高田義裕の人生論

今日の格言

西暦2058年、人類は生身の人間との会話や話し合いを自分の力でできなくなっていた。全人類は極度の対人恐怖症を患っており、会話するときも人工知能に代替えさせて行っていた。口論や論争はすべて各々の人工知能がその真偽を取り扱っていた。同じく西暦2050年にはクローン人間製造法が成立し、誰でも自分のクローン人間を作る事が許された。人々は他の誰とも交友を持たず、何かをする時は自分のクローンと一緒に行った。なぜこのような事になってしまったのか。なぜなら最初は人類は生身の人間と会話や話し合いをしていたのだが、お互いがものすごく短気になっており、ちょっとした事だけでもめ事になり、それが原因で殺人事件が絶えなくなったのだ。よって人は会話する時は人工知能のロボットと会話する様になった。生身の人間と会話する事よりも人工知能と会話する方が自分の意見に決して反論しないため、生身の人間と会話するよりも心が癒されたのである。また人々はバーチャル世界でのみとしか他の人間と交友しなくなった。人々は一日中こん睡しており、脳内の仮想空間の中の自分に理想的なキャラクターを選択し、脳内のバーチャル世界で仕事をし、遊び、互いの選んだキャラクター同士で理想的な環境を疑似体験していた。そしてそれでも生身の人間同士で会話や話し合いをできる能力がある者は成功者と呼ばれ、それができる人は超富裕層として君臨し人々を支配していた。どうであろう。現在の私達の世の中も次第にこの様な状態になっていないだろうか。人々は人間関係を嫌い、スマホばかり見ているし、人間関係もギスギスしていてちょっとした事でもめ事になり、それによる殺人事件が増えていないだろうか。また自分がフラれて傷つく事を恐れて好きな異性に声をかける事も出来ない精神的にナイーブな若者たちが増えてきていないだろうか。昨今の若者たちは恋愛する事も分からず、結婚しなくなってきているし、結婚してもちょっとした相手の言動に腹を立てて離婚する人が多くなっているのではないだろうか。そう、現代人は皆、人間関係を面倒くさいもの、自分が傷つきたくないから嫌なものとして遠ざける様になっており、1人でいる事の方を好きになってきているのである。すなわち、人間自体が対人力、コミュニケーション力を急速に失ってきているのである。このまま行くと、前半で述べた異常な仮想空間社会が近いうちに誕生する事も否定出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

聖書の言うハルマゲドンとは、神エホバと全人類社会の体制とがお互いに対峙して双方の勢力として向き合う状態、すなわち時代的情勢の事なのである。この21世紀前半からこの様なハルマゲドン体制が既に移行している。よって、人間の社会の諸体制が1つの性質、1つの性格、1つの特徴としてはっきりと統一されていくのであり、この分裂した人類社会にあって、人類は唯一の神エホバに敵対する事において利害が一致するのである。すなわち、近い将来、人類は神ご自身と戦う事になるのである。まさに聖書にこう書かれている。[ それらは実は悪霊の霊感による表現であってしるしを行い、また人の住む全地の王たちのもとに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦争に彼らを集めるためである。見よ、わたしは盗人のように来る。目覚めていて自分の外衣を守り、裸で歩いて自分の恥を人に見られることがないようにする者は幸いである。そしてそれらは王たちをヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所(体制)に集めた。]  ヨハネの黙示録16章14.15.16節。

高田義裕の人生論

今日の格言

世の常として、健康な者は不健全さを愛し、病気の者は健康を愛する。また平和な者は争いを愛し、争いの中にある者は平和を愛する。また幸福な者は不幸を求め、不幸な者は幸福を求める。また富んだ者は貧しさを求め、貧しい者は富を追い求める。また優秀な者は愚かさを求め、愚かな者は優秀さを求める。また完璧な者は不完全さを求め、不完全な者は完璧さを求める。また賢い者は愚かさを求め、愚かな者は賢さを求める。また優しい者は粗暴さを求め、粗暴な者は優しさを求める。すなわちこのすべてに共通して言える事は、人間とは自分に無いものを求めるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

