高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神の神殿とは何か。

あなた方は、キリスト教及び、ユダヤ教、イスラム教において、唯一まことの神の神殿は文字通りのイスラエルという場所にあると考えている。しかし、確かに物理的な意味で、まことの神の神殿が地上にあった時代は既に終わっている。すなわち文字通りのイスラエルの地が神の聖なる場所であった事はイエスキリストの死によって、神によって破棄されたのである。今日における神の神殿はまさに私達人間の体によって表し示されているのである。まさに聖書にこう書かれている。新約聖書、パウロによるコリント人への第一の手紙3章16と17節、[あなた方は、自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。もし誰かが神の神殿を滅ぼすなら、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。]すなわちいくらイスラエルの地まで旅をして、熱烈に祈り、聖なる行事を行おうとも、自分自身の体を神聖に保たず、聖なる行状と正しい思いとをもって自分自身を清く保っていなければ、いくらイスラエルの聖地でお祈りをしても、それは無駄な事なのであり、自分の身を汚すなら、あなたは真の神の神殿である自分自身を滅ぼす事になるのである。もしそうするなら、神はその人を滅ぼされますと書いてあるからである。であるから、真の神の崇拝は、どうあってもあなた方自身の心と体を清く保つ事によって表し示さなければならないのである。すなわち、文字通りのイスラエルの地で祈る事はもはや重要ではないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

解決策は常に正しいが、正しい事が解決策であるとは限らない。例えば、イギリスがEUを離脱した理由は正しいかもしれない。しかし、それが解決策であるかはまた別の問題である。これを集合に例えれば、正しい事であり、かつ解決策でもある場合は解決策という全集合の中に正しいという要素が部分集合として入ってさえいればそれは正しくてかつ、解決策であるという事である。また正しいという全集合の中に解決策という要素が部分集合として入ってさえいれば、それもまた正しくてかつ、解決策であるという事である。しかし、正しくなくて、かつ解決策である場合は、互いに別の集合である。また、解決策でなく、かつ正しいという場合も互いに別の集合である。これは確率的に言えば、正しくて、かつ解決策であるという確率は全体を100としたら、50%である。それに対し、正しいが、解決策でない、もしくは解決策だが、正しくない確率は25%である。なぜなら、どちらかがどちらかの部分集合である場合は、二種類あるから、25%+25%=50%なのである。しかし、互いに別の集合である場合は1種類しかないから、25%なのである。よって、正しくてかつ解決策である場合の方が確率が高いのであり、もし、イギリスがEUを離脱した理由が、正しくないものであればあるほど、それがまた解決策である場合の確率もまた高くなるという事である。なぜなら、全部の種類を分布図にしてみると、[正しくて解決策である]場合と、[解決策でかつ正しい]場合と、[正しくて解決策でない]場合と、[正しくなくて、かつ解決策である]の4種類があるからである。これを見ると、正しい事より、解決策である事の方が数が多い。よって正しければ正しいほど、それは解決策でない確率は高くなるのである。よって逆に正しくなければ正しくないほど、それは解決策である確率は高くなるのである。よって結論として、正しくて解決策であることよりも、正しくなくて解決策である事の方が大きいのである。よって正しくない選択をすればするほど、それは解決策に近づいていくという事になる。よって正しいことは解決策より大きく、解決策は正しい事より小さいという事になる。これを[正しさの矛盾の法則]と言う。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

隣人を大切にする人は、実は自分自身を大切にしている人なのである。

2.隣人を軽視する人は、実は自分自身を軽視している人なのである。

神エホバに信仰を持っている人間は、人生に対する真のオプティミスト、すなわち、真の楽観主義者であり、根明(ねあか)人間なのであり、積極的行動を起こす、自立人間なのである。

[理解する]ことの系図

(できる)の5要素

(聞くこと)ができる。→(学ぶこと)ができる。→(習得すること)ができる。→自分が学んだ事柄を(教えること)ができる。→よって、そうして初めて(理解すること)ができる。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

