高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバが人に対して言われる、自分の考えに頼ってはならないという意味とは、人がたとえ自分の信じる道を一生懸命に謙虚な気持ちで真面目に行ったとしても、あなたが望んでいるほど成果がほとんど得られないということ、むしろ自分の信じる事柄から裏切られてしまうという意味なのである。よって私達人間は自分の方からあれこれせん越に詮索して考え込まずに、ただ単純にまず神エホバに依り頼み、神エホバが言われる事柄に注意を払い、その方の言われる事に従わなければ、自分のためにはならないという事なのである。よって人は常に自分の力に依り頼むのでは無く、常に真剣な気持ちで神エホバに祈り続け、すべての思い患いを神エホバに委ね、エホバ神に依り頼むなら、あなたの人生は何によってもつまづくこと無く、道は平らにされ、あなたは平安のうちに人生を歩むことが出来る様になるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     灯台下暗し

灯台は大海原に浮かぶ船に陸が近い事を告げ、船が今どこの場所に位置しているかを教えてくれる。灯台は船にとっては有り難い命づなである。あなた方も人生という大海原を航海する船の様なものである。私達が生きるためには灯台の様に自分の立ち位置を教えてくれる教師の様な存在も必要である。この世の中には灯台の様に周りを明るく照らし、進むべき道を指針してくれる指導者の様な者達もいるであろう。しかし、灯台は遠くまで光を届けてくれるけれども、灯台の足元は真っ暗なのである。これはまるで綺麗にセッティングされた舞台の様である。すなわち、観客席から見れば美しい背景や綺麗な衣装をした役者達が踊ったりして華やかであるけれども、いざ観客席からは見えない舞台裏を見れば、そこには照明器具や大道具や小道具が乱雑に散らかっており、そこでは様々なスタジオのスタッフが所狭しとせわしく動き回り、観客席から見えないところでは荒々しい怒鳴り声や役者同士の言い合いの喧嘩もある。そうだ、この世の中で光の様に輝いている様に見える人間達は、他の人から見れば、華々しくて立派に見えるが、他の人から見えない、すなわち舞台裏とも言うべき私生活では、ふしだらで放縦な勝手気ままな生き方をしているのである。彼らは表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける事に長けている厚かましい者達なのである。よって、あなた方はそれらの者達を生きるための指針としてはいけない。なぜなら彼らは偽善者であり、あなた方が彼らに抱く純粋な敬意の気持ちは必ず裏切られるからである。あなた方は決して人間の有名人や人気のあるスターに心奪われてはならない。ただあなた方は人間ではない、聖であり霊なる方である裏表のないエホバ神だけに心を専心しなければならない。この方こそ真の光であり、我々人間の人生を正しく導ける唯一の方だからである。人間はこの方にこそ依り頼め。神は決してあなたの期待を裏切る様な方では決して無いからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

あなたは他の人より自分が出遅れていると思うか。周りの友人や知り合いはみんな結婚して子供を産み、その子供達も成長して自立して行く。しかし、あなたはまだ1人であり、結婚もしておらず、日々の生活は何も変化していない。あなたは自分を他の人と比べて自分は劣っていると卑下しているか。それならあなたは安心するといい。あなたは多分、大人物であり、大器晩成型なのだ。これを例えで考えて見よう。あなた以外の人々はみんなネズミである。ネズミはネズミ算式に繁殖するし、生まれてからの成長も速い。すぐに大きくなって子供を産む。彼らは早熟であり、彼らの時間の進み方は速い。それに対し、あなたは巨大なゾウである。ゾウは生まれてから成長するまで長い時間がかかる。ましてや子象が成長して大人になり自立するためには、ネズミが成長して自立する時間の何十倍もの時間を要する。そして長い時間が経過し、同じ日に生まれたネズミは年老いて寿命が尽きようとしている。しかしゾウは立派に成長し、これから希望に満ちた人生の始まりとなる。そう、成長するのが遅くても、それがあなたが劣っているという理由にはならないのである。むしろあなたの友人や知り合いが年をとって老人になり、衰えて行く頃に、あなたは最盛期を迎えるのである。あなたは自分が出遅れた分の遅れを一気に取り戻し、ついには彼らより勝った者と成れるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

最近ようやく気付いた事は、どんな時でも、人とは必要に迫られなければ、それを決して行おうとはしないという真実である。よってある事柄を行う必要性が緊急には求められていない場合、たとえその人が、それは良い事柄だからそれを行おうと思っても、決してそれを行なう事が無いままに終わってしまうという事実なのである。よって、今の現代、神の裁きが間も無く来ようとしているのに、人々は神に対して罪を悔い改める必要に迫られているのにそれを自覚していないので、人は自分達がまさに滅びるその瞬間まで罪を悔い改めずに日々の生活にかまけているのである。

2.真理は決定する事が出来ない、もしくは1つにしぼれない、また言い切る事が出来ない、常に抽象的であると思っている者達に対して言える事は、真理とは常に断言されており、ただ1つであり、常に具体的であり、既に決定されているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人が掲げる一般性や普遍性は、たとえどんなに努力し吟味され、科学的推理の緻密さによって書かれ、構成されたとしても、当てずっぽうな事、確率の偶然性、誰にでもまた、どんな状況にでも当てはまる様な無難な平均値でしか無いのであり、それらは統計学という占いという範疇を出ないのである。真の普遍性とは、常に具体的であって、真の普遍性とは、曖昧模糊とした、どうとでもとれる様な抽象性では決して無いのである。