生きているという事の本質は、数学で言えば倍数である。例えば1+1=2であり、2×2=4という事になる。これを一般式で表せば、α+α=2αであり、α×α=α²である事になる。すなわち、この世界で言えば、木々が二酸化炭素を吸収して私達に必要な酸素を供給してくれる事はもちろん、空気を清浄にしてくれる機能もあるし、砂漠化を防いでくれてもいるのである。このように木々はそれ1つでいくつもの良い機能を備えてくれている上で倍数のようなものなのである。次に1という性質に対して1という機能しか持っていない物を無生物と言う。これは数学で言えば、1=1である。これを一般式で表せば、α=αという事である。すなわちこの世界で言えば、鉱石などの石であり、マグネシウムはマグネシウムとしての機能しか果たさないゆえに1つで1つの働きしかしないという意味において生きているとは言えないという事である。逆に1つの働きによって2つ以上の弊害を引き起こす事を死と言う。これも数学で表せば1=½という事になり、これを一般式で表せば、α=α½である事になる。すなわち死とは倍数とは逆の分数の事なのである。この世界で言えば、石油などの資源であり、石油はエネルギーを出す代わりにその後に一酸化炭素や二酸化炭素などの有害物質を大量に生成する。要するに利潤以上に自然環境に弊害をもたらす事の方が大きい上で死んでいると言えるものである。これは原子力発電でも同じ事である。膨大なエネルギーを得られる代わりに、人体に非常に危険な放射能という有害物質を大量に生成する事においてこれも死んだものなのである。

2.あらゆる病気に関して、精神的、肉体的な疾患のすべては、結局それを治すのは患者本人自身であり、医者や周りの者はそれを導く為に手助けするだけなのである。よって医者は謙虚にも常にそれを認知しておかなければならない。

高田義裕の人生論

今日の格言

態度が悪い人間にとって、その悪い態度を直す事が当面の課題なのでは決して無く、態度が悪い方が良い状況のもとでも悪い態度でいられるかどうかという事が当面の課題なのである。すなわち、自分より弱い人間に対して態度が悪いだけでは駄目で、自分より強い相手に対しても悪い態度をとれる勇気があるかという事を問いたいのである。並みの人間なら誰でも、自分より弱い人間に対しては悪い態度を取っても、自分より上の上司とか先輩とかになると途端に及び腰で態度が良くなるからである。すなわち、たとえ不備で、不十分で、不安定で、不完全であっても、1つの事を貫き通す事が初めて良い事なのである。だから、性格が良い事が良いという事では決して無く、あなたが短気ならどんな状況にあっても短気を貫き通せられるかが大事なのであり、あなたが優しい人間ならどんな状況にあっても優しさを貫き通せられるかが重要なのであり、あなたが不親切な人間ならどんな状況に置かれても不親切を貫き通せられるかが問題なのである。大半の人間は自分の都合の良い時には優しくて、自分の都合の悪い時には不親切だったりするのでは無いだろうか。この1つの特質を貫き通せないという中途半端な状態こそ初めて悪いと言うのである。であるから、私達は悪い事も良い事も貫き通せない人間なのであるから、この世の中に悪い人間も良い人間もいないという事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

口で上手く言い表せない者は行動によって表せば良いし、口が上手な者は行動でもその様に行えば良いのである。要は口が上手な事が人間にとってさほど重要な事では無く、口が上手でも、口下手でもどちらにも共通して言えるのは実際に行動に移す事が大事なのである。

2.私達人間にとっての真理とは、できるだけより良いものを豊富に揃える事に努力する事では決して無く、今あるもので工夫を凝らす努力であり、今いる立場で最善を尽くす努力である。すなわち自らに足る事を知る事なのである。

3.私達の幸福(健康)とは、自分の心の内が安定しているという事なのであり、自分自身の心情が無理を感じない事が私達人間にとっての幸福(健康)なのである。よって幸福(健康)になるために自分の心を無理しているのなら、それは幸福(健康)から遠くかけ離れているのである。例えば、もっとお金持ちになりたいと思って、あなたはいくつも仕事を掛け持ちして自分の心身に無理をかけていないだろうか。また、自分はモテたいから、背伸びして実際以上に外見や内面を良く見せようと無理していないだろうか。そんな事は幸福(健康)では無いのである。あくまでもありのままの自分を表に出して無理をせず、普通に生きれば良いのである。すなわち、私達人間という枠内において、[ある事柄を施行されない場合はそれ自身を失う]というような強迫観念に駆られて人々の生活はもっぱら命を浪費し、不遜に扱う事にのみ努力する事を強いられており、本来の私達のいるべき方向性とは別の場所に追いやられているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

マルチ人間で、何でもそつ無くこなすという、いわゆる物事を行う上での最短距離者では無いからといって、人生の落伍者、敗残者だ、などと決して思いこまないこと。なぜなら人生には時間をかけたり、遠回りして初めて理解できる事柄もあるからである。むしろ昔から偉大な業績を残した人はマルチ人間タイプの人では無く、幾度も失敗し、何度も遠回りしても、それに挫けず、諦めずに自分の信じる道を貫いた人達ばかりであるからである。

2.自分の義を全うしようとする者は、必ず自分を追い込む事になる。

3.それを決して得られないからこそ、それが永遠に価値があるという事柄も存在するのである。

4.私達人間は誰しも精神的、肉体的に健康であれば、生きるという事に飽きるという事が無いのでは無いだろうか。すなわち人間にとって生きるという事は永遠に渡って経験していくほど、退屈せず、思いがけず、ダイナミックでおもしろい事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

