高田義裕の人生論

今日の格言

物質をどんどん切り刻んで、小さくして行くと、最後には原子核と電子に辿り着く。それでは時間をどんどん切り刻んで、0.1秒、0.01秒、0.001秒、0.0001秒という風に小さくして行くとどうなるか。何と時間を小さく切り刻んで行くほど、その切り刻んだ分の時間が増えているのである。要するに時間は小さくする事は出来ないのである。よって時間は増え続けても減り続ける事は無いのである。それとは逆にエネルギーは時間が経てば経つほど減り続けるのである。よってエネルギーと時間は互いに反比例の関係にある。すなわちエネルギーが少なくなればなるほど時間は増加し、エネルギーが多くなればなるほど時間は減少するのである。また、時間が増えれば増えるほどエネルギーは減少し、時間が減少すればするほどエネルギーは増加するのである。よってエネルギーが0の時、時間は最大値を取り、エネルギーが無限大の時、時間は0となるのである。よって時間とはエネルギーを消費するものとして表される。これをエントロピーと言うが、エントロピーの増加は時間の増加に等しい。よって時間が無限大になった時、マイナスエネルギーも無限大となる。よって時間とはマイナスエネルギーの事である。例えば、自動車を運転している時はエンジンの駆動というエネルギーが必要であるが、ブレーキをかけて減速した時、それはマイナスエネルギーが増加した事だから、減速した分だけ時間を消費した事になる。するとブレーキをかけて時間が減少したという事は先程の定義に従えば、ブレーキを踏んだ事によってそれだけエネルギーが増加した事になる。するとマイナスエネルギーも増加し、エネルギーも増加した事になる。そうである。マイナスエネルギーとはエネルギーの事なのである。よってマイナスエネルギーとは時間の事でもあったから、エネルギーとは時間の事でもあるのである。何とこの様に議論を続けて行くと、矛盾が生じてしまうのである。すなわち時間とエネルギーは反比例の関係だったのに、それを元に議論を続けて行くと、最後には時間はエネルギーに等しくなってしまうのである。すなわち時間が増えるほどエネルギーも増え、時間が減少するほどエネルギーも減少するのであり、エネルギーが増加するほど時間も増加するのである。よって結論として、時間とエネルギーは反比例の関係にあると仮定すると、結局は、時間とエネルギーは比例の関係にある事が導き出される。よって時間とエネルギーは互いに等しい。

高田義裕の人生論

今日の格言

もしするか、しないか迷うのであれば、その場合はしない方が良い。

2.はっきりと言っておく。たとえ神のためにすべてのものを失ったとしても、むしろ、それを何1つ失わなかった者の方よりもましなのである。あなたは後に神からその幾倍もの報いを受けるのである。

3.聖書の薦めているエッセンスとは、人は自分の為に他の誰をも模範にしたり、頼ったりする対象は神以外には見出せないという事である。すなわち自分自身も、親も、友人も、高貴な者も、他のどんな者も、自分にとっての指針となってくれる様な存在では決して無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

人間の心ほど理屈では分からないものは無い。例えば量子力学では、電子は粒子の性質を持つが、波としての性質も合わせ持つ。これは人間の心で例えれば、私は自分の事が嫌いかと言えば好きだし、かと言って自分の事が好きかと言えば嫌いだ、と言っている事に等しいのである。そう、理屈や論理や理性では人間の心は理解出来ないのである。この互いに矛盾した感情を合わせ持っているのが人間の心であり、自分の心ですら本人自身ははっきりと説明出来ない不満や葛藤や悩みがあるのである。精神科医はそれを何とか理屈をつけて理解しようと努めるが、それは現代医学の誤りであり、限界なのである。この曖昧模糊としたはっきりしないやり場の無い気持ちは誰でも持っているはずである。人間はとにかく自分達の理解出来ないものは排除しようとする性格を持つが、私達の心自体が理解し難いものであり、それ故に人は自分の心を排除しようとする。そう、それは自殺という形となって現れる。人間は自分の理解出来ないものが不快で仕様がないのだ。そこで心の病を持っている人間が到達すべき救済の最後の手段は神への祈りである。神はすべての考えに勝っておられる方であり、あなたがまだ自分の気持ちを言い表せていないうちから神はその人の気持ちを既にご存知である。であるから、一切の考えに勝る神の平和に道を譲り、常に自分の誓願を神の前に注ぎ出し常に祈りをするようにすべきである。そう、もはや理性による科学万能の時代は終焉を迎えたのである。これからは理性を超えた神の存在を認める霊性が必要とされる時代である。私達人間は最終的には神に頼らない限り、生きてはいけない存在である事が暴露される時代となるであろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

