高田義裕の人生論

今日の箴言

豊かさの病理(代償)

精神的に富むためには、物質的に貧しくなる必要がある。また、物質的に富むためには精神的に貧しくならなければならなくなる。すなわち、精神的富と、物質的富とは互いに反発し合っており、反比例の関係にある。よって、人は決して精神的富と物質的富とを同時に手に入れる事は出来無い。人は物質的に富み、食うのに困らなければならないほど、精神を病み、自閉症、引きこもり、対人恐怖、パニック障害、鬱病などの症状が顕著に出てくる。これらはすべて、物質的豊かさが生んだ豊かさの病理(代償)である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

大金持ちは毎日の金持ち暮らしに飽きてきて嫌気がさしていた。もう金を見るのも嫌で、彼は思い切って、莫大な全財産を福祉団体に寄付した。その総額はなんと1000兆円であった。そして彼は月収が6万円の施設の清掃の仕事に就くことにした。毎日の生活は以前と比べてギリギリとなり、暮らしのレベルも一気に下がった。しかし彼はそれまで苦もなく買えた品物が全く手に届かなくなった事により、初めてその品物の価値の高さを認識する事が出来た。まず品物を大事に使うことを学んだ。そして何よりの楽しみは、100円の缶コーヒーを1日1杯飲むことであった。給料は僅かではあったが、数千円を貯金する喜びも生まれた。また、無駄な物を買うことを止める必要性も自覚出来たし、最低限の生活必需品で満足する喜びも知った。何よりも月6万円しか収入がないから、大金持ちだった頃の何も考えずにお金を湯水の様に使っていた頃と違い、どうやりくりすればひと月生活出来るかを考えなければならない事が、脳を刺激して頭のトレーニングになり、それを達成した時の満足感を味わう事が出来た。彼はひどい思いをしてお金を稼ぐ必要も無くなり、時間に余裕が出て、たっぷりのんびりと自分のプライベートな趣味や楽しみを自分のペースで楽しむ事が出来た。こうして彼は高価な品物は全く買えなくなったが、その代わり、金持ちの時には決して味わえなかった真の幸福感を得た。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は何かを得たと思うと、それを守ろうとして保守的になり、無活動になる。例えば、人が大金を手に入れたなら、その大金を失わないようにそれを守ろうとするし、人が幸せを得たなら、その幸福を守ろうと必死になる。すなわち、その得た状態を失いたくない故に、その立場なり、身分なり、権利なりにしがみついて離さない。すなわち、現体制の保守派となるのである。今の現代の社会情勢を見てみるがよい。すべての人間が今自分が得ている利権なり立場なりを固守して離さない。それ故に社会はイノベーション力を失い、新しい価値観を生み出すダイナミズムという変化を好まない、無活動で無気力な社会になって行くのである。その結果が今私達が経験している貧富の差の拡大、あらゆる弊害、不平等、不正、非民主的、暗黒政治、差別などの問題を助長し、保守派が大多数の社会はいずれ自己崩壊するのである。人間にとって本当に幸福である事とは、常に常識を疑い、既成観念を打破し、常識を覆すほどの向上心を持ち、常に新しいものを求めて、あえて危険を顧みず、まだ未知の世界へと挑戦してゆくアドベンチャー精神にこそあるのである。そこにはマンネリ化した安定感を望む怠惰な精神のかけらも無い。そこには常に現状に満足せず、常に飢えたオオカミのように、良い意味で貪欲なチャレンジ精神が宿っていなければならないのである。そうである、人間の人生とは、同じ場所に定住する市民では無く、荒野を旅する旅人の様でなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

悪の定義

ただ単に悪を行う事が悪なのでは決して無く、もはや私達は努力した分ほどに報いが返って来ない状態を悪と呼ぼう。それが真の悪である。なぜなら、人は働いても働いても一向に楽にならず、どれだけ努力しても報われない自分の状況に気付いた時、その人は絶望感に満たされ、それにより自暴自棄になり、犯罪を犯すようになるからである。

2.内容の素晴らしさや悪さに関係無く、縛られるものであるならば、それらをすべて悪と呼ぶ事にしよう。なぜなら、あなたが義のゆえに不自由な思いをしているなら、その義こそ、あなたにとって悪なのであり、義とはそれが素晴らしければ素晴らしいほど、その状態を保たなければならない必要に迫られ、人を縛り、がんじがらめにする。当然人は精神的に縛られると次第に精神を病み、その素晴らしさを守るために極度の圧迫を受け、遂には精神に異常をきたし、それから逃げるためにやはり犯罪に手を染める事になるからである。すなわち、義の追求こそ悪なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今の現代、女性が独り身で名を挙げようとする能力ある女性のビジネスの進出が盛んだが、結局、女性の幸福とは、昔から変わる事の無い、自分にとっての良き夫を見つける事に尽きるのでは無いだろうか。私にはこの現代において良き夫という男性があまりにも理想的過ぎて、非現実である故に、昔からある、待っていればいつか必ず白馬の王子様が私を迎えに来るという女性の淡い願望、すなわち、シンデレラコンプレックスという幻想に女性自身がそれを叶えられない事に気付いてその幻滅の故にウーマンパワーの方向に向かい出した様に思えてならないのである。

