高田義裕の人生論

今日の箴言

心のこもっていない高価な贈り物よりも、安価であって取るに足りない物であっても心のこもったものの方が、人は非常に喜ぶこと。なぜなら、すべてを決めるのは、物ではなく、心だからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は身の程知らずになってはいけない。何事も、自分はいかなる者なのか、常に努力して見いだし、模索し、自分の立場はいかなる者なのか、今、自分はどのレベルにあり、どの方向で、どの位置にいるのかをわきまえ知るようにならなければならない。そうすれば、勘違い人間にならずに、他の人から悪く言われないようになる。人間関係の問題の根っ子は、互いに自分のことをよくわきまえていないことに拠るすれ違いから生じるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神の音信は、すべての人の心に、すべての人がその初めから持っている良心を呼び覚まし、そして鼓舞するものとなっているのではありませんか。

2.たとえ、誰であっても、人間を侮ってはならないこと。なぜなら、どんなに低く見えるような者でも、プライドは持っているし、また、どんなに何も考えていないように見える者でも、ちゃんと考えを持っているからである。なせなら、我々は皆、神に似た形で造られた人間として生まれているからである。

3.こと、神に関しては、この世界にある一切の考えや常識、良識や正論は、全く通用しないこと。なぜなら、それは神だからである。神はすべてのものを超越した存在だからである。

4.すべて、案ずるより、生むが易しである。

5.各々の人生の幸、不幸は、すべて各人の心のあり方、持ちよう、気持ち次第で決まること。決してその人の過去や境遇や生い立ち、そして、持ち物で決まるものではないこと。なぜなら、どんな過去を背負っていても、将来の取り組み方次第で、どうにでも変えられるからである。過去を引きずるな。常に前を向いて歩いてゆきなさい。

6.人間にとって、物事を見定めていく上で、どれだけ頑張っても、長くて10年が1単位であり、それに対し、神は最低でも、1000年で1単位であること。

7.余りにも美味で、贅沢な、栄養価の高いものばかりを食べていると、それだけ糞便も臭くなるし、顔には、シミができること。要するに、ろくなことはないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

単に、なんとなくそれを知り得ていて、頭では理解していることと、実際に本当にそれを分かっているということとは、全く別物であること。これは、言うだけで、行わなければ、結局、一つの実行にも及ばないことと同値である。

2.孤独は決して人にとって悪くて不必要なものではない。なぜなら、人は、誰でも、一人にならなければじっくりと考えられないし、一人にならなければじっくりと休めないし、一人にならなければ、本当に疲れた時、遠慮せずにストレスを発散させたりできないし、本当に悲しい時、遠慮せずに泣くこともできないからである。人間はただ一人でいる時間を持つことも必要なのであり、決して、群れていることだけがすべてではないのである。

3.今悪いということは、それ以前は良かったということである。また、今良いということは、それ以前は、悪かったということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本来、何も知らない愚かな者に対してのみ、初めて知識や知恵という形で呼ばれる賢さというものが必要とされ、有効とされるのである。よって逆に言えば、何でも知り得ていて、自分の必要なものをすべてわきまえているならば、知識や知恵と呼ばれる賢さなど、全く必要でなく、無駄なものなのである。よって、自分には知識や知恵があり、賢いと誇っている者は、自分が愚か者であることを声高らかに宣言し、自分の愚かさを誇っている者なのである。

2.人間は正しくなろうとしてはいけない。現実は、自分の弱さを捨てようと努力したり、また、自分の弱さを克服しようとしたりすることは、非現実でナンセンスなことなのである。そのような夢物語の理想論に騙されてはいけない。実際には、人はあくまでも、弱さを持っていることは当然のことであり、それこそ、本来の正しい状態なのである。よって、自分にとって、できればあって欲しくない自分の弱さを捨てようと努力するのではなく、自分なりに工夫をして、自分の弱さと対自し、上手に自分と共存させ、付き合って行くことこそ、真実であり、人の本来の真っ当な姿なのである。

3.誰か一方の満足の為に、他方が満足できないという、どちらか一方だけに偏って良い、という状態であっては決してならないということであり、むしろ、他方が喜べば、もう一方も喜び、他方が悲しめば、もう一方も悲しむというものでなければならないのである。よって人間は、他の人より勝る為に競争するのではなく、互いに相手の必要を顧みる点で競争すべきであるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

予期せぬ時に、予期せぬ勇敢さを示せる者が、初めて真の勇敢な者であること。

2.予期せぬ非常事態に陥った時、それに瞬時に対応できる賢さが、初めて真の賢さであること。

3.知恵を付ければ付けるほど、自分はいかに何も知らないのかということを思い知らされるのである。

4.何事においても、犯罪を犯す加害者は、気軽にそれを行うが、それを受ける側である被害者の心情は、天と地の差ほどのものであり、被害者のダメージは相当のものであり、まさに、とんでもないショックなものなのである。もし、加害者がそれを知っていたなら、うかうかと、たやすく人に危害など、加えられるはずは本来、普通、無いのである。これはすべて、人が他の人を自分自身のことの様に当てはめて考えずに、自分のことばかり考えて行動するという愛の無い、人に対する想像力の欠落した、利己的愛の精神によって引き起こされる悲劇なのである。

