高田義裕の人生論

今日の格言

人間の苦しみの根本原因は何か。

人間の苦しみの根本原因とは、欲望過多である事である。すなわちどんな人間も能力のある人間も能力の低い人間も共に皆、欲望だけは一人前に持っているという事である。例えば、欲望の実現能力が高い人は欲望のレベルも高いと思われがちだが、実際はそうでは無い。むしろ欲望の実現能力が低い人ほど欲望のレベルが高いのである。要するに能力を十分に持っている人を1としよう。彼は自分の欲望に対する実現能力は高いから、1に対して1の欲望を持っている。すなわち1-1=0で何の過不足も無く、自分の欲求を満たせる。そこに不満は生じ得ない。しかし次に実現能力を2分の1しか持っていない人は同じく1の欲望を持っている。よって1-2/1=2/1の欲望達成不足が生じる。すなわち自分の欲求に対して半分しか実現出来ないわけだからそこには当然フラストレーションとストレスが生じてしまう。この自分の目標と実際の達成率との差がその人を欲求不満にさせるのである。人間にとって自分の望んでいる欲求を満たせない自分に気付かされた時ほど落ち込む事は無い。そこには絶望感が生じるのである。しかしもっと問題は深刻である。実現能力の低さは欲求条件の高さに比例するのである。また実現能力の高さは欲求条件の高さに反比例するのである。すなわち、能力が低い人ほど妄想にも近い欲求を持っていて、能力が高い人ほど現実的であるという事である。これは躁鬱病患者が世界は自分を中心に動いているという妄想を持っている事と同じである。すなわち2/1しか実現能力を持っていない人は自分の中では、自分より能力がある1の人よりも2倍も3倍も能力があると思っているのである。これではフラストレーションとストレスは能力のある人の2倍にも3倍にも達するのである。すなわち1を達成する能力のある人の欲求レベルは1であり、2/1を達成する能力のある人の欲求レベルは2/1であり、4/1を達成する能力のある人の欲求レベルは4/1であるという、その人の能力の高さに応じて欲求レベルも下がるなら何の問題も無いのだが、現実はそうでは無いという事である。よって自分のフラストレーションとストレスが高ければ高くなるほど、他の人を妬む心が高くなるし、社会に対する恨みの感情の度合いも高くなるのである。それらが自殺や殺人を引き起こす原因となるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人に屈する事は心地悪い場合があるかもしれませんが、たとえエホバに屈するとしても、それは私達人間にとって心地よい事柄であるのです。

2.今までにまた今も、そしてこれからも自分の目に悪い事を行おうとする者は1人もいません。それどころか、皆、自分の目に正しいと思う事を行っているのが常であり、それは言い換えれば、自分を神としているのです。それで私達は自分を神としてでは無く、エホバを神としなければなりません。

3.考えるのに時があり、笑うのに時があり、泣くのに時があり、善を行うのに時があり、悪を行うのに時がある。そしてその時を造られたのはエホバ神なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

およそこの世界にそれは不可能であるという性質は存在していない。またおよそこの世界にそれは可能であるという性質も存在していない。ただAにとってBは不可能であるという関係があるのみであり、かつ、ただCにとってDは可能であるという関係があるのみであり、すなわち可能、不可能とは絶対的な要素では決して無く、あくまでも、相対的関係の中で初めて成立している要素なのである。

2.知識を得るとは、取捨選択の行為の事を言うのである。すなわちこの状況ではこれは必要では無く、またある場合においてはこれは必要である、などという様にいらない手段を切り捨てたり、必要な手段をチョイスしたりする事に精通している事なのである。よって、知識を得るとは単に知識を収集するコレクションでは無いのである。すなわち神でさえ知識を蓄えたりはされていないのである。

3.人とは皮肉なもので、自分の悪い所は何も分かっていないくせに、他の人の悪い所は手に取る様に分かっているものなのである。

4.人間1人1人の人生の状況とは毎日刻々と変化しているものであり、何一つ同じ状態で保たれているものなど決して無いのである。要するに昨日の自分は既に今日の自分とは違っているという事である。

5.傲慢では無いとは、傲慢にならない様な状況を常に整えておく事を意味するのである。

6.罪を犯さないとは、単に罪を犯さないという事を指すのでは無く、罪を犯さない状況を常に整えておくという事を意味しているのである。

7.教えるべき事をまず何も言わずに自らが実践していること、これが子供に対する最大の教育なのである。よって親は自分が持っていないこと(行っていないこと)を子供に言っても無駄だという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