正しい事をすべて知っているだけでは何の意味も成さず、正しい事のある部分だけを重んじていてもそれは何の意味も成さず、正しい事をただ羅列して並べてみても何の意味も成さないのである。ただ全体として、あらゆる正しさの諸要素がどう正しく組み合わされ(配列され)、バランスがとれていて、その結果、全体として正しいかどうかで初めてそれは有用なものとなるのである。よって我々人間の知恵とはあくまでも部分的なものに過ぎず、物事の全体を見通す事が出来ないのである。物事の全体を見通してこそ、初めて物事の本質が理解可能なのであり、その意味では私達人間には能力の限界がある事を謙虚に認めなければならない。それでは物事の本質である全体を見通す事の出来る者は誰か。それは神である。なぜならこの世界のすべてを造ったのは神御自身であるから。要するに神の造ったものを人間は完全には理解する事が出来ない。よって人間自身も神によって造られたものだから、人間自身すら人間の本質を知り尽くす事は永久に不可能なのである。よって人間には常にどんなに道を探求しても、到達出来ない未知の領域が残る。人間はそこに大いなる残余と神に対する畏怖の念を感じ取らなければならない。しかし神御自身にさえも神御自身のための、まだ未到達の目的を持たれてあるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

当たり前のようにあると考えられていて、実はほとんど見当たらないものの1つとして、相性の良い人間がある。みんな自分と相性の良い異性や相性の良い同性の友人を求めているが、そんな者は果たしているのか。答えは否である。相性の良い人間など1人もいない。あなたという人間は世界でただ1人であり、誰とも違う個性を持っている。例えれば、あなたは世界に1つしか無い指輪である。あなたという指輪のサイズにぴったりの人はあなたの指以外に無い。何故なら指のサイズは人それぞれによって全く異なるからだ。自分という指輪のサイズにぴったりの相手を探そうとしている時点で間違っているのである。それよりも人間にはもっと偉大な能力がある。それは相性が良いとか悪いとかに関係無く、一緒に長く付き合っているうちにだんだん相手の性格や特徴に慣れて、相手と自分との間に精神的アブソーバーが出来て、次第に仲良くなれるという事である。そう、人間は順応する能力があるのである。だから自分と相性の良い異性や友人を求める非現実的な、そうして相手に依存する母親に甘える様な子供心はもう捨てて、現実的で、相手に依存する精神を捨てた精神的に自立した大人になろう。精神的に成熟している人は相手を選ばない。すぐに自分の方から順応して相手に合わせてしまう。日本語で昔から弘法筆を選ばず、と言って、本当に技能に習熟した人は道具を選ば無くても良い仕事が出来るのである。同様に人間関係に習熟した人は相手を選ば無くても誰とでも仲良く出来るのである。よって人間関係とは、例えば友人関係においても恋愛関係においても自分とは全く考え方も発想も違う相手と交友を深めていく事が楽しみなのである。あなたの周りにイエスマンばかりいても退屈なだけでは無いか。それよりももっと自分とは違う価値観の人と会話し、意見を聞いたり、意見を述べたりする事によって人間は自分の世界の幅を広げる事が出来、成長するのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間の苦しみの根本原因は何か。

