まさに、一次の損失は、すべてを拾うのである。

2.何事も、曖昧さは優しさとは違う。物事を曖昧にするのは、それは単なる無責任であり、甘やかしに過ぎない。病気を治す時は、肉体の時は、その病名と原因をハッキリと知って、初めて治療が始められる様に、精神の病もその人に辛いかもしれないが、その病名と原因をハッキリと自覚させる必要があるのである。そうして初めて、治すという一歩に踏み出せるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

万物の公理

第一. 神を神として扱う事。すなわち、神のものは神に返し、人のものは人に返すこと。

条件1. 神から直接に命令された事柄を、[どんな理由が有ろうとも]最後まで守り抜くこと。

条件2. 神の御意志を聞き、その御意志を[最後まで]従順に行い通すこと。

脚注1.  [どんな理由が有ろうとも]とは、最大限に定義すると、たとえ、どんなに神の命令に反するもっともらしい理由が有ろうとも、という意味である。

脚注2.  [最後まで]とは、神がここまでで良いと規定された期間のこと。よって、人にとっては死に至るまでの場合のこと。

よって、結論として、たとえ、廉直で、義に適っている行いをしていたとしても、それだけで神に従っているという主張の理由には、必ずしもなら無いという事である。すなわち、単に義に適っている事は、全く義に適っているとは言え無いが、神の言われる事柄は、全く義に適っているという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私が聖書を幾らか学ばせてもらって、初めて分かった自分の間違いは、自分は他の人よりも自分がより義に勝っていたい、というよこしまな差別意識を人に要求していたと言う事である。よって、常に、人の為に義があるのに、義の為に人があるというふうな本末転倒に陥っていたと言う事である。すなわち、より良い人生を送る為に義があるのに、いつの間にか義を行う事を目的にしてしまっていたと言う事である。これは、まるで、人が生活する為にお金を稼ぐのに、いつの間にかお金を稼ぐのが目的になってしまっている事と同じ事である。これでは、いずれ行き詰まるはずである。聖書を読んだ事によって、深く考えさせられ、この事を気付かせて下さった神に全く感謝したい。私はいつの間にか、本当の義から離れ、中身の無い、義のセレモニーに自己満足するという、全くの偽善に傾いていたのである。聖書に初めから書かれてある通り、人は義を追い求めるのでは無く、人は人と互いに愛し合う事を目標にして行かなければならないのである。そこには、互いの身分がどうのという差別意識は全くの招かざる客なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

他の人から自分に対してよく言われる事、また、自分に正に今必要な事、また自分に不足している事とは、自分はもっと他の人と交わって、良い意味でもっと互いに刺激し合う事であり、自分だけで満足している、狭い世界の殻を破って、自分の小さなプライドを脱ぎ捨て、より広い世界を獲得しなければならない事であり、もっと、自分をさらけ出し、素直になる事だと言う事である。人とは、傾向的に言って、出来れば、他の人に全く頼らないで、全部自分一人の力で解決したいという、ある意味で強がっている高慢な所があるのであり、その為に友達が居なくて孤独であるのである。そう言う人は、自分の感情をありのままに出す事を、恥ずかしい事だと思うタイプなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近、私達はAI、すなわち人工知能の事をよく話題にする様になった。特に議論されているのは、今まで人間の行って来た仕事が人工知能によって取って代わられるという危機感である。例えば、専門職の弁護士や税理士などといったインテリ型の職種が、人工知能でまかなえる様になるという意見である。しかし、私はその事に関して余り心配していない。なぜなら、人工知能は、ただ、事務的に仕事をこなし、何が一番効率がよいかという事を導き出す能力においては、人間はそれに遥かに及ばないが、効率性とか、最適化とかという理論ではない、より人間臭い、効率性とは程遠い分野においては、人工知能は人間には敵わないからである。例えば、思いやりの気持ちとか、同情心とか、情状酌量の余地などと言う数字では表せない観念の世界は、人工知能には理解出来ないからである。すなわち、仕事をする際、どうしても人間対人間の関係上、最終的には人間的な判断というものが必要不可欠になるからである。その様な泥臭い人間関係を潔癖で完璧な人工知能に分かる訳が無いのである。よって、近い将来、人工知能が仕事を肩代わりする様になっても、それは、複雑な計算上の処理だけに用いられて、本当の要の部分は、あくまでも、感情を持った人間が決定権を持つ事になるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