2.映画とは、あくまで女優や俳優が主役なのでは決して無く、その作品を作る監督が主役なのである。よってその映画作品によって俳優や女優に人気が出て、有名になった場合、それはその役者の力に依ったのでは無く、あくまでも、その映画作品を作った監督の才能が良かったからなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)      人を救う事の難しさ(2)

ある重度の精神的疾患にある人はあまりの凶暴さゆえに、精神病院の中の檻で鎖につながれていた。しかし、その病人の家族や友人達は諦めず、常に彼に対して彼に寄り添い、彼を精神的に支え、彼に対するケアを続けた。幾度も幾度も失敗し、病状が良くなったと思ったら、途端に元の悪い状態に戻ったりの繰り返しで、絶望感を感じる事も何度も経験した。しかし、1人が倒れそうになると、別のもう1人がその人を支え、こうしてチームワークで互いに助け合いながら、皆気持ちを1つにしてその病人に対し、全力で治療を続けた。その甲斐あって、少しずつではあるが、彼の強暴性は次第に収まり、遂には実際の現実社会に出て、仕事を見つけ自立出来るまでになった。家族や友人達は皆、奇蹟が起きたと涙を流して互いに抱き合って喜んだ。気付いて見ると、そうなるまでに20年の月日が経っていたのであった。どうであろう。たった1人の人を救うのに家族や友人、医師、看護師、地域の人達を含めて何十人の人がそれに携わってようやく1人の人を救う事が出来たのである。この全世界には精神的肉体的な病気で苦しみ、その結果、心を病んでいる人が大勢いる。人類の人間の数をざっと見積もって70億人いるとしよう。この70億人の中で自分はなんの問題も悩みも無く、精神的肉体的に全く健康であると言える人は1人としていない。皆何らかの事が原因で問題と悩みを抱えている。それではその全人類を救うためにどれほどの時間を要するであろうか。単純に先ほどの例を基にして計算してみると、70億人×20年=140000000000年(1千400億年)もかかるのである。これは宇宙誕生から今までの年数よりも遥かに長い途方も無い数字である。また1人の人を救うのに少なく見積もって100人の人々の協力が必要であると仮定して、これも単純に計算してみると、70億人×100人=700000000000人(7千億人)もの人数が必要となるのである。この数は人類誕生から現在までの生まれてきた人すべての数よりも遥かに多いのである。これほど人の苦しみを癒すためには、途方も無い人数と時間とエネルギーとすべての人々の協力しようとする強い心の一致が必要不可欠なのである。果たして現時点で全人類が心を1つにして1つの目標に向かって全力で一致する事が出来るであろうか。いや、残念ながら全人類は一致するどころか全く分裂しており、争いや紛争は絶えず、そんな事は全く不可能で絶望的である。これにより人を救う事がいかに難しい事かが理解出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)       人を救う事の難しさ