人間の苦しみの根本原因とは、欲望過多である事である。すなわちどんな人間も能力のある人間も能力の低い人間も共に皆、欲望だけは一人前に持っているという事である。例えば、欲望の実現能力が高い人は欲望のレベルも高いと思われがちだが、実際はそうでは無い。むしろ欲望の実現能力が低い人ほど欲望のレベルが高いのである。要するに能力を十分に持っている人を1としよう。彼は自分の欲望に対する実現能力は高いから、1に対して1の欲望を持っている。すなわち1-1=0で何の過不足も無く、自分の欲求を満たせる。そこに不満は生じ得ない。しかし次に実現能力を2分の1しか持っていない人は同じく1の欲望を持っている。よって1-2/1=2/1の欲望達成不足が生じる。すなわち自分の欲求に対して半分しか実現出来ないわけだからそこには当然フラストレーションとストレスが生じてしまう。この自分の目標と実際の達成率との差がその人を欲求不満にさせるのである。人間にとって自分の望んでいる欲求を満たせない自分に気付かされた時ほど落ち込む事は無い。そこには絶望感が生じるのである。しかしもっと問題は深刻である。実現能力の低さは欲求条件の高さに比例するのである。また実現能力の高さは欲求条件の高さに反比例するのである。すなわち、能力が低い人ほど妄想にも近い欲求を持っていて、能力が高い人ほど現実的であるという事である。これは躁鬱病患者が世界は自分を中心に動いているという妄想を持っている事と同じである。すなわち2/1しか実現能力を持っていない人は自分の中では、自分より能力がある1の人よりも2倍も3倍も能力があると思っているのである。これではフラストレーションとストレスは能力のある人の2倍にも3倍にも達するのである。すなわち1を達成する能力のある人の欲求レベルは1であり、2/1を達成する能力のある人の欲求レベルは2/1であり、4/1を達成する能力のある人の欲求レベルは4/1であるという、その人の能力の高さに応じて欲求レベルも下がるなら何の問題も無いのだが、現実はそうでは無いという事である。よって自分のフラストレーションとストレスが高ければ高くなるほど、他の人を妬む心が高くなるし、社会に対する恨みの感情の度合いも高くなるのである。それらが自殺や殺人を引き起こす原因となるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人に屈する事は心地悪い場合があるかもしれませんが、たとえエホバに屈するとしても、それは私達人間にとって心地よい事柄であるのです。

2.今までにまた今も、そしてこれからも自分の目に悪い事を行おうとする者は1人もいません。それどころか、皆、自分の目に正しいと思う事を行っているのが常であり、それは言い換えれば、自分を神としているのです。それで私達は自分を神としてでは無く、エホバを神としなければなりません。

3.考えるのに時があり、笑うのに時があり、泣くのに時があり、善を行うのに時があり、悪を行うのに時がある。そしてその時を造られたのはエホバ神なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

およそこの世界にそれは不可能であるという性質は存在していない。またおよそこの世界にそれは可能であるという性質も存在していない。ただAにとってBは不可能であるという関係があるのみであり、かつ、ただCにとってDは可能であるという関係があるのみであり、すなわち可能、不可能とは絶対的な要素では決して無く、あくまでも、相対的関係の中で初めて成立している要素なのである。

2.知識を得るとは、取捨選択の行為の事を言うのである。すなわちこの状況ではこれは必要では無く、またある場合においてはこれは必要である、などという様にいらない手段を切り捨てたり、必要な手段をチョイスしたりする事に精通している事なのである。よって、知識を得るとは単に知識を収集するコレクションでは無いのである。すなわち神でさえ知識を蓄えたりはされていないのである。

3.人とは皮肉なもので、自分の悪い所は何も分かっていないくせに、他の人の悪い所は手に取る様に分かっているものなのである。

4.人間1人1人の人生の状況とは毎日刻々と変化しているものであり、何一つ同じ状態で保たれているものなど決して無いのである。要するに昨日の自分は既に今日の自分とは違っているという事である。

5.傲慢では無いとは、傲慢にならない様な状況を常に整えておく事を意味するのである。

6.罪を犯さないとは、単に罪を犯さないという事を指すのでは無く、罪を犯さない状況を常に整えておくという事を意味しているのである。

7.教えるべき事をまず何も言わずに自らが実践していること、これが子供に対する最大の教育なのである。よって親は自分が持っていないこと(行っていないこと)を子供に言っても無駄だという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

