高田義裕の人生論

今日の格言

我々の生きているこの現実世界は幾何学的に例えれば、2次元の世界である。すなわち、我々は平面上でしか存在していない。これは例えれば、テレビのブラウン管の画面上で映し出される映像の中でしか動いていない事と同じである。すなわち分かりやすく言えば、我々のこの現実世界は、非常に入り組んでいて複雑な迷路の様なものであるという事である。当然我々は平面上でしか存在していないから、その迷路の入り口や出口を知ることは出来ない。すなわち手探りで迷路の出口を探って行くしかない。しかし、神や天使の存在している世界とは幾何学的に例えれば、3次元の世界である。すなわち立体的で高さの存在する世界である。すなわち、神や天使から見れば、我々のこの現実世界という迷路を人工衛星で遥か上空から眺められる様なものという事になる。すなわち、この巨大な迷路の全体像を把握でき、天という上から見ているので、その迷路の入り口と出口を簡単に知る事が出来る。だからあなたがこの人生という迷路の中で今、どの場所に位置していて、今どの方向に向かって動いているのかを神は見る事が出来るし、その先が行き止まりなのか、まだ出口に通じる道を歩いているのかという事が瞬時に理解出来る。すなわち、あなたの将来の事を予見出来るのである。であるから、同じ平面上でしか動けない人間同士で人生の生き方を模索していても、盲人が盲人を案内している様なもので、人間の能力では決して幸福という出口は見い出す事は出来ないのである。よって人は人生の出口という幸福(成功)を得るためには、遥か上空の天(霊の世界)に存在しておられる神に導きを求めなければならないのである。 “高田義裕の人生論” の続きを読む

高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバからの直接の自治権から離れての人間の自治によるあらゆる試みに対して、たとえそれがどんなに素晴らしく、未来永劫続く様な期待を人類に抱かせていても、それは予想以上に脆く壊れ、かつ予想外にマンネリズム化し、いずれは廃れていくものなのである。

2.良い事柄がそれだけで良いというのでは無く、良い事柄が実際に良い様に作用する事によって初めてそれは良いと言えるのである。例えば親切を示したいと人が思っていても、実際にそれを実行しないのであれば、親切をしたいという思いは嘘であり、偽善という事になってしまうのであり、それは親切をしたいと思っていない人よりも悪くなるのである。

3.神とは法則的、規則的に存在するのでは決して無く、人格的に存在して初めて神と呼ばれるにふさわしいものとなるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)      弱者が勝利する事もある。

ある人がいた。彼はリュウマチを患っており、腰も腰痛だった。また可哀想な事に仕事の過労が原因で鬱病にもなり、幾つもの医者にかかっていた。そこである日、1人の裕福で贅沢に暮らしている男が高級車に乗って運転していたのだが、毎日が自分の思い通りに順調に事が進んでいて彼は非常に機嫌が良かった。そこでつい調子に乗って脇見運転をしたその瞬間、男は人をはねてしまった。男はしまった、と思ったが、自分は金持ちだし、大した損害にもならないだろうとたかをくくった。ところが、その男の車ではねた人はリュウマチを患っており、腰も腰痛であり、鬱病でもあった。それでその事故に遭ったせいで、余計にリュウマチも腰痛も悪くなった。さらに車にはねられた故にその恐怖が心に染み付き、鬱病も悪化し、車恐怖症という心性外圧ストレス症候群、いわゆるPTSDになりパニック症候群になった。それらのすべてが事故による損害として加算され、診断書は何枚分にもなった。それでその裕福な男は、その人を死ぬまで一生面倒を見なければならない羽目になった。彼はあまりにも多い疾患のための治療費に莫大なお金を払わなければならず、そのうち貧困に陥った。また自分の不注意の事故のせいで自身の世間的評価は失われ、結果的に惨めな人生で終わった。一方、車にはねられた幾つもの疾患を持つ人は一生働かなくても生きていける社会的保証を得て、次第に病も治っていき、何不自由なく暮らした。

高田義裕の人生論

今日の格言

同じ自己否定でも2種類ある。1つは利他的愛で自分を自己否定し、相手のために自分を捨てて他の人の為に自分を犠牲にすることである。2つ目は利己的愛で自分を否定し、自殺してしまう事である。この2つの決定的な違いは、利他的愛での自己否定は自らが望んですることであり、そこには自分に対する自己肯定感が得られる。しかし利己的愛での自己否定は本来自分が望んでいない事柄であり、そこには常に自分に対して自己肯定感を持てない。この利己的愛での自己否定を持っていて、自分に対して自己肯定感が無い人に言える事は、その自信のない、コンプレックスの塊の様な自分をひとまず置いといて、自分よりも恵まれていない苦しい立場の人達に目を向け、まずその人達に利他的愛で自己否定し、相手のために自分を捨て、他の人の為に力になって挙げる事だ。そうすれば、こんな自分でも他の人の役に立つんだ、という事に気付かされ、そこから自己肯定感を得られるからである。すなわち、何かの事で気持ちが落ち込めば落ち込むほど、人から慰めて貰いたいと思うのでは無く、むしろ自分よりも苦しい目に遭って落ち込んでいる人に自分を差し出すのである。そうすれば相手からあなたは感謝され、あなたは以前よりも自分の存在意義を自らの意志でつかんだ事になる。これを少しずつ継続し続ける事によって、徐々にではあるが、自分に自信を持てる様になるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

絶望という状態に関してさえ、その時にこそ神エホバがおられるという益がより満ち満ちるものなのであり、それは死という、もはやどうしようもない絶望さえも捉えておく事の出来ない、神エホバという奇蹟の存在がおられるのである。神エホバこそ苦難の時に生まれた友人なのである。