人を救う事は難しい。最近では、孤独死という言葉が日本では定着しつつある。誰にも自分の存在すら知られずに、貧困の末、アパートの一室で腐乱死体で発見される。遺体の後始末も誰も引き取り手が無く、アパートの所有者とその死人の親族の間で言い争いになる事はしょっ中である。なぜ彼らは社会的に最低限の生活を保護する国の機関や福祉の受け皿があるのにそれを利用しないのか。それはひとえにプライドである。いい歳になって、自分はそれまでの人生を自分なりに必死に生きて来たというプライドが社会福祉に頼るのを拒むのである。すなわち、心が素直で謙遜でなければ、見ず知らずの他人に、助けてください、というその一言が言えないのである。彼らは助けを必要としていることを十分認識しておきながらも、頭を下げて助けてくださいという事を恥だと思っている。そんな自分がみっともない恥を掻くくらいなら、死んだ方がマシだと思うのである。すなわち人の善意を素直に受け入れられる心の状態になっていないのである。これこそ問題であり、本当に助けを必要としている本人自身が助けを拒んでいるという自己矛盾の問題があるのである。よって、人を助けたいと思っても、本人が助けて欲しいにもかかわらず、あくまでも自分の自尊心が邪魔をして、助けに来てくれた人に悪態をついたり、逆に暴力まで振るってしまうのである。当然助ける側も人間だから、そんな事をされては助けてやろうとする気持ちも冷めてしまう。ここが人を救う事の難しさなのである。もし、その様なプライドがある人達が奇蹟的に相手の言う事を素直に聞いて、援助を受け入れたとしても、そこからがまた大変である。彼らの孤立した理由は悲惨なものであり、人間としての扱いを受けず、奴隷の様に扱われて来たから、物凄い鬱憤とストレスと不満を体中に溜め込んでいる。当然その人は援助する側の人に今まで溜まり溜まった不満を暴言や暴力という形で吐き出す。暴言や暴力を受ける側の忍耐もそこで尽き果て、しまいには見捨てざるを得無くなるのである。まさに助ける側も命懸けであり、まるで完璧で神の様な忍耐強さを求められてしまい、助ける側も心身を病んでしまうのである。よって人が行える援助も物質的な面では事足りても、精神的な面ではどうしても無理があるのである。よって、私達罪深い人間は、助ける側であろうと、助けられる側であろうと、唯一真の神であるエホバに依り頼み、その方の前で常日頃から謙遜で素直な心を培う訓練をし、いざという困った時には、恥を物ともせず、率直に助けて下さい、と正直に他の人に言える様な精神状態を保っておかなければならないのである。それは誰のためでも無い、自分のためなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近は、巷では浮気をしたり、浮気や不倫が原因で離婚する事が全世界規模で増えているが、1人の女性も生涯に渡って愛しきれない者が、どうして複数の女性を愛しきれるだろうか。1人の女性も生涯の最後まで愛しきれない者は、1人の女性すら愛する資格は無いのである。あくまでも、1人の女性を最後まで愛しきれる者が初めて、多くの女性を愛する事が出来るのである。これは自分自身を律する事が出来ない者が、ましてや他の人を律する事が出来ないのと同じである。こういう自分自身の世話さえ出来ない者ほど他の人の事を構おうとする精神的幼稚な現実があるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

新貨幣論

金とはそれだけでは単なる紙切れに過ぎない。では、その単なる紙切れを金としての価値を持たせるにはどうしたらよいか。まず、お金が無ければ生活出来ない社会システムを構築しなければならない。すなわち、直接的取り引きである物々交換を廃止させることである。そのために人間の消費意欲を高めるために数多くの魅力的な商品を作って人々に見せびらかすのである。そして、それを手に入れなければ幸福にはなれないという洗脳思想を大衆にマインドコントロールするのである。なぜなら、すべての人間が最低限の貧しい生活で満足してもらうと貨幣というシステムが維持出来ない。もっと豊かになりたいと大衆を扇動させ、もっと物が欲しいという欲望をかり立たせて、そのために大衆はもっとお金を稼がなければならないという意識を持ってもらわなければならないのである。その様にして大衆をさんざん働かせて膨大なお金の量を流動させなければ貨幣は金という価値を持てないからである。すなわち、貨幣社会とは人間の飽くなき所有欲望が原動力となって初めて機能するシステムだからである。次に何より大事なのは、お金を大衆には簡単に手に入れさせない様にする事である。なぜなら、お金が誰にでも簡単に手に入ってはこれもまた、金という価値は全く生まれないからである。すなわち、金に価値を与えるためには、働いても働いても一向に豊かになれない膨大な数の、奴隷とも言うべき貧困層の存在が必要不可欠であること。そのためにはごく一部の人間が全世界の資産の99%をまず独占する。そして残りの僅かな1%の資産を一般大衆に与えて奪い合いの競争をさせる事が大事である。すなわち、我々一般大衆が汗水垂らして酷い思いをしなければお金を得られない状況を作り出す事で金の価値は初めて維持されるのである。それは逆に言えば、大した労働をしなくても莫大なお金を手に入れている部類の階層の人々がいることをも証明している。例えば、全世界の人口が100人いるとする。そして全世界の総資産が1000兆円あるとしよう。まずたった一人の人が総資産1000兆円のうち999兆円を独占する。そして残りの1兆円のうち9999億円を僅か9人が何も労働せずに、ピンハネする。すなわち一人当たり1111億円を手に入れる。そして残りのたった1億円を残りの90人に奪い合いをさせるのである。この様に貧困層と富裕層という高低差が高ければ高いほど、まるで滝のように水というお金は強い勢いで流れ下るのである。すなわち、一般大衆社会は修羅場と化し、弱肉強食のむごい生き地獄となる。そうなれば当然、お金が全く手に入らない絶対的貧困層が発生する。それで、それらの人々を奴隷にしてタダ働き同然にこき使う事によってこの全世界の経済は成り立っているのである。要するに富裕層は貧困層の上にあぐらをかき、良くも悪くも一般大衆から搾取して富を得ているのである。これは大多数の人々からお金をかき集めて損をさせ、たった一人の当選者に配当金を与える宝くじのカラクリとよく似ている。しかし、貨幣とは信用無くしては金としての価値は持てない。信用とは人と人との間の確かな信頼関係の事を指す。しかし、今日、金の価値の根幹を支える信用そのものが大きく揺らいでおり、崩壊の危機にあることである。なぜなら、人と人との間の人間関係は希薄なものとなっており、かつて無く人間関係の信頼性は薄くなっている。家族関係は崩壊しており、離婚率は高く、学校や職場では、足の引っ張り合い、いじめが横行している。コミュニケーションの欠如により犯罪も多くなり、テロリストの台頭、職場のパワーハラスメント、男女間のセクシャルハラスメントも多発している。隣の家に誰が住んでいるかもろくに知らないし、信用できるものがお金しかなくなってきている。この信用できるものがお金しかないという状況が実は一番危ういのである。人々が実際の生の人間よりも、もともと紙切れでしか無いお金しか信用できなくなるという事は、一種のパラドックスであり、ジレンマなのである。すなわち、高度な経済社会になればなるほど、人間関係の信用性は失われ、実体の無いデジタルマネーだけがゴーストの様に人間を支配するのである。この状態はある日突然、ちょっとしたハプニングで貨幣社会という脆いガラスで出来た体制を崩壊させるには十分であり、その時人間社会は行き所を失い、音を立てて崩れ去るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