闇を呪うより、まずロウソクに火を灯しなさい。

私達の世界はまさに闇の中にある。疫病により多くの人が死に、今も苦しんでいる。多くの地震が起き、多くの人が死んだ。どこかしこも経済問題は深刻で、過労死による自殺や不況ゆえに仕事がない人も多くいる。自然災害は多発し、多くの人が被害を受けた。職場や学校では人間関係が悪くなり、イジメやパワーハラスメントによって、人々は心の病を抱えている。離婚率は上昇し、自分の家庭の中でさえ、自分の居場所がない。この絶望的な状況を見て、人々は嘆き、憤っている。まさにこの世界を憎み、悲観し、呪っているのである。しかし、あなた方はこの闇の世界を呪う前に自分自身が希望の光を灯すのである。まずこの闇の世界を他の人のせいにするのではなく、自分から変えていくのである。それは小さなロウソクの明かりに過ぎないかもしれない。しかし、停電の時はロウソクの火一つで食事をとる事もできる。人々は闇の中に一つの明かりが灯った事に気付いてあなたの灯したロウソクの火に集まってくるであろう。そうして人々は集まり合い、共にロウソクの灯りをつける事によって、光の度合いは増し、遂にはこの闇の世界全体を照らすものとなるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

愛の定義 2

愛とはそれ自体、計画して行うものでは、決して無く、あくまでも、思いがけない状況に対して、とっさに判断して行う親切の事を言うのである。すなわち愛が形式化され、教理化され、形骸化されて行われる、イベント化、もしくは、行事化、として計画されている時点で、それは既に愛ではないのである。それは既に死んでしまった愛である。我々は常に生きた新鮮な愛を隣人に示す事によって、初めて神からその行為を是認されるのである。例えば、中国における、新型コロナウイルスが突然思いもかけず出現した時、1人の医師は瞬時に判断して、自分が国に逮捕される危険性をも顧みず、人民のために、すぐにウイルスが蔓延する危険性を告発し、インターネット上でその情報をいち早く報告した。これは計画された親切ではない。あくまでも、思いがけない状況に対して、隣人に対する愛から、とっさに判断して彼は行動し、まさに生きた真の親切(愛)を示したのである。彼は必ず神によって復活させられ、良い報いを得るのである。それに対し、毎年、恒例で行われる、計画されたチャリティイベントや慈善事業や社会福祉や救済のための募金などは、最初は良い動機でなされていたものが、それが継続して行われていくうち、徐々にマンネリズム化して、もはや当初の新鮮な愛は片隅に追いやられ、ただ外見だけを繕ったイベントや祭りや祭礼や行事として宗教化、もしくは形だけの形式化(教理化)となってしまうと、そこにはただ無機質で事務的な義務的価値観による、うわべだけの親切になってしまうのである。それはもはや親切とは呼べるものではなく、逆に人々の負担でしかなくなってしまう。よって我々は常に予期せぬ時に判断を迫られた場合、果たして自分を犠牲にして隣人に愛(親切)を示せるかを自問自答しよう。そのような愛(親切)こそ、神によって愛され、是認され、神によって良い報いを与えられる、あなた自身をいざという時に守ってくれる保護となるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

絶対のジレンマ

我々は絶対を絶対放棄する。よって絶対に放棄するのだから、我々は絶対を絶対放棄出来ない。すなわち、我々は絶対を少し放棄するか、我々は絶対を大部分放棄するかしか出来ない。すなわち我々は絶対をすべて放棄する事が出来ないのである。これを絶対のジレンマと言う。なぜなら絶対放棄するという事に絶対を使っているからである。よって絶対を絶対否定しようとしても否定する事に絶対を使っているから、絶対を否定する事が出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

新治療法の原理  [長いものには巻かれよ理論]

困難な事を困難にする。(困難が解決する。)

2.病気を病気にする。(病気が治る。)

3.不幸を不幸にする。(幸福になる。)

4.引きこもりを引きこもりにする。(外にでられるようになる。)

すなわち、ネガティヴな要素を同じくネガティヴにする事でポジティブ(正常)に変換するのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

