高田義裕の人生論

今日の箴言

何事も、最良の事柄こそ、その用い方次第で、最悪の事柄にもなり得るのであり、逆に、何事も、最悪の事柄こそ、その用い方次第で最良にもなり得るという事なのである。よって人間と言う理性を持ち、あらゆる物事を識別する特質を持った存在にとって、最悪を避けて、最良の事だけ行うというのは、むしろ、最も狭量で、人間本来の能力を活かしていないやり方であり、生き方であると言う事である。例えば、人間以外の生き物は、それぞれにとって、最悪を避け、最善の生き方しか知らないのであり、それは、そう言う意味においては、完璧な生き物なのである。しかし、そう言う事であれば、本能だけによって支配されている他の生き物、すなわち、鳥や魚や動物の様に人間もすれば良いと言う事になってしまうのである。しかし、人間は、自分達が、他の生き物より遥かに勝っていると言う自覚があるのでは無いか。この自覚は何処から来るのだろう。これは最初にも述べた様に、人間には選択権があり、その用い方次第で良くも悪くもなると言う事に価値があると言わざるを得ない。要するに、無駄な事も出来ると言う点で他の生き物より勝っているのである。もしそうだとするなら、人間は常に正しく生きるべきである、と言う倫理観は、最も愚かな価値観だと言える。人間は神の様に、清く正しく生きるべきである、と言う価値観自体が果たして正当なものであるかは、疑わしいと言う事になる。何故なら、無駄な事や間違った事も自由に行える能力を持っていると言う事が、他の生き物より勝っていると言う理由になっているからである。神を信じている私から言えば、これは根幹をゆるがす大問題である。何故なら、そんな無駄な事も行えるから他の生き物より優れている等と言う理由は、私には、そんなに優れたものには思えないからである。これについては、これからもよく考えて、思索して行こうと思う。読者の皆さんはどう思われるだろうか。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間とは、最低限、自分自身さえ生活が出来て、自分自身の世話さえ出来ていれば、他の人から文句を言われる事もないし、その筋合いもないのである。しかし、あなたが、利己的になって、自分さえ良ければ良いと考える様になって、自分の事ばかり気にかけて他の人の事は、知らんぷりをしていたらどうであろうか。実はそれでも、あなたは、他の人から文句を言われる筋合いはないのである。このように、自分が、どう生きようが、自分という存在において、権利は、自分にあるという事である。ただ、あなたは、自分の事ばかり考えずに、他の人の事も顧みるという選択肢を、権利として持っているのであって、それは強制的義務ではないのである。よって、あなたは、自分の適用範囲を自らの意志で広くし、それを他の人にまで広げることも自分次第なのである。ただあるとすれば、日々、他の人の所まで、親切にしている事を習慣にしている者は、いざ、自分が問題に陥ったり、災害に見舞われてしまった時、いつも親切にしてあげた他の人が今度は、あなたを救ってくれるのである。あなたは、あなたが思いがけもしない仕方で自分が救われるのを見るであろう。しかし、日頃、自分の事だけに追われている者が、いざ、問題に陥ったり、災害に見舞われてしまった時、助けてくれる者は誰もいないのである。何故なら、あなたは、日頃、他の人の為に、親切にしてこなかったからである。誰かが、あなたの事を助け様にも、あなた自身が、他の人に自分という存在を明らかにしてこなかった故に、誰もあなたの存在を知らないからである。よって、結論として、自分の事だけに集中している人は、それ自体は、罪では無いが、他の人のことを知らんぷりしている分、他の人もあなたの事を知らんぷりしているのである。しかし、自分の事だけ考えずに、他の人の事も気にかけている人は、他の人に自分という存在を知らせている分、他の人もあなたの存在を知ってくれているという事なのである。この違いはいざという緊急事態の時には、生死を分けるほどの差となるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が、世の中が厳しいもの、苦しいものに感じる心理的な背景には、世の中に対して、本来、人生は上手く行って当然という思い込みがある故に、その心の苦痛を倍増させているという事なのである。よって、世の中は、上手く行かなくて当然、上手く行く事事態が特別なのだ、と言う考え方に変えれば、たとえ、逆境に見舞われたとしても、必要以上に苦しく感じたりせずに済むのである。よって、世の中とは、大半の人にとって、劇的に上手く行く事も無ければ、極端に悪くなる事も無いものなのであり、世の中の現象とは、そんなに簡単に劇的に変動しないものであり、比較的安定しているという意味においては、むしろその事を喜んで感謝する事が出来るものである。そう、人間とは、基本的に保守的であり、変化を望まない傾向にあるのである。何故なら、物事が劇的に変化すれば、日頃の生活は安定しなくなって不安になるし、日々新しい事に対応して行かなければならないとしたら、頭も体も疲れてクタクタになってしまうからである。人間は基本的には、怠惰な生き物であり、日々を楽に過ごしたいのである。よって、世の中を変えようとしても、世の中は急には変われないのである。それは、猛スピードで走っている電車が、急ブレーキを掛けても急には止まれない事と同じなのであり、この世の中とは猛スピードで走っている電車の様なものだからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