2.神エホバ以外から出る義を掲げる立派な人間達に決してついて行ってはならない。なぜなら彼らは立派な事柄を一方的に言いはしても、自らは指一本で支える事もしない、すなわち実行しようとはしないからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々の生きているこの現実世界は幾何学的に例えれば、2次元の世界である。すなわち、我々は平面上でしか存在していない。これは例えれば、テレビのブラウン管の画面上で映し出される映像の中でしか動いていない事と同じである。すなわち分かりやすく言えば、我々のこの現実世界は、非常に入り組んでいて複雑な迷路の様なものであるという事である。当然我々は平面上でしか存在していないから、その迷路の入り口や出口を知ることは出来ない。すなわち手探りで迷路の出口を探って行くしかない。しかし、神や天使の存在している世界とは幾何学的に例えれば、3次元の世界である。すなわち立体的で高さの存在する世界である。すなわち、神や天使から見れば、我々のこの現実世界という迷路を人工衛星で遥か上空から眺められる様なものという事になる。すなわち、この巨大な迷路の全体像を把握でき、天という上から見ているので、その迷路の入り口と出口を簡単に知る事が出来る。だからあなたがこの人生という迷路の中で今、どの場所に位置していて、今どの方向に向かって動いているのかを神は見る事が出来るし、その先が行き止まりなのか、まだ出口に通じる道を歩いているのかという事が瞬時に理解出来る。すなわち、あなたの将来の事を予見出来るのである。であるから、同じ平面上でしか動けない人間同士で人生の生き方を模索していても、盲人が盲人を案内している様なもので、人間の能力では決して幸福という出口は見い出す事は出来ないのである。よって人は人生の出口という幸福(成功)を得るためには、遥か上空の天(霊の世界)に存在しておられる神に導きを求めなければならないのである。 “高田義裕の人生論” の続きを読む

高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバからの直接の自治権から離れての人間の自治によるあらゆる試みに対して、たとえそれがどんなに素晴らしく、未来永劫続く様な期待を人類に抱かせていても、それは予想以上に脆く壊れ、かつ予想外にマンネリズム化し、いずれは廃れていくものなのである。

2.良い事柄がそれだけで良いというのでは無く、良い事柄が実際に良い様に作用する事によって初めてそれは良いと言えるのである。例えば親切を示したいと人が思っていても、実際にそれを実行しないのであれば、親切をしたいという思いは嘘であり、偽善という事になってしまうのであり、それは親切をしたいと思っていない人よりも悪くなるのである。

3.神とは法則的、規則的に存在するのでは決して無く、人格的に存在して初めて神と呼ばれるにふさわしいものとなるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)      弱者が勝利する事もある。

ある人がいた。彼はリュウマチを患っており、腰も腰痛だった。また可哀想な事に仕事の過労が原因で鬱病にもなり、幾つもの医者にかかっていた。そこである日、1人の裕福で贅沢に暮らしている男が高級車に乗って運転していたのだが、毎日が自分の思い通りに順調に事が進んでいて彼は非常に機嫌が良かった。そこでつい調子に乗って脇見運転をしたその瞬間、男は人をはねてしまった。男はしまった、と思ったが、自分は金持ちだし、大した損害にもならないだろうとたかをくくった。ところが、その男の車ではねた人はリュウマチを患っており、腰も腰痛であり、鬱病でもあった。それでその事故に遭ったせいで、余計にリュウマチも腰痛も悪くなった。さらに車にはねられた故にその恐怖が心に染み付き、鬱病も悪化し、車恐怖症という心性外圧ストレス症候群、いわゆるPTSDになりパニック症候群になった。それらのすべてが事故による損害として加算され、診断書は何枚分にもなった。それでその裕福な男は、その人を死ぬまで一生面倒を見なければならない羽目になった。彼はあまりにも多い疾患のための治療費に莫大なお金を払わなければならず、そのうち貧困に陥った。また自分の不注意の事故のせいで自身の世間的評価は失われ、結果的に惨めな人生で終わった。一方、車にはねられた幾つもの疾患を持つ人は一生働かなくても生きていける社会的保証を得て、次第に病も治っていき、何不自由なく暮らした。

高田義裕の人生論

今日の格言

同じ自己否定でも2種類ある。1つは利他的愛で自分を自己否定し、相手のために自分を捨てて他の人の為に自分を犠牲にすることである。2つ目は利己的愛で自分を否定し、自殺してしまう事である。この2つの決定的な違いは、利他的愛での自己否定は自らが望んですることであり、そこには自分に対する自己肯定感が得られる。しかし利己的愛での自己否定は本来自分が望んでいない事柄であり、そこには常に自分に対して自己肯定感を持てない。この利己的愛での自己否定を持っていて、自分に対して自己肯定感が無い人に言える事は、その自信のない、コンプレックスの塊の様な自分をひとまず置いといて、自分よりも恵まれていない苦しい立場の人達に目を向け、まずその人達に利他的愛で自己否定し、相手のために自分を捨て、他の人の為に力になって挙げる事だ。そうすれば、こんな自分でも他の人の役に立つんだ、という事に気付かされ、そこから自己肯定感を得られるからである。すなわち、何かの事で気持ちが落ち込めば落ち込むほど、人から慰めて貰いたいと思うのでは無く、むしろ自分よりも苦しい目に遭って落ち込んでいる人に自分を差し出すのである。そうすれば相手からあなたは感謝され、あなたは以前よりも自分の存在意義を自らの意志でつかんだ事になる。これを少しずつ継続し続ける事によって、徐々にではあるが、自分に自信を持てる様になるのである。