高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、人生とは、なるようにしかならない、という事が結局の答えであり、真理であること。また何事も、行った分だけしか得られないという事も、厳しくも、また当然であること。

2.すべて、譲るが勝ち、負けるが勝ち、自分の方から下りるが勝ち、であり、最後に勝ちたければ、そうすることである。

3.人は何でも、自分でやってみようとすると、一人では出来ないし、一人でやっても虚しい事に気付く。よって、人とは、その初めから、支え合うと書くのであり、人間にとって、互いに助け合い、協力し合うこと以外に何もないということなのである。それは、あくまでも、人間同士が互いに対等な立場であることを踏まえてのことである。

4.マインドコントロールはいけない事だと言うけれども、人間は誰でもすべて、意識する、意識しないに関わらず、何かに必ずマインドコントロールされているのである。これは、人間が生きていく限りにおいては、避けえない事柄であり、何かを行うに際して、何らかの支点、もしくは、基準が必要不可欠だからである。その基準が、他者からマインドコントロールされたものか、自分で自分にマインドコントロールをかけたものかの違いだけであって、もし、基準がなければ、人は何をして良いか分からなくなって、路頭に迷ってしまうからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、真剣に生きるという事は、何事も泣きたい時には真剣に泣き、笑いたい時は、真剣に笑い、怒る時には、真剣に怒るということを意味しているのである。よって何事も、ただ、いい加減に無責任に話すのではなく、いざという時には責任をちゃんと取れる範囲内で、よく考えて話さなければならないのである。また真剣に怒るというのは、いつもイライラして怒っていたり、相手に怒りをぶちまけるという意味では決して無く、常に、相手の身になって冷静な怒り、すなわち、制御された怒りでなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中の人々は、有名な人が、同時に、人間的にもレベルの高い立派な人物であると思いがちであるが、それは必ずしも一致しないこと。あくまでも、俗に言う、皆が、立派だと思う人々は、ただチャンスの時に、それを逃さず、その時の流れに乗れた運の良かった部類の人々であり、もしくは、ただ、目立つか目立たないかの違いだけを扱っているに過ぎないからである。人の真の価値は、その様な事からは推し測ることは難しいのであり、はっきり言って、たとえ有名で無くて無名であっても、人間的に価値があって、立派な人は、無数にいるのである。ただ、言えるのは、大半の人が、それを知らないし、知ろうともしていないという事だけなのである。

2.人間、最後にモノを言うのは体力があることと、精神力の強さだけであること。それがある人が、最後の最後には生き残れるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私は、日々失敗せずに、すべてを上手くやろうとして、ようやく、それが失敗することであることを見い出した。それは、人間は何事も、大事なものを失って初めて、その価値を知る事が出来、かつ、人間は何事も失敗して初めて物事を悟る事が出来るという事である。

2.人間にとって、一番多い時間は、自分一人でいる時である。また人間にとって、一番重要で価値のある事とは、人が見ていないところで、いかに努力し、いかに立派に行動しているかのみにかかっているのである。

3.人生を真剣に生きるという事は、互いに傷つくという事であるのだ。また、人生を新鮮に保つには、常に、適度に緊張感を持った人間関係を保つことによって初めて得られるのであり、異性との適度のスリル感を持った駆け引きも、人の心をリフレッシュさせ、人間を成長させてくれるものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生とは、生き抜けるかどうかは、全く自分次第で、どうなるかは決められていない、まさに、タイムリーで、激動している様なものであること。

2.劣等感は、必ずしも悪いこととは言えないこと。なぜなら、その劣等感を持っている故に、人は自分を成長させようという、一番力強い動機とシグナルとなってくれるからであり、劣等感の無い者は、何も成長しないからである。

3.何事においても、物事をするのに、手遅れは無いという事である。たとえ、周りの人達より明らかに出遅れていたとしても、その本人がそれを行う必要性に真に気が付いた時こそが、その本人にとっての絶好の、かつ、最良の時期であり、好機(チャンス)であるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何でも、一人でやらねばならないということは、自分は一人しかいないのに、それだけで、2、3人分の仕事を強いられるということを意味するのであり、これは人にとって本来、割に合わない理不尽で過酷な状況なのである。実際には、ある程度健康な人でも、その人が全くストレスを感じず、健康に生きて行く為には、数だけで言えば、100人のサポートが必要なのである。ましてや、心や体に障害を持った人に対しては、300人以上のサポートが必要とされるのである。それに対して、現実は、残酷以外の何ものでもないのである。要するに、私達がよく耳にする、(自分の身は自分で守るしかない)という教訓は、この世の中で生き残るための事実ではあっても、決して真理でも無ければ、美徳でも決してないということである。しかし、人は、この様に、自ら、避けえない逆境、もしくは、理不尽さに対して、その苦しみから精神的に少しでも楽になるために、それらのことを肯定化、もしくは、神聖化してしまう傾向にあるのである。これは死を美化し、肯定する哲学的思考にも見られるものである。そして更に、その残酷さに追い打ちを駆けるのが、利己的精神であり、それは自分は、一人分で十分なのに、それで満足せず、一人で10人分でも100人分でも持っていることである。この様な事が可能なのは、もちろん最初に述べた貧困層にある人々の、一人で何人分もの仕事を強いられる、あらゆる奴隷労働、過重労働に支えられているからこそ、初めて可能なことなのである。要するに人より何倍も所有している者はその人に全く自覚は無くても、世界中のほとんどを占める奴隷労働に対して加担しているも同然なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が全く勘違いし易く、そうして、決して勘違いしてはならない最も重要なものの一つは、例えば、自分が他の人のしぐさなり、行動パターンを見て、彼は明らかにこうである、と解釈せざるを得無い様に見えても、他の人の事情は、全くそういうつもりではないということである。要するに、人は、自分の小さな価値基準を、すべてに通じる絶対的なものと無意識のうちに思い込んでおり、実際それをはるかに超える他の事実なり事情というものが全く見えていない盲目的状態であるということである。また、人は、自分以外の他の人がしている事に対して、傍観者になり、何か余裕がある偉い者であるかの様に楽に眺められるということなのである。しかし、もし、同じことを自分がしてみるならば、実際には、天と地との差ほどある全く別の事柄となり、いかにそれがそんなに甘くないものであるかということが分かるのである。要するに、頭でその事を何となく分かった様に思うことと、実際に自分でそれをやってみる事とは、全くの別物なのである。よって人は、何事も実際に行って見なければ何も分からない存在なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