2.大部分の人々は、自分達の都合の良い時にだけ真実を語ったり行ったりする。すなわち、ほとんどの人間は自分にとって差し障りが無く、自分にとって損失がほとんど無い事を見計らって、その時だけにのみ、神エホバから出る真実を語ったり行ったりするが、残念ながらそれはほとんど自分達の益にはならないのである。本当に真実を愛する者、すなわち神エホバを愛する者は、たとえ自分に不利な場合でも、たとえ自分に損失を伴う場合でも、常に真実を語り、真実を行う者なのである。まさに聖書にこう書かれてある。出エジプト記34章14節にこうある。[あなた方はほかの神にひれ伏してはならない。エホバは全くの専心を要求することで知られている。私は全くの専心を要求する神なのである。]と。

高田義裕の人生論

今日の格言

あなたは資産として土地を所有しているであろうか。そこで誰でも困る事は、土地の管理である。地面からは雑草が常に生えてくる。土地の所有者は雑草を刈っても刈っても生えてくる事を知っているであろう。すなわち、何もしないで放って置くと、知らない間に雑草が伸び放題になって手が付けられなくなるものである。よって土地の所有者は常に地面を日頃から手入れしておかなければならない。これと同様に、我々の心の中も常に手入れが必要である。日頃から自分の心を手入れせず、何もしないで置くと、知らない間に心の中にも雑草が生えてきて、それをそのまま放置して置くと、しまいには心の雑草という傲慢さが伸び放題になって心が荒れてしまい、取り返しのつかない事になる。すなわち、我々は自分の心の状態を毎日点検し、常に毎日生えてくる心の雑草を刈り取らなけばならないのである。そう、人間は常に傲慢になる習性を持っているのである。男性なら、顎のひげを毎日剃らなければならない様に、人は何もしないでいると、自分でも意識しない間に心が傲慢になって汚れていくのである。よって人は自身の心の清さを保つためには常に意識的な努力が必要不可欠なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人が人を死に至らしめる場合、それは殺人であるが、人を創造した神が人を死に至らしめる場合、それは人にとって滅びを意味するのであり、それ自体は公正で義に適った裁きなのである。

2.   (題名)      マンネリズムの構造

マンネリズムとは、あるAという目的の為にBという手段を取る事にしていたにもかかわらず、それを継続し続ける事によって、例えば、ABABABABABABABABABAB....と無限ループに陥る事に依り、AとBの順番が逆転し、BABABABABABABABA....となって、Bという手段の為にAという目的が手段化されてしまうことである。例えば、人は生活の為にお金を稼ぐという、(人の生活の為)=Aという目的の為に、(お金を稼ぐ)=Bという手段が後に続いたにもかかわらず、それを継続していくうちに、順番が入れ替わり、(お金を稼ぐ)=Bの為に(人の生活の為)=Aを犠牲にするという、人の為にお金があったのに、お金の為に人があるなどという全くの不合理で不条理な事柄に変化してしまう事を言うのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

主人が主人的な態度を取ったからといって、それは自然で当たり前の事であり、そこに傲慢さの入る余地は無いのである。ただ主人で無い者が、さも主人であるかの様な態度を取る場合にのみ、そこには傲慢さの弊害が生じてくるのである。よってこの場合、主人とはエホバ神の事であり、神が神の様な態度を取ったからといって、そこには全く傲慢さのかけらも無い。しかし単なる人が神の様な態度を取ったとしたら、そこには傲慢さの弊害が生じてくるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

最悪とは、すなわち全人類の大半を占めている。すなわち即効性の急性悪の事では無く、むしろ徐々に効いてくる慢性悪の事である。例えば、食料品においては何日経っても腐らない防腐剤が含まれているし、飲料水においては着色料が使われているし、医薬品では、副作用があるものばかりであるし、自動車の排気ガスも少しずつ地球環境を汚染させるし、マスコミュニケーションにおいては現体制の本当の事情を一般大衆には知らせず、毎日少しずつ現在の保守的体制をむしろ支持させるように仕向けている。すなわち、1日単位で計れば、毒性がほとんど表面化しないし、数値的にも問題無いレベルであるが、それを来る日も来る日も毎日摂取させる事によって、10年単位で計るとその僅かな毒性が積もり積もって癌や脳梗塞や心臓発作を引き起こす原因となっているのである。すなわち、我々は企業の利益の為にゆっくりとした自殺を強いられているのである。これはもし人類に全く健康な食料品や医薬品や製品を企業が本気になって開発したなら、その開発費用は莫大なものとなり、企業は利益は出ず、食べていけなくなるのである。要するに毒性を薄めるだけ薄めて、まるで無害な様に見せかけ、数十年経ってからその弊害が出る様にしているのである。それは自分達の製造した製品が原因で病気になる事を責任回避するための常套手段だからである。すぐに悪影響が出なければ、企業側に責任がある事は法律上認める事が出来ないからである。すなわち原因の所在を曖昧なものにして企業は生き延びているのである。よって、我々一般大衆が、本当に改革の声を挙げるべきなのは、すぐ効果の分かる即効性のある急性悪、すなわち窃盗やテロリストや殺人や麻薬や暴力などでは無く、日常の生活に当たり前の様に入り込んでいる、普段我々が意識しない巨悪という慢性悪なのである。すなわち、現在の支配体制、社会構造体制にこそメスを入れなければならないのであり、この今の既得権体制を崩壊させない限り、その体制の犠牲者である窃盗やテロリストや殺人や麻薬や暴力という小悪は無くならないのである。