論理学(公理の定義)

私達にとって、論証を成立させる場合、まず最初に公理という私達の生活と直接に影響の無い、無害で、かつ、確実に私達の生活の延長線上にある証明を必要としない定義、すなわち、無定義要素が必要不可欠であり、それらには以上の2つの性質が必要不可欠であること。

公理の性質 1. 私達の生活している世界の現象範囲と比べて、遥かに規模が少な過ぎて、ほとんど微々たる影響しか与えないほど小さいものであること。

公理の性質 2. 私達の生活している世界の現象範囲と比べて、遥かに規模が大き過ぎて、直接に影響を及ぼさないほど大きいものであること。

公理とは何か。

公理とは、私達の生活の現象範囲にとって、影響力は無いが、無関係でも無いものである事を意味する。よって、くだいて言えば、[互いに影響力の無い関係]であること。すなわち、影響力と無関係とは、必ずしも同一のものでは無いのである。要するに、影響力を受ける関係と影響力を受けない関係の2種類あるという事である。

 

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

キリスト教神学序説

この世界を成り立たせているのは、何かの絶対的法則の様な、何か無機質なルールとかでは無く、すべてを成り立たせているのは、ただ、神の御意志だけであるという事である。すべて、規則では無く、気持ちによってすべてが形作られているという事である。よって、その気持ちが変化すれば、すべてのものも、皆、初めからやり直しになってしまうという事である。よって、神の御意志次第で、今あるこの世界のさまと全く別のものを神は新たに造る事がお出来になるのである。例えば、人類の人口が、増え過ぎるのならば、神はそれに応じて、地球を2つ造る事もお出来になるのである。

2.聖書の言う肉的であるとは、思いつくままに行動する、すなわち、欲求のままに身を任せること、いわゆる損得の価値観で行動する事を言うのである。しかし、それに対して、聖書の言う霊的であるとは、損得もしくは、善悪の価値観を一切超えた、まるで全く存在しないかの様な、自己主張というものの全く無い、もはや、生や死という区分を超えた計り知れない存在の事を言うのである。その様な意味で、霊であられる神は、肉的である私達人間にとって、見る事も感じる事も出来ない存在なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に謙遜な者は、本来、疲れるという事が無いこと。この様に疲れるという事は、肉体のごく当然の生理的欲求の様に思われがちであるけれども、実際には、あくまでも、心の有り様と深い関係があるという事である。よって、疲れるという定義は、その体の使用される頻度や数値の限界を超えた時に生じる生理的現象の事を言うのでは無く、まだ、幾らでも余力があるのに、自分という意識が、すなわち、心であるが、これだけやれば、もう自分としては十分であると勝手に決め込んでいる自分が居て、その自己満足的な誇りの精神が、私は疲れた、と判断しているに過ぎないのである。すなわち、自分で勝手に限界を決めてしまい、その限度を超えると、もう自分には限界だ、と思い込んでいる心理的状態が、肉体にこれ以上働くな、という命令を出しているのである。これが疲れる原因であり、疲れるとは、あくまでも、肉体的なものでは無く、精神的なものであるという事である。よって、謙遜な者は、どれだけ人の為に働いても、これで十分だ、という自己満足的な誇りの精神が無いので、どれだけでも働けてしまうのである。すなわち、疲れを感じ無いのである。よって人間の本質とは、元々疲れ無い様に出来ているという事である。

2.人間にとって、永続的な喜びこそが、最大の、かつ、唯一の喜びである。よって、一時的な喜びは、確かにあるが、それは決して続かない偽りの喜びなのである。例えば、永続的な喜びとは、相手の人間に親切にしてあげて得られるさわやかな気持ちであり、清い良心を保つ事によって得られる満足感の事であり、一時的な喜びとは、アルコールを飲んで、浮かれ騒ぎをする事であり、麻薬を使用して堕落した肉の欲望に耽る事であり、それに類する事柄なのである。