絶望社会

なぜ占いはよく当たるのか。それは私達の人生の50%は決まっていて、残りの50%は決まっていないからである。であるから、自分の誕生日で人生の半分は決まっているのである。誕生日とはすなわち生まれた日であり、それは時間軸で言えば、それぞれの時代のロケーションの事である。すなわち人生の位置に属するもので、例えば、田舎に生まれたら貧しい生活という条件が付いてくるし、都会に生まれたら便利な生活というものが付いてくるという事と同じなのである。しかし残りの決まっていない50%の範囲内で田舎に生まれても自分の努力で都会に繰り出し、ビジネスに成功して大金持ちにもなれる。また、せっかく都会に生まれても残りの決まっていない50%の範囲内で自助努力をしなければ都会の片隅で浮浪者生活で終わる事もある。この生まれて来た時点で既に決まっている50%とは、悪い意味での50%であり、まだ決まっていない50%とは良い意味での50%である。しかし良い意味という事はそれだけ人間としての人格や資質や体力や辛抱強さという積み重ねの努力が必要不可欠であるという事で、大半の人間は良い意味での50%を活かしきれない。すなわち、自分を十分に磨く事が出来ないで終わるのである。例えば、良い意味での50%の内、30%までしか自己精錬出来なかったとすれば、悪い意味での50%から良い意味での30%を引いて、残りの悪い意味での20%が人生となるのである。占い師は当然、生まれて来た時点で決まっている悪い意味での50%の部分だけをあなたに教えるから、結果的に占い師の言うことが当たってしまうのである。しかも現在の時代はますます悪くなって混迷して来ており、自分を精神的にも肉体的にも磨くという事が非常に難しくなって来ている。なぜなら人間の大半は仕事によって自分が磨かれていくのであるが、その仕事自体が人間関係の劣悪さや仕事の重労働による過労死などで仕事を続けて行く事すらままならないからである。そう、仕事を続けて行く事が非常に難しくなって来ているのである。そうである、現代人は生きるという最低限の権利すら失おうとしている。もはや生活していけるか、というレベルでは無く、生きるか死ぬかのという生存できるか、というレベルまで追い詰められているからである。これからはますます格差社会になり、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっていく。それで富んだ強者は貧しい弱者の弱みにますます漬け込んで貧者を犠牲にして喰いものにしてゆくであろう。特に日本では女性の貧困が深刻であり、自分の体を売らなければ生活して行けない程になっている。男性も正社員になれず、非正規労働者で給料の低い仕事に就かざるを得ない。これでは彼女も出来ないし、結婚すら出来ないので、自分の性欲すら満たせず、セックスも出来なくなっている。女性はお金の為にアダルトビデオや風俗に身を投じなけれなならなくなるから、アダルトビデオや風俗だけはますます繁盛し、男性も実際のセックスが出来ない分、アダルトビデオや風俗で性欲のはけ口を見つけるしか無い。そうである。今は聖書で言う終末の時であり、人類にとって一番危機な状態であるのだ。なにせ学歴が高くてもいい仕事が無い時代である。まだ仕事があればいい方で、それすら長続きしないから、もう絶望的である。この絶望社会を何とか変えなければならない。私はこの悪い時代を何とか変えられるよう努力しようと思う。読者の皆さんも一緒にこの世の中が良くなるように頑張ろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

私達は自分の力で生きているのでは決して無く、生かされて初めて生きているのである。その証拠にあなたは呼吸を自分の意識の内に行っているだろうか。いや決して、私達は呼吸を無意識のうちに行っているのである。またあなたは、自分で自分の心臓を動かしているだろうか。もし自分の意志で動かしているなら、自分で好き勝手に止めたり動かしたり自由にコントロールできるはずである。しかし実際にはどうであろうか。私達は何一つ制御出来ないのである。すなわち、自分達の体はすべてオートマチックで動いているのである。これは自分自身が自分によって生きているのでは無い事の明らかな証しなのである。

2.物事の本当の事情は外見からは、すなわち人気、評判、見た目からは決して計る事は出来ないこと。なぜなら人気や評判や見た目は多分にその時々の特殊な演出や雰囲気や気分によってすぐに化学変化する(左右される)不安定な薬物の様なものだからである。

3.すべて何かを失えば代わりに必ず何かを得、すべて何かを得ればその代わりに必ず何かを失うものなのである。例えば、名声を得れば、自由なプライベートは失われるし、金儲けを止めれば、自由な時間が得られるのである。それで究極論として、すべてを得るためにはすべてを捨てなければならず、すべてを捨てるためにはすべてを得なければならないのである。よって人間はすべてのものを得る事は出来ないから、すべてのものを捨てる事も出来ないのである。よってすべてを捨てる事とすべてを得る事は互いに等しいのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間にとって最も大事な事は口の使い方である。相手に言ってしまった事はもはや元に戻らないのであり、私達は話す前によく考えてから言葉を選んで話すべきである。