自分の義を全うする事と、神エホバを喜ばせる事とは必ずしも同一的な事では無い。また、私達にとって神エホバを喜ばせる事は、私達が義に完璧に適っている事と必ずしも一致しない。人間は常に自分の義によって自分を喜ばせるのでは決して無く、神の要求される義を行って神を喜ばせなければならないのである。それこそが人間にとっての真の幸福なのである。

人生の格言

1.過去の栄光を捨てれば、新しい歩みが始まる。

2.能力不足なのでは無い。経験不足なのである。

3.疲れているのは自分だけでは無い。その時は他の者も同じく疲れている事を思い巡らしなさい。

4.心配が多い場合、それは一生懸命生きていないからだ。

5.不平や愚痴の数は、人間関係を失う数に比例する。

6.辛い事が多い場合、それは感謝が少ないからである。

7.苦しい事が多い場合、それは甘えの傾向があるからである。

8.悲しい事が多い場合、それは自分の事しか考えていないからである。

9.行き詰まりが多い場合、それは自分が裸になれないからだ。

10.自分の都合が自分を閉ざす。

11.人に王者無く、人生に王道なし。

12.お金を使うのはたやすいが、それを稼ぐのは難しい。同様に、価値と信頼は築き上げるのは難しいが、それを失うのは一瞬である。

高田義裕の人生論

今日の格言

極限論

何かを得ようとして何かを得る事は出来ない。例えば、史上最高の顕微鏡でこの世界で一番最小の素粒子以上の、さらに小さな粒子を見ようとする。しかし極限論で行くと、その見ようとする行為のゆえに見る対象を見えなくしてしまうのである。すなわち、物を見るためには実際に光の粒子を対象物に当ててそれから跳ね返ってくる光の粒子を捉える事でその物を見る事が出来る。この方法は比較的小さな粒子を見るためにはさして問題は無いのだが、これがものすごく小さな粒子の場合、光の粒子を当てて見ようとすると、その光の粒子の方が大きすぎて相手の粒子をビリヤードの玉のように弾いてしまうのである。すなわち観察者の方が光の粒子を当てて見ようとする行為がもはや限界である事を示している。これと同様に人生においても何かを得たいと思ってどれだけ頑張っても、その得たいという行動や欲求が最終的には邪魔をして、その得たい対象物を遠ざけてしまうのである。これは努力の質や量、もしくは個人の能力の大小に全く無関係であって、極限論から言えば、それはもはや原理的に不可能という事になる。では欲しいものを得るにはどうしたらいいのかと言うと、例えばあなたがお金を欲しいと思っているのならば、お金を目的にして稼ごうとしてもそれは得る事は決して出来無い。すなわち稼ごうと思ったら、お金を得ようとする以上の高い目標(志し)を持って行動するのである。例えば自分の事業をお金を稼ぐためでは無く、社会の役に立ちたいために気持ちを切り替えて行動するのである。そうすると、その事業は成功し、気が付いてみたらお金も貯まっていたというのが理想的なのである。また、ある科学者がノーベル賞を得たいから自分の研究に打ち込んでも決して彼はノーベル賞を受賞する事は出来ない。むしろ賞など関係無く、ただ人の役に立つ研究をしたいと一心に頑張る事によって気が付いてみたらノーベル賞も受賞していたというのが理想的な状況なのである。古今東西、成功して富を成した人達は皆、その志しが高いゆえに成功した人ばかりなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

真理とは何か。

もしあなたがあまりにも完璧で素晴らしい内容であるがゆえにあなたはそれに夢中になり、それの虜になってあなたを縛ってしまう様な思想があるとする。その思想にはおそらくあなたにこれをしなさい、とか、これはしてはいけないとかの生活スタイルの型を求めてくるだろう。それであなたは必死にその型に自分を当てはめようとする。それであなたは必死の甲斐あってその型通りの生き方をマスターしたとする。するとその思想はまた次の別の指示を出してあなたに従う様に警告する。もしそうしないなら、悪い事が起こると警告してくるのである。この時点でその思想は全く真理などでは無く、あなたを強迫神経症に駆り立てるマインドコントロールである。そう、偽りの教えはその教えを守らなければ悪い事が起きると信者を脅迫し、心を徐々に縛っていくのである。しかし本当の真理とは人を強迫神経症から自由にし、永遠に不変で不朽のものであり、後で何かを付け足したり、後で何かを削除したりするものでは決して無いのである。真の真理と何かを要求したりはしないし、何かをあなたから奪うものでは決して無いからである。むしろ真理とはあなたに何かを要求するのでは無く、逆にあなたに存分に与えてくれるものなのである。