絶望社会

今、人類は滅亡の危機に瀕している。全世界規模での自然災害、雇用情勢の不安、治安の悪化などである。昨今人々の雇用情勢はますます悪化している。まず、学歴が高くても仕事が見つからない。たとえ見つかっても非正規雇用ばかりである。運良く正社員にはなれても、その仕事の内容は誰もしたがらない汚くて危険な仕事ばかりである。たかだか手取り30万円を得るために会社の社畜として奴隷の様に働かされる。責任の重いきつい仕事を任せられ、家に帰っても会社から電話がかかってくる。また、職場の人間関係も非常に希薄で、影で悪口を言われる陰湿なものとなっている。誰もがその場の空気を必死に読み、自分の言いたい事も言えず、人間関係で神経をすり減らし、上司からのパワーハラスメントでさんざん罵られ、次第に自信を失い、自尊心は奪われ、精神を病んでいく。そうして職場は、人の出入りの激しい人間の使い捨ての処理場となる。人々の暮らしはもはや生活と呼べるものでは無く、生存できるかというサバイバルゲームにまで追い詰められている。こうして精神病院は患者で溢れ、会社は慢性的な人手不足に陥っている。その穴埋めを、今いる少数の生き残った正社員がすべてこなさなければならなくなり、当然一人当たりのサービス残業は増え、残っている正社員の負担は大きくなり、彼らも次第に疲弊し、心身を病んで退職せざるを得なくなる。それでも先行きの不透明感から、この慢性的な不景気に脱却する事の出来ない企業は会社員の給料を上げる事はせず、会社の内部留保だけはじゃぶじゃぶに有り余っている。また国は国で深刻な財政赤字を抱えており、何かに付け増税ばかりする。しかし税金を払ってくれる肝心の国民の生活事情はますます苦しく、安い給料しか所得が無いため、消費は低迷し、社会は慢性的な不景気から脱する事が出来ない。これにより、国全体がますます萎縮し凋落していくのである。先進国では、少子高齢化が進み、国の支出の負担はますます増えるばかりである。これにより、ちょうどいいバランスの上に成り立っていた中流階級が消滅し、彼らは皆一気に貧困階級に転落する。これにより、すべては両極端な超富裕層と超貧困層に分離してしまう。人類の将来は映画のバイオバザードの様な危険な無法地帯か、がんじがらめにすべてを規制するケツの穴まで見られる様な超管理(監視)社会になるかのどちらかであろう。すなわち、貧困層も苦しむのは当然のこと、富裕層も国の相続税や所得税の増加により、その餌食となって苦しむ事になるのである。これが慢性化すると、いずれ負のピークが訪れ、世界は大混乱に陥り、人類は何もしなくても勝手に自滅して行くであろう。要するに人間の人間による人間のための自治は失敗に終わり、人が人を支配する能力が全く無いことが証明される事になるであろう。これにより、人間を完全に支配する能力をお持ちなのは、ただ1人、エホバ神である事が明らかにされるのである。よって、神は人類が自滅するまさに寸前に人類社会に介入され、この疲弊した終わり行く全世界をハルマゲドン(最後の審判)によって滅ぼされるのである。