5.子供の頃は、何も考えずにでも、それでやってこれたが、いざ、大人に成って、まともに現実と自分が向き合い、等身大の自分に気づくとき、今まで楽に過ごせた分、現実は鬼の様に、気絶するくらい、厳しいものとなって、襲いかかってくるのである。私にとって、日々の暮らしは、苦しさの余り、まさに呆然とした感覚で、やっと生きている感じである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界は、善と悪というただ2つの要素だけで説明がつくほど、単純で簡単なものではないこと。すなわち、この世界には、善でもなければ、悪でもない事柄が無数に存在すること。

2.本音の言えないこの世の中とは、まとも(正常)な世の中なのだろうか。

3.会社の人間関係において、あなたにとって、苦手意識を感じる相手は、実はあなたに好意を抱いている。逆に、あなたが好意を感じている相手は、あなたのことを快く感じていない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

究極にまで、下にならなければ、どうして究極にまで上になれるであろうか。究極にまで怯えたり、怖い思いをしなければ、どうして究極にまで勇気があって強くなれるであろうか。究極にまで恥をかかなければ、どうして究極にまで立派な者になれるであろうか。究極にまで、悪くならなければ、どうして究極にまで、良くなれるであろうか。究極にまで、苦しまなければ、どうして究極にまで、幸福になれるであろうか。よって私達は、中途半端に下であり、中途半端に上であり、中途半端に勇気があり、中途半端に強く、中途半端に立派であり、中途半端に悪くて、中途半端に良く、中途半端に幸福で、中途半端に不幸であり、中途半端に苦しくて、中途半端に楽なのである。要するに、私達は凡人なのであり、本当の幸福とは何かを知らないのである。

2.何事も、苦しみが心地良さに変わるまで、その苦しみと戦っていきなさい。

3.敵のいない生き方など、どんな人生であろうか。はっきりとした敵のいない者には、また、はっきりとした味方もいないのである。人は、常に張りのある、適度の緊張感を持って生きて行くべきなのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、自分に不足している所、不完全さを、埋め合わせたり、捨てることに努力するのでは決してなく、あくまでも、それを、ただ、ありのままに受け入れる、もしくは、受けとめる勇気と素直さを培う努力をすべきなのである。よって、人の生き方とは、常に上を目指し、自分の欠点を取り除き、良い者になる、というやり方が人の生き方では決してないということである。むしろ、自分の欠点や不完全さを十分に認識し、それと共に共存してやっていける道を模索して行くことなのであり、自分の限界を知り、それに応じてやっていくことが、はるかに現実的で正しい方法なのである。例えば、ある病を抱えている患者が、自分の大金を叩いて、いろんな治療法を試しても、病は全く治らず、遂には、怪しげな治療法にまで手を出し、余計に持病が重くなるのと同様である。人は、そのような不確かで雲をつかむような、奇跡を期待するべきではなく、むしろ、持病と闘い続け、持病を治すという態度を捨て、上手に持病と共に付き合って行くことのほうが現実的で正しいことなのである。よって、すべての人が、いずれは良い基準にまで到達するべきであるという理想論的な考え方は間違っているのである。

2.人間はまず、父親(母親)であるより、夫(妻)であり、夫(妻)であるより、男(女)であり、男(女)であるより、一人の人でなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あれも無い、これも無い、と無いものを数えていくのでは無く、あれもある、これもある、とあるものを数えていきなさい。そして、今あるもので、満足しなさい。これこそ、幸福の秘訣である。

2.何事も最後まで、待つことが肝心である。ある二人が、喫茶店で待ち合わせをすることになった。二人とも、喫茶店に向かう途中、偶然、同じ道路で車の渋滞に会った。一人は、もう一人より前の方にいた。しかし、長い渋滞に痺れを切らして、前方にいた人が、その道を出て、別のルートから行くことにした。そして、10分後に待ち合わせの喫茶店に着いた。すると、驚いたことに、渋滞で自分より後ろにいた相手の方が先に到着していた。それで、どうして自分より早く着いたのか尋ねた。すると、彼は言った。私はずっと待っていたが、他の車達が皆痺れを切らしてどんどん渋滞を避けて、道路から外れて行った。すると、渋滞が緩和されて、すんなり進むことができたのだ、と。このように、最後まで辛抱することが、知恵の道である。このようにして、最初の者が最後になり、最後の者が最初になるからである。