2.生まれてこのかた失敗や迷惑をかけた事が無い者がまず神に反論するがよい。私達は多かれ少なかれ罪を犯している互いに同レベルの存在であり、私は彼より少しマシだとか、あるいは、私はあなた方よりだいぶマシだとか言って罪の数を細かく数えてランク付けする事は神の見地から見れば非常に虚しくナンセンスな事であり、誰もが皆50歩100歩なのである。

3.たとえ人が不正を行っているからと言って、少しも私達は他の人を裁く手間を取る必要は全く無いという事である。なぜなら他の人々も私達も誰もが皆、一つの公正さ、すなわち、すべて最後には自分達の蒔いた業の実を刈り取るのであり、最終的にはその行っている業のままに報われるからである。これは誰にも不公平は無いからである。

4.人生とは、その全般に渡って、未定、もしくは不確実な要素であり、私達にとって[永久に分からないもの]として定義されうるものであること。

5.人生がとにかく、生きるという事が非常に難解で問題が次々と生じてくると思われる時、これはそれに比例して[生]とは、神業の所産ゆえに私達には到底扱う事は無謀であるという事である。すべては[これは~である]とはっきり固定されうるかの様な私達の大好きな理屈では決して無いのである。すべては理屈(人智)を超えた神業なのである。

6.私達は義を全うする事も出来なければ、災いや試練や挫折から自力で完全に立ち上がれるほどの勇気を全うする事もまた出来ないのである。

7.聖書の言う完全さとは、未完成に到達する為の完成の事であること。すなわちあくまでも、スタートラインに立つための完成に過ぎないこと。

8.[子供を教育する]という本質とは、[すべてを明らかにしない(教えない)]という所から始まるものであり、ある意味において[嘘をつく]事なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

私達は何一つとして永久に知る事は出来ない。例えばある農夫が水車小屋で作業していた際、ふと普段使っている水車とは何かと考えた。水車とは上流から流れてくる川の水を利用してタービンを回し、そのタービンが歯車に伝わってその歯車が回り、歯車に連動している杵が穀物を脱穀するのである。それでは上流の水は、どこから来るのか考えると、海の水が太陽熱で蒸発してそれが雲になり、雲から雨が降る事によって山地に水がもたらされるのである。すると太陽とは何かを知らなければならなくなり、太陽を構成している太陽系の仕組みも知らなければならなくなり、次は太陽系を構成させている銀河系の仕組みも知らなければならなくなり、次には銀河系を構成している宇宙の仕組みも知らなければならなくなり、宇宙とはどの様にして出来たのかと考えると、それはビッグバンから始まったという事だから、ビッグバン以前はどうなっていたのかも知らなければならなくなる。この様に最初の水車小屋から始まってどんどん突き詰めて考えていくとあらゆるすべての現象を調べなければならなくなるのである。よって私達は身近なもの一つすら厳密に言えば何も分かっていないし、知る事が出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人類はこの後、神に従う者達と神に従わない者達、すなわち羊とヤギに分類され、ハルマゲドンを迎える。そして神に従う者達に対してイエスキリストが語られた言葉。[そしてイエスの12人の弟子達は言った。主よ、それはいつ起こるのですか?世界の終末には何がありますか。するとイエスは答えた。神に従う者達はパラダイス行きの電車に乗る者に例えられます。私が選んだ義なる人達はハルマゲドン後の地球の楽園(パラダイス)に入れる電車の予約チケットを与えられます。それで彼らは自分達の家から出て、駅に向かいます。まっすぐ駅の方を向いて歩いていく人達は幸いですが、ある人達は駅に向かう際、その通りにいろんな食べ物や魅力的な商品が並んでいる店屋に目を奪われます。それで彼らはこう言います。(パラダイス行きの電車が駅に着くまではまだ時間がある。少しの間ここで買い物をして行こう。)そして彼らはいろんな食べ物や品々を食べたり飲んだり選んだりし始めた。すると時間は瞬く間に経ち、彼らの1人がハッとそれに気付いてこう言います。(皆さん、もうすぐで電車が駅に到着する時刻です。急いで駅に向かいましょう。)それを聞いた者達はハッと我に返り、急いで駅の方に向かいます。そしてもう少しで駅の門の前に来た頃に電車が到着し、彼らは慌てて改札口に向かいます。しかし、その間に電車は汽笛を鳴らし出発してしまいます。彼らはそれを見て地団駄を踏んで歯ぎしりして泣き叫びます。こう言うと12人の弟子達は尋ねます。主よ、それはどういう意味ですか?するとイエスは答えられた。たとえその義の行いゆえに永遠の命を約束された者達であっても、主人が到着するまでこの世の中で食べたり飲んだり、嫁いだり娶ったりする事に夢中になっていれば、その者達が知らないうちに主人が帰ってきて、その時分に主人が到着するのを注意深く待っていた者達は主人と一緒に奥の間へ入りますが、遅れて到着した者が来て、戸をたたいて主よ、開けてください。私達は今到着しましたから、と言っても、主人はその者達に、私はあなた方の事を知りません。不法を働く者達よ、私から離れ去れ、と言います。それであなた方は日常の事柄にかまけるのを止めて常に見張っていなさい。選ばれる者は多いのですが、実際に救われる者は少ないのです。]