燃え尽き症候群(バーニングシンドローム)  人はなぜ燃え尽きてしまうのか。

果物の種は初めはどれも茶色くて小さい。よって種の段階では何の種なのか分からない。人も幼い時、みんな幼児なので、誰が将来、何者になるのか分からない。幼い私達はよく親と一緒にアニメーションや映画を観て育ったものだ。映画やアニメーションを作ってお金儲けする大人達は、いかにすれば、多くの子供達が夢中になれるアニメーションや映画を作るべきか苦心する。そう、日常の普通の生活で普通の人を描いてもそれは何も面白くない。それで彼らは日常的には全くあり得ない状況を作り出す。すなわち、ファンタジーである。物凄く強い超人的な悪役を設定する。それに対抗できるのは、これまた現実には決して存在しない超人的なヒーローやヒロインである。それらの超人的な戦いを描いて観客を楽しませる。大人はそれを見ても、それはあくまでもフィクションの世界であり、現実的では無い事を承知しているから、冷静に見ていられる。しかし、これから何者になれるか分からない、将来が見えていない幼児にとってそれは現実的なものとして脳にインプットされる。すなわち、私もあのようなヒーローやヒロインになりたいと思うのである。人間にとって幼少期の体験はその人が大人になるために強烈なインパクトを与える。人は小さい頃からアニメーションや映画を見続けて、現実と虚構との区別を曖昧なまま、成長するのである。すなわち、自分は将来、映画スターのような人物もしくは重要人物にならなければならないと思い込むのである。テレビの宣伝でも美しいモデルが華やかに笑って手を振っている。私達はそれを見続ける事で知らず知らずのうちに私もあの美しいモデルのようになりたいと思い始めるのである。すなわち子供にとって、非現実なファンタジーはいつの間にか、自分の心の中でスタンダードな位置を占めるようになる。よってこの心が洗脳されていくと、ひどい場合は、自分は立派な人物に必ずなれる、もしくは、ならなければならないと無意識のうちに自分の価値観を自らが作っていくのである。例えばあなたがレモンであったなら、レモンであるあなたはスイカを見て、自分はスイカになりたいと思う。スイカは甘いし、大きいので魅力的に映る。しかし、どれだけスイカになろうと頑張っても、あなたはスイカになれない。なぜならあなたはレモンだからである。これと同様にファンタジーを見て育った人間は自分の理想像を描く。そして自分が好きなヒーローやヒロインのような仕事に就きたいと思うのである。しかしレモンはどれだけスイカが好きでも、スイカにはなれない。あなたも自分のしたい理想の職場をイメージして就職する。しかし、現実は全く違った。何もかもが自分が抱いていたイメージを壊すものであった。あなたはそれでも自分は何か重要な役割を果たす人間になれると信じて、必死に努力する。しかし、現実は頑張れば頑張るほど、理想とは遠ざかっていく。それで人は自分の精神の屋台骨であった理想と現実の乖離に甚だ落胆し、燃え尽きていくのである。すなわち私達のすべき事は、自分はまずスイカではなく、レモンである事を自覚する必要がある。すなわち、等身大の自分を見つめ、理想を排し、自分は何か重要な人物になれるという曖昧模糊とした漠然とした精神と戦いをせねばならない。すなわち現実に立ち返るという事である。そうすれば、自分はレモンなのだから、スイカのように甘くもないし、大きくもない事を発見する。すなわち、自分が好きな人物になれるという欲望を捨てるのである。そう、自分は何も重要な人物でも無く、単なる普通の人であれば、それでいいのだ、と自分に言い聞かせて、納得する必要がある。それで、レモンにはレモンの良さがある事に気付く。私を食べる人はスイカのような甘さは得られないけれど、この爽やかな酸っぱさを利用してパンチの効いたレモンソーダになれば良いのだと。スイカが好きな人もいるが、レモンを好きな人もいるのである。誰も彼もヒーローやヒロインのようになる必要は全くないのである。自分はおとなしい性格だから、銀行の事務員の方が自分らしさを発揮できるなどと、もっと現実的に視野を広げていく必要がある。すなわち、人が燃え尽きてしまう原因は、理想を高く持ち過ぎる事であり、自分の好きな事で食べていこうと安易に考える事なのである。好きな事が自分に向いているとは限らないのである。もし、なんなら、実際にあなたが好きで憧れている映画スターやアイドルに尋ねて見るがよい。あなたは自分がヒーローやヒロインになれると思ってなれたのですかと。彼らは必ずこう言うであろう。確かに私達は努力もしましたが、今の立場に立てたのは全くの偶然(幸運)です、と。そう、ヒーローやヒロインになる事は物凄く非現実的な事であり、それは宝くじに当たるよりまれな事なのである。私達は小さい頃からアニメーションや映画を見過ぎて、非常に特殊な事をスタンダードに見過ぎてしまっているのである。そう、私達は日々、お金を儲けようとする貪欲な大人達のいいカモになって洗脳されていたのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

