高田義裕の人生論

今日の格言

進化論の矛盾

生命は進化によって始まったという。最初は単純な造りのものから始まって、長い年月を経て、複雑な構造を持つ哺乳類や人間などが誕生したと言う。進化論は適者生存、すなわち、変化する環境に順応に対応するために、できる限り無駄を削ぎ落とし、できる限り効率性が良いものだけが生き残って来たというのが、その進化論の屋台骨である。しかし、効率性というものを尺度に考えた場合、単純な造りのものの方がより効率が良いのでは無いだろうか。どうして単純な造りの効率性の高いものから、より複雑で体も大きいもの、すなわち、効率性の悪い、多くのエネルギーを消費する哺乳類や人間が生まれてくるのであろうか。効率性と適者生存の観点から言えば、生命は進化ではなく、退化して行っているのである。例えば、人間は製品を作る時に最初は効率性が悪くてエネルギーも無駄に消費する製品、車にしても、冷蔵庫にしても洗濯機にしても、性能の悪いものから徐々に無駄を削ぎ落とし、製品の造りを複雑なものからより単純なものに改良していくのではないだろうか。すなわち、無駄に大きかった製品から、現在の製品はものすごく小さくてコンパクトになり、造りも単純にして、壊れにくくなっているのではないだろうか。要するに生命の誕生の仕方が進化論が正しければ、逆になるはずなのである。すなわち、初めは大きくて複雑な構造を持つ多くの無駄なエネルギーを消費する哺乳類や人間からその無駄な部分を削ぎ落とし、より小さく単純な造りに進化する事によって、長い年月を経て、アメーバやプランクトンなどのエネルギー消費も少なく、造りも単純な生き物に進化していくはずなのである。要するに進化論の述べている事は、進化論の屋台骨である適者生存を自ら否定しているのである。なぜなら生命自体が1つの無駄では無いか。生命を維持するためには、毎日多くの食糧を消費しなければならないし、もし効率重視なら、何も食べなくても生きていけるような生命でなければならない。しかし、他の生命の犠牲なくして生命はその存在を維持出来ないのであり、生き物という存在自体が1つの無駄な存在だからである。もし効率重視と適者生存が、物事を推し量る絶対的条件ならば、初めから生命など存在する必要性は全く無いのである。なぜなら何も無い事が一番効率性が良く、無駄の無い事なのだから。

高田義裕の人生論

今日の格言

真理は真理であり、それはまた同時に正しいものでもあるけれども、単に正しいこと、すなわち誰もが称賛する立派で良い事柄が必ずしも真理であるとは限らないのである。よって正しさとは真理にとっての必要条件ではあっても、必要十分条件では無いのである。また、真理は同時に義に適っているけれども、単なる義が必ずしも真理であるとは限らないのである。よって義とは真理にとって十分条件ではあっても、必要十分条件では無いのである。これと同じ理屈で、神は神であり、神はまた同時に正しい方であられるけれども、単に正しいこと、すなわち完璧に正しいことが神では無いのである。また神は義なる方であるけれども、単に義であること、すなわち完璧な義も神では無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

哲学的矛盾

すべての事は存在すると仮定する。すると、すべての事は存在しないという事も存在する。これは矛盾である。よって結論として、すべての事は存在しない。また、すべての事は存在しないと仮定する。すると、すべての事は存在しないということも存在しない。これは矛盾する。よって結論として、すべての事は存在する。

高田義裕の人生論

今日の格言

哲学的背理法(2)

すべての事は不可能であると仮定する。すると、すべての事は不可能である事も不可能である事になる。これは仮定と矛盾する。よって結論として、すべての事は可能である。

高田義裕の人生論

今日の格言

哲学的背理法

すべての事は可能であると仮定する。ではなぜこの世の中には不可能な事が存在するのかと言うと、それはまだ私達人間がそれを可能にする手段を知らないだけか、ただ私達人間がそれを可能にする能力が無いか、それとも私達人間がそれを可能にしようとする意志が無いかの3つの理由しか無いのである。すなわち、すべての事において、これは不可能であるという事を証明する事は出来ないのである。しかしここで、可能な事を不可能にする事も可能である事になる。これは最初の仮定と矛盾する。よって結論として、すべての事は可能では無い。

高田義裕の人生論

今日の格言

私は幼少の時から人間の善とは何かを考え、学び、模索し、実践してきた。この49年間の成果を今、振り返って言える事は、その努力は全く無駄だった事がはっきり分かった事だ。とことん究極にまで努力しても人間は何1つ完璧には出来ないという事を思い知らされ、悟る事が出来た。しかし、努力はしても無駄だから、努力しなくても良いという意味では無い。むしろ、とことん努力したからこそ、努力しても無駄だ、という知識を得る事が出来たのであり、もし努力しなければ、私は自分にはまだまだ能力があって、努力すれば物事を成し遂げる事が出来るのではないかと淡い期待を信じていたことであろう。であるから読者の皆さんも、自分に興味を持った分野でとことん努力する事をお勧めする。努力して初めて自分はなんて平凡で、小さな存在なんだ、という事を身をもって体験する事が出来る。すなわち、努力もしないで、自分はできる人間だ、と半ば妄想に近い悶々とした気持ちで人生を送るのと違って、とことん努力して自分の限界を思い知らされる方が、気持ちもすっきりするし、何よりも大事なのは、他の人の至らなさを素直に許せる様になる事だ。そう、自分に謙虚さが自然に湧いてきて、他の人も自分も何も違わない同じ人間であるという事が本当に理解できるのだ。そういう諦めの境地に達して初めて人間は謙虚になれるのである。すなわち、努力していない者ほど、すべてを知ったかの様にして誇り、尊大な態度をとっているのが、事の常なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