理由を知ってからでしか行動しないようでは、それはもう出遅れであること。何故なら、あなたはもし、地震が起きて、津波が来てから初めて逃げなければならないと知っても、その時は既に遅いのである。しかし、いかんせん、人間という者は、理由が分からなければ、行動しない生き物であることも確かなのである。しかし、人生において、緊急事態は、常にやって来るのであり、緊急事態の時に考えていては遅いのである。考え無いで、瞬時に行動する事も必要なのである。例えば、地震が起きて、誰かが、ここから早く逃げろ、と言われて、それに素直に対応して瞬時に逃げれば、その逃げた後で、津波が来た事が、分かるし、理由などは、後で知れば良いものなのである。よって、大事な事は、日頃から、いつ緊急事態が起こっても、それに機敏に対応できる素直な心と、謙虚な気持ちを培っておかねばならないということである。日頃、緊急事態に備えていない鈍感な心と高慢さがいざという時に足かせとなって、自分自身を救う事を阻む原因となるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は、自分の業績を、人に語って自慢しても、全く相手にはそれは伝わらない。むしろ、自分が立派な業績を上げていても、それを語らず、自慢せず、黙しているなら、他の人の方からそれを聞いてきて、何も語らないあなたに感銘を受けて、この人は、何と偉大な人であろうと言うのである。この様に、語らぬ方が、よほど語る事になるという事であり、むしろ、真に言うという事は、全く自分から言わずに、相手から語らせる事にあるのである。よって逆説的ではあるが、何事も本当にそうであるという事は、そうではないという事を言うのである。すなわち、自分自身とは、自分自身の物ではなく、相手の所有物であり、真理とは、真理の物ではなく、真理は、自分の事を真理であるとは自覚しないのである。よって、我々は、永久に自分自身になる事は出来ないのであり、真理は、永久に真理になる事が出来ないという事である。すなわち、永久に得られないという飢餓状態が、永遠に生きるという事なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、たとえ、同様の事をするとしても、他の人より、自分がいつも余計に障害が生じ、困難になると感じているなら、それは素晴らしい事である。何故ならそれは、あなた自身が、他の人より大人物である事を証明するものだからである。これは例えれば、小さな木よりも、大きな巨木の方が、同じ強さの風を受けるとしても、その受ける圧力は、大きな巨木の方が大きい分、より強く受けるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