過度に、他の人に批判的に陥るということは、自分の基準を絶対と考えており、それは、自らを良しとする、非常に自閉的で、他の人から自分を孤立させているのである。その最終的有様はどうなるかと言うと、その人が測り出しているその測りで他の人がその人を測り返し、自分が誇りとしていたその価値観で自らを損なうことになるのである。

2.結局、罪(sin)とは、広い意味でのマスターベーションであること。その最後は、自滅である。

3.不義な者にとって、むしろ、不義なことこそ、彼らを養う糧だったのである。よって、不義を否定することは、彼らにとって死を意味するということなのである。よって、聖書にある様に、この世界の終わりの日まで、不義を行う者はいよいよ不義を行う様に、と述べられているのである。しかし、それと同時に、義なる者はいよいよ義を行い、聖なる者はいよいよ聖なる者となりなさい、とも述べられているのである。

4.最初から何の罪も犯さず、義にかなっている者よりも、他の人の過ちを許す罪人の方がより勝っているのである。なぜなら、前者には、神に対する何の感謝も無いが、後者は、自分の罪深さを許してくださった神に対し、感謝の念で溢れている故に、他の人の罪深さも進んで許そうとするからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

[優れた洞察力]とは、次の定義である。他の誰とにでも、共に共有することの出来ない奇妙で珍しい事柄を思い付くことではなく、他の誰とでも、共に共有することの出来る事柄に関して、幅広い視野と注意力を持っていて、それらに気づくことである。

2.あなたに対する評価は、あなたの所有ではない。それは、他の人の所有である。よって、あなたの良いところは、自分の口で言うのではなく、他の人の口から出るようにせよ。

3.真理は存在するか、しないか、という命題は真理にふさわしくないのである。それよりも先に、真理には従わねばならない、という命題の方が先に存在するのである。例えば、真っ白な紙に絵が書かれていて、その絵が、真っ白な紙は存在するのか、しないのかと言うことと同じであるからである。要するに、自分が真理によって生み出されているのに、その真理の存在を疑っているという矛盾があるからである。すなわち、真理が存在するおかげで真理を否定することも初めて可能であるということである。

4.宗教での最も害悪となるものは、その宗教が、それを信じる者の心の内に、自分達だけの特権だという傲慢な強欲が芽生えることである。その間違った特権意識が、自分と他者を差別化し、独り善がりの独善に陥るのであり、自分は選ばれた特別な存在であると、優越感に浸り、それは段々と心を蝕んで行くのである。そうした精神状況から、一般人には到底考えられない殺人を正当化する欲望が生じて来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は、引き続き、自分達の理解力は働かせて行くけれども、自分達の理解力に頼るのを止めたのである。

2.真実さから来る実とは、次のものであり、真実さから出るものは皆、次のような様相を帯びてくるのである。それは、控え目であり、忍耐強く、冷静であって、激発的な怒りを発すること無く、温和であり、信仰があり、妬まず、協力的で、貞潔であり、他の人を愛する者であり、罵ったり、悪口や陰口を言わず、常に親切であることである。

3.偽りがすべて、見た目に、誰の目にも悪いものの様に映るとは限らないのであり、それは、悪魔サタンが、いつも自分を光の天使に見せかけている様に、偽りも、一見すると正しいものの様に映る場合もあるという事に注意しておかなければならない。要するに、それ自体、全く理にかなっていて、もっともな事柄であっても、それだけの理由でそれが真実であるとは、決して言えないということである。

4.はっきりと言っておく。人間の[狂気]の定義は次の事である。(人が神のようになろうとすること。)これが狂気の説明であり、具体的な本質である。よって、結論として、狂気=人が自分を神のようになろうと意識してそれを目指すこと、である。

5.はっきりと言っておく。私達は死人の復活に関して、死人が蘇るという奇蹟的な観点から述べているのではなく、あくまでも、失われたものを再び取り戻すという観点から論じているということである。