良い事柄を無自覚に行うよりも、良い事柄を自覚を持って行う事の方がより本物なのでは無いだろうか。そしてだんだんとそれを無意識のうちに行う様になるまでそれを習慣化してしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

昔はもっと時間は遅く流れていた。産業革命以前は時間に追われる事もなく、1日の厳しいノルマが与えられていたわけでもない。しかし、産業革命以後、交通手段やコンピュータなどの向上で日常生活が便利になり、豊かになると、それに応じて仕事の量は増え、仕事の質も高いものが要求され、スピード、すなわち効率性が求められるようになった。人間の人生においても同様である。人は幼児から子供時代までは時間がゆっくり流れていた。しかし成人し、大人になり、いろいろ経験を積んで自分の問題解決能力が高くなると、それに応じて自分にのしかかってくる問題の量や質も多くなり、難易度も高くなるということである。すなわち、人がある問題というハードルを乗り越えると、その次に休む暇もなく次の新たな問題というハードルがのしかかってくるのである。これは次から次へとやってくる波に対応しなければならないサーフィンのようである。よって人間性が高くなるほど与えられる課題も難易度が高くなり、人間性が低いほど与えられる課題の難易度も低くなるという事である。自分はそんな厳しい目に遭いたくないと思ってそこから逃げていくと、それは仕事をサボるようなものであり、課題の難易度は低くても、課題は山積するばかりであり、いずれは膨大な量の問題と強制的に対峙しなければならなくなり、結局は酷い目に遭う事になる。よって人は生きている限り、死ねまで荒波という大海を泳いで行かなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

もし、何かの理由で、ある事柄を行わねばならない必要に迫られても、それを災いとは考えずに、むしろそれを行う絶好の機会(チャンス)と捉えれば良いのではないだろうか。例えば、交通事故に遭って、頭を少し打ったため、脳神経外科で頭をMRIで検査しなければならなくなった時、それを災いと考えずに、このタイミングでいっぺん脳を検査してもらう良い機会ではないか、と良い方に物事を考えるのである。するとある人はその検査のおかげで脳梗塞になる一歩手前でそれを発見出来たという事もあるのである。人間は誰しも自分に予想外の出来事が降りかかる事があるが、人の幸不幸とはどうなるかはわからないものであり、災いを転じて福となす事もあるのである。どうせ人の幸不幸は自分がコントロール出来ないのならば、長いものには巻かれろの精神で、自分に起きる事柄を全肯定してみる、すなわち良い方に楽観的に考える方が得なのである。人間は悩むと心身共に病気になり易く、逆に悩まないで物事をプラス思考で考えた方が人間の心や身体は健康を保つのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     AI(人工知能)は世界を制するか。

昨今、人工知能の事が盛んに話題にされている。人工知能のせいで人間の仕事が奪われるとか、最終的には人工知能が人類を支配する様になるとか、いろいろ危惧されている。しかしここではっきり言っておこう。人工知能はその完璧さ故に人間社会をコントロールする事は絶対に出来ないと。人工知能とはとにかく効率を最優先にし、無駄を排除しようとする。すなわち、一番最適の答えを見つけようとする宿命を持っている。これこそが人工知能の良さでもあり、同時に限界でもある。なぜなら人間社会は必ずしも効率的で最適な活動をしているわけでは決して無いからである。そう、人間は無駄な事も大好きなのである。ある人は自分にはたくさんの服があるのに、それでも自分の気に入った服が見つかるとそれを買ってしまう。これは効率的には無駄なことでは無いだろうか。またある人は仕事で疲れているのに、休日になると、ゆっくり休む事もせずに、自分の好きな登山を楽しんでいたりする。このような非効率的で、一見矛盾した人間の活動を、効率がすべての人工知能には理解する事が出来ない。すなわち、無駄な事も必要である事を理解出来ないのである。よって人工知能は人間の諸活動すべてを理解する事が出来無い。すなわち、生命自体が1つの無駄な存在なのである。生き物はすべて毎日食べ物を食べなければならず、人間も毎日食べ物を食べる事によって食事を楽しんでいる。これは人工知能の常識からすれば、本当に無駄な行為であり、人工知能は人間が食べて楽しむという無駄を無くすために人間が食べなくても生きていけるような無機質な世界を作り出すであろう。そう、人工知能の目指す世界とは無機質で、効率が良すぎて、何かを楽しむという無駄を排除した何も無い椅子とテーブルだけの刑務所の牢獄の部屋のようなものを作り出すのである。しかし、人間は自分の部屋には花を飾ったり、樹木を置いたり、自分の好きな絵を壁にかけたりして無駄な事を楽しみ味わっているのでは無いだろうか。そうした部屋こそ味わい深いものであり、人の心を豊かにしてくれるのである。この意味において、人工知能はもはや万能なものとは言えないのである。