高田義裕の人生論

今日の格言

万物の公理

1.すべての事が可能である事とすべての事が不可能である事は互いに等しい。

2.すべての事が存在する事とすべての事が存在しない事は互いに等しい。

3.万物の成り立ちはすべて逆である。すなわち、白い性質のものは黒いものから出ており、黒い性質のものは白いものから出ているのである。

4.一つとは最初であり、最後であるという事である。

物事が大量に流れれば流れるほど、ほんの小さな誤差や粒子もまた大きい影響を及ぼす様になること。例えば、大きな国家はほんの小さな個人の行動によって戦争にまで発展する場合があること。また、車をゆっくり走らせる分には何の影響も無かったのであるが、徐々にスピードを上げて、時速300kmにまで達すると、道の上にある微小な石がフロントガラスに物凄い速さでぶつかり、フロントガラスにヒビが入ってしまうのと同様である。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

完璧さゆえの誤謬

ある女性がいた。彼女は若い頃から真面目で貞潔な女性だった。順調に結婚もし、子供も大きくなって自分が50歳くらいになった頃、ふとしたきっかけで美しい美青年を見かけた。その時はああ素敵な男性だわ、と思ったのだが、家に帰ってある程度時間が経った頃、突然ムラムラとその美青年とのセックスを連想してしまい、自分の性的欲情が止まらなくなった。そう、突然、淑女が淫乱に目覚めたのである。そこからは毎日淫らな性的シーンを連想しながらマスターベーションに耽った。なぜなら彼女はかわいそうな人間なのである。自分の人並み以上の性的欲情を抱えながらも彼女の年齢と容姿では、もはや若くていい男は誰も相手にしてくれないからである。彼女の欲望のはけ口は、どこにも見出されなかったのである。これはフィクションでは無い。実際の事例である。彼女はそのやりきれない欲望の苦しさの故に精神科医に相談もしている。しかし精神科医にももはやどうにも打つ手は無かった。このように無自覚に清く正しく生きていても、ある日突然ちょっとした誘惑で誤った方向にのめり込んでしまう場合があるのである。要するに清さを無自覚に保っていてもいずれ誘惑が来た時、なだれのように堕落してしまうのである。これはインフルエンザにかかった事の無い人が突然インフルエンザにかかるのに似ている。インフルエンザを防ぐにはインフルエンザ予防接種を受けてインフルエンザに対して免疫力をつけておかなければならない。この事例の一番最初のパターンはいつ見出されるか。それはアダムとエバである。アダムとエバは神から創造された時からずっと真面目に貞潔に生きていた。彼らには罪や欲望という概念はなかった。要するに彼らは無垢で純真だったのである。それゆえ、ある日突然、悪魔サタンから禁断の木の実を食べるように誘惑を受けてから、エバは罪に対する免疫力が無かったので、自分の心の内でムラムラとその木の実を食べたいという欲情が激しく燃え上り、遂には彼女は禁断の木の実を食べてしまったのである。この様に見てくると、聖書の言う罪というものに対して私はエバがそんなに悪いとは思わないのである。クリスチャンにとって罪とは非常に悪いものであり、忌むべきものとして捉えられているけれども、私が考えるに、アダムとエバが罪を犯すのは時間の問題でしかなかったということである。私はこの2人がそんなに罪深い事をしたとは思わない。むしろ、神によってあまりにも純真過ぎて完壁に造られたゆえにむしろ必然的に罪に目覚めたのである。そう、ここからは私もクリスチャンゆえに言いにくい事なのだが、最大のタブーとして究極的解答で結論すれば、神にとってアダムとエバが御自身に対して罪を犯すことは神にとって必然であったのである。むしろ禁断の木の実を食べてはならないと言われた神御自身がアダムとエバが罪を犯す事を初めから御計画であったという事である。なぜなら神の御業は完全であり、完全に造られた人間が神の意図せずに罪を犯す事は決して無いからである。よって人間の犯した罪は神が意図したものと捉えるしか無いのである。私は神の御意志やお考えを全部知っているわけでは無いので、その理由はわからないが、神の御業が何の失敗も無い完璧なものである以上、人間が罪を犯したのも神の予定の中に入っていたと言わざるを得ないのである。