過去は変えられる。

人生とは最終的には何をもって計られるのだろうか。すなわち人生をテストに例えれば、テストで何点取ればよいのだろうか。文字通りのテストは最高点によって、その勝敗は決まる。では人生とは最高点を取ればそれで勝敗は決まるのだろうか。実はそうではない。人生の勝敗を決めるのは、最高点ではなく、あくまでも平均点であるという事である。すなわち、年若い頃に非常に優秀で人生において最高点を取ったとしよう。しかし、その人はそれで満足してしまい、その後の人生は全く努力しなかった。すなわち、人生という長いスパンにおいて、一時期に100点満点を取っても、その後、何もしなければ、点数は減っていく。すなわち、10歳代は100点取っても、20歳代で50点取り、30歳代で20点取り、40歳代で10点になり、50歳代で0点になる。そして60歳代の高齢者になると、体と精神も遥かに衰え、点数は-10になった。そして70歳代には-50点になって、そうして彼は死んだ。それでは彼の人生とはどう評価されるか。先ほども述べたように人生とは平均点で決まるから、すべての年代の点数を足して、生きた分の年数で割ればよいのである。すなわち、100+50+20+10+(-10)+(-50)=120である。これを120÷70歳で割り、120÷70=約1.7点となる。すなわち、彼の人生の評価は1.7点であった。またもう1人の人がいて、彼は若い10歳代の頃に親の離婚が原因で、不良になり、10歳代の点数は-100点であった。しかし、周りの人たちの愛ある親切のお陰で、その人は自分を取り戻し、周りを見返してやろうと、努力し始めた。そして20歳代には点数は50点になり、30歳代には80点になり、彼はそのまま努力を続けて40歳代には100点に達した。しかし彼はそれに甘んじること無く、若い頃の失敗を取り戻そうと、強い負けん気とハングリー精神で生涯頑張り続けた。すなわち、彼は50歳代には150点を取り、60歳代には200点を取り、70歳代になっても若い頃から努力してきたお陰で、心身は衰えず、250点を取った。そして彼は最初の若い頃の10代の時しか100点を取らなかった人よりも長生きし、80歳代になって、270点を取り、なんと90歳まで生きて、最終的には300点を取った。それでは後者の人の人生とはどう評価されるか。先ほどにも述べたように人生とは平均点で決まるから、すべての年代の点数を足して、生きた分の年数で割ってやればよいのである。すなわち、(-100)+50+80+100+150+200+250+270+300=1300となった。これを1300÷90歳で割り、1300÷90=約14.0点となった。どうであろう。最初の人の人生の平均点は1.7であるのに対し、後者の人の人生の平均点は14点である。14÷1.7=約8.2点であり、最初から順調な人生だったエリート的な人から比べて、最初につまづいて、その後、反省して努力した、負け組同然だった人の方がその8倍もの差をつけたのである。これから得られる教訓は、例え、エリートでも油断すれば、最終的には人生は負け組になってしまうのであり、例え、最初は差をつけられていて負け組であっても、あきらめずに努力し続けるなら、最終的には人生は勝ち組になれるという事である。よって、最初から順調な者よ、決して油断せずにその努力をし続けよ。そうしないと最終的には負け組になってしまう。また、最初からつまづいた者よ、諦めること無く、努力をする事を止めてはいけない。そうすれば必ず最終的には勝ち組になれる。すなわち、過去が良くても悪くても、その後の人生の取り組み方次第で、過去は変えられるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

罪(sin)の意味するもの。

母国語しか話せない者は、自分の母国語の特徴が分からない。すなわち、他の言語を習得して、初めて、自分の母国語を客観的に見る事が出来る。同様に、自分の国から出た事が無い者は、自国の本当の良さや悪さなどの特徴が分からない。他の国に住んでみて、初めて自国の本当の良さや悪さが分かる。すなわち、何事も比べてみなければ、本当の良さや悪さが分からないのである。これと同じく、最初の人間、アダムとエバも神の支配する平和で楽しく、素晴らしい世界に住んでいたが、その神の支配する平和で楽しく、素晴らしい事を十分に理解していなかった。なぜなら自分達が生まれた時からそれは整えられていたので、それが当たり前だったからである。すなわち、神の支配する世界しか知らない、そう、それ以上素晴らしいものは無かったので、比べて比較するものがなかったのである。よって悪魔サタンが、神の支配する世界より、彼ら人間が支配する世界の方がより平和で楽しく、素晴らしいと言って、彼らを誘惑したのである。そこで最初の人間アダムとエバは、神の支配を捨てて、自分達の支配する世界を選んだのである。これにより初めて、神の支配する世界と自分達が支配する世界を比べる事が出来た。よって、人間は罪(sin)を犯して初めて、いかに神の支配する世界が素晴らしいものであったかようやく認識出来たのである。