絶望社会

なぜ占いはよく当たるのか。それは私達の人生の50%は決まっていて、残りの50%は決まっていないからである。であるから、自分の誕生日で人生の半分は決まっているのである。誕生日とはすなわち生まれた日であり、それは時間軸で言えば、それぞれの時代のロケーションの事である。すなわち人生の位置に属するもので、例えば、田舎に生まれたら貧しい生活という条件が付いてくるし、都会に生まれたら便利な生活というものが付いてくるという事と同じなのである。しかし残りの決まっていない50%の範囲内で田舎に生まれても自分の努力で都会に繰り出し、ビジネスに成功して大金持ちにもなれる。また、せっかく都会に生まれても残りの決まっていない50%の範囲内で自助努力をしなければ都会の片隅で浮浪者生活で終わる事もある。この生まれて来た時点で既に決まっている50%とは、悪い意味での50%であり、まだ決まっていない50%とは良い意味での50%である。しかし良い意味という事はそれだけ人間としての人格や資質や体力や辛抱強さという積み重ねの努力が必要不可欠であるという事で、大半の人間は良い意味での50%を活かしきれない。すなわち、自分を十分に磨く事が出来ないで終わるのである。例えば、良い意味での50%の内、30%までしか自己精錬出来なかったとすれば、悪い意味での50%から良い意味での30%を引いて、残りの悪い意味での20%が人生となるのである。占い師は当然、生まれて来た時点で決まっている悪い意味での50%の部分だけをあなたに教えるから、結果的に占い師の言うことが当たってしまうのである。しかも現在の時代はますます悪くなって混迷して来ており、自分を精神的にも肉体的にも磨くという事が非常に難しくなって来ている。なぜなら人間の大半は仕事によって自分が磨かれていくのであるが、その仕事自体が人間関係の劣悪さや仕事の重労働による過労死などで仕事を続けて行く事すらままならないからである。そう、仕事を続けて行く事が非常に難しくなって来ているのである。そうである、現代人は生きるという最低限の権利すら失おうとしている。もはや生活していけるか、というレベルでは無く、生きるか死ぬかのという生存できるか、というレベルまで追い詰められているからである。これからはますます格差社会になり、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっていく。それで富んだ強者は貧しい弱者の弱みにますます漬け込んで貧者を犠牲にして喰いものにしてゆくであろう。特に日本では女性の貧困が深刻であり、自分の体を売らなければ生活して行けない程になっている。男性も正社員になれず、非正規労働者で給料の低い仕事に就かざるを得ない。これでは彼女も出来ないし、結婚すら出来ないので、自分の性欲すら満たせず、セックスも出来なくなっている。女性はお金の為にアダルトビデオや風俗に身を投じなけれなならなくなるから、アダルトビデオや風俗だけはますます繁盛し、男性も実際のセックスが出来ない分、アダルトビデオや風俗で性欲のはけ口を見つけるしか無い。そうである。今は聖書で言う終末の時であり、人類にとって一番危機な状態であるのだ。なにせ学歴が高くてもいい仕事が無い時代である。まだ仕事があればいい方で、それすら長続きしないから、もう絶望的である。この絶望社会を何とか変えなければならない。私はこの悪い時代を何とか変えられるよう努力しようと思う。読者の皆さんも一緒にこの世の中が良くなるように頑張ろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

私達は自分の力で生きているのでは決して無く、生かされて初めて生きているのである。その証拠にあなたは呼吸を自分の意識の内に行っているだろうか。いや決して、私達は呼吸を無意識のうちに行っているのである。またあなたは、自分で自分の心臓を動かしているだろうか。もし自分の意志で動かしているなら、自分で好き勝手に止めたり動かしたり自由にコントロールできるはずである。しかし実際にはどうであろうか。私達は何一つ制御出来ないのである。すなわち、自分達の体はすべてオートマチックで動いているのである。これは自分自身が自分によって生きているのでは無い事の明らかな証しなのである。

2.物事の本当の事情は外見からは、すなわち人気、評判、見た目からは決して計る事は出来ないこと。なぜなら人気や評判や見た目は多分にその時々の特殊な演出や雰囲気や気分によってすぐに化学変化する(左右される)不安定な薬物の様なものだからである。

3.すべて何かを失えば代わりに必ず何かを得、すべて何かを得ればその代わりに必ず何かを失うものなのである。例えば、名声を得れば、自由なプライベートは失われるし、金儲けを止めれば、自由な時間が得られるのである。それで究極論として、すべてを得るためにはすべてを捨てなければならず、すべてを捨てるためにはすべてを得なければならないのである。よって人間はすべてのものを得る事は出来ないから、すべてのものを捨てる事も出来ないのである。よってすべてを捨てる事とすべてを得る事は互いに等しいのである。