賢い人とは、人の愚かさが如何に愚かである事かを自覚している者の事を言うのであり、何も失敗せずに、無難に生きてきた、世の中で言う、エリートと言う賢い人達は、愚かとは何かという事を、身をもって経験してきていない為、真の意味で賢くない、いやむしろ愚か者なのである。しかし、自分で愚かな事をして、その愚かさに拠る悲惨な結果を、自ら身に受けて、本当に苦しみを味わった者こそが、愚かさが如何に愚かであるかを知っているのである。そういう者こそが真に賢いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとって、能力や力は誰にでもあるわけではないが、やる気は、誰でも出せるのではないか。よって、例え、能力や力があっても、やる気がなければ、その能力や力は開花しない。しかし、やる気があれば、どんな問題でも乗り越える事が出来る。そう、すべての人間には、やる気と言う、能力と力を持っているのである。やる気が無いのは、あくまでも、その本人にやる気と言う、能力や力が無いからではなく、やる気を出す意志がないだけである。人間には、誰にでも、目的意識さえあれば、やる気を出せるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

単に正しい事があくまでも、正しいとは、限らないこと。あくまでも、ある事柄が正しく作用した場合にこそ、初めてそれは正しい事なのである。例えば、あなたが、人を親切にする事は、正しい事だと認識しているとしよう。それで、早速それを実行しようと電車に乗った。電車の中は、非常に混んでいて、もう一つしか席は空いていなかった。あなたは、急いでそこに座ったのだが、次の駅から一人の老人が電車の中に入って来た。しかし、どの席も満員で、彼はどこにも座れなかった。しかし、老人はこれと言って困った顔をしていなかったのであるが、あなたは、ここぞとばかり、自分の席をその老人に譲ろうと席を立った。そして、その老人に席を譲る事を申し出ると、びっくりした事に、その老人はあなたに怒りを露わにして、こう言った。(若造よ。私をナメるな。私を年寄り扱いしよって。)と。そして足早にスタスタとその場を去って行った。あなたは、ここでショックを受ける。自分が親切に思ってしてあげた事が、逆にお節介になってしまったからである。あなたはここで、単に親切にしようと自分の方から勝手に決め付けて、親切にしようとしても、それは、正しくない事を悟った。何事も相手がして欲しい事を注意深く見極めてから、行動に移さねばならないことを。この様にして、老人が怒りを自分に露わにした事が、逆に、自分の過ちを正してくれた事によって、それは、あなたに対して正しく作用したと言えるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

良く知りもせず、調べもぜずに、ただ漠然と信じている先入観、すなわち、偏見こそが、偶像崇拝なのである。これは人の心の中に、深く根を張っており、ほとんどすべての人々の行いの動機付けを支配している。人種差別、学歴主義、女性蔑視などの態度は、今でも非常に多くの人々の心の中に巣食っている、先入観もしくは、偏見なのではありませんか。そう、この先入観もしくは、偏見と言う偶像崇拝は非常に厄介な敵であり、人間の社会に非常に大きな影響を現在でも与えているのである。しかし、これに対して、偶像崇拝とは反対の、正しい認識、良く調べ、良く観察し、漠然とではなく、はっきりと確信出来る真理とは、その人の人種、性別、学歴、出身地、境遇などに全く左右され無い、今現在のその人の状態、態度、努力を基準に判断しなければならないと言う尺度の事なのである。例えば、生まれた場所は、非常に貧しく、偏見や差別を受けているところの出身であっても、今現在は、彼女は、NGO、非政府組織のリーダーとして、世界の貧困と戦っている立派な人になっているのであれば、その今の彼女の状態を評価されるべきなのであり、また、過去において、犯罪組織の一員として、人殺しや窃盗を繰り返して来た者が、今では、改心して、真面目に働いて、家族の父親となっている人に対しては、その今の現在の状態を評価してあげなければならないのである。そう、人間とは、たとえ過去が悪かったとしても、今が良ければ、それは良いと判断されるべきなのであり、たとえ、過去に立派な業績を成し遂げていても、今は、落ちぶれているのなら、それは、高く評価はされ無いと言う事である。人間にとって、大事なのは、常に今であり、現在進行形なのである。すなわち、良くも悪くも過去をいつまで経ってもダラダラと引きずってはならないのである。