高田義裕の人生論

今日の格言

新・イエスの山上の垂訓

さて、イエスを罠にかけようとして、ユダヤ人でパリサイ派の人達は姦淫していた女を連れて来てイエスのもとに置き、こう尋ねた。この女は罪深いのです。誰が裁くべきでしょうか。するとイエスは言われた。この女性をこれまで一番世話をして愛して育てた人がまず、この女性に石を投げなさい。すると人々は決まり悪そうに1人また1人と去っていき、最後にイエスとその女だけが残った。するとイエスは女に言った。娘よ、誰かあなたに石を投げる人はいますか。すると女は言った。主よ、誰もいません。するとイエスは言われた。あなたを一番愛し、世話しておられるのは天の父エホバです。私もあなたを裁きません。神はあなたを許しておられます。去って行きなさい。しかしもう罪を犯してはなりません。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神エホバの過分のご親切は、ただ人に対する純粋な憐れみのもとに私達人間に差し出されているのであって、その過分のご親切を当たり前のものと見なし、それに対して、ただあぐらをかこうとする者は、神エホバの純粋な憐れみを裏切っている事になるのである。

2.人間にとって、驕りと傲慢さは永遠の敵なのである。

3.常に一流の人達の述べる感想は、国境を越えるのでは無いだろうか。

4.私達人間を正す事が可能なのは、私達自身では無く、神エホバだけに可能な事なのである。

5.悪魔サタンはこの世の中で、神エホバの栄光が決して漏れない様に、考えられるあらゆる方法でそれを阻止する事にのみ、自分の力の全てを注いでいるのである。

6.私達人間にとって、神エホバは永遠に未知なのである。すなわち、私達人間は神エホバがお造りになったこの物質宇宙を永遠に渡って理解し尽くす事は決して出来ないのである。すなわち言い換えれば、私達人間は永遠に渡って神エホバの創造したものすべてを永遠に探究し続ける事が出来るのである。

7.隣人を愛するという事は、隣人のあらゆる権利とあらゆる所有物とを永遠に侵害しないという事でもあるのである。

8.あらゆる不幸の源は、神エホバに対する全くの故意による反逆から始まった事を常に留意しなければならない。

9.この世の中には、自己啓発と称して、利己的な上昇志向主義を奨励するような書物がどれだけ氾濫している事であろうか。人は常に利他的な謙遜さを推薦する聖書からのみ学ぶべきである。

10.たとえ、人が人に不意によって害を与えてしまう事があっても、それが起こる頻度の確率が高くなる事を見過ごしていれば、それは人が人に故意によって害を加える事に等しい事になること。すなわち、私達人間は常に、人に不意に害を与えかねないどんな小さな要素も見逃さないように注意深くあるべきこと。

11.私達が救われるかどうかは、私達の気まぐれな気持ちによって決まるのでは決して無く、ただ神エホバの意思いかんにかかっているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

私達人間の真の幸福とは、表向きの格好良さや華やかさ、また見栄や誇り、自慢から最も遠く離れている。すなわち逆に言えば、私達人間の不幸とは、表向きの格好良さや華やかさ、また見栄や誇り、自慢から一番近いところにあるのである。そしてこの世の中には、表向きの格好良さや華やかさ、また見栄や誇り、自慢を追い求めている者のいかに多い事か。彼らは自ら好んで不幸の入り口に入って行くのである。

2.この世の中に様々な不幸があれど、人が神エホバに反逆した事以上に不幸な事柄は無いのである。なぜなら、すべての不幸は、人が神エホバに反逆した事から起因しているからである。

3.毎年アフリカで、約1000万人の人間が死んでいるとすると、それは1日に約2万7397人死んでいる事になる。また、地球にいる人間の人口は、毎年9000万人以上増加しているとすれば、それは1日に約24万6575人増えている事になる。

高田義裕の人生論

今日の格言

リーダーとは、人と人との間の純粋な伝達係、また純粋な潤滑油としての機能を果たせる事に秀でた者の事を言う。要するにリーダーとは、相手の話をよく聞き、その人の気持ちに同化出来るほど相手に対する想像力が豊かな人間の事であり、相手の事を自分の主観で判断したり、偏見を持って相手を見ない、精神的に常にフェアーな人間でなければ務まらないのである。

2.人として物質的にどんなに富んでいても、真の仲間が1人もいないというのであれば、その人は本当に人間性が貧しい人なのである。しかし、人として物質的にどんなに貧しくとも、真の仲間が多くいる者は本当に人間性に富んだ者なのである。

3.人はそれ自体、決して自分から自分を律する事は不可能なのである。人間とはどんな時にも必ず、外部からの影響を受けて初めて自分を律する事の出来る存在なのである。

4.人に恩を与えても、それに対して恩義せがましいのであれば、それは人に恩を与えない方がまだマシである。

5.悪はそれ自体で独立して存在する事は出来ず、義の元に一時的に許容されていると言える。よって悪はそれ自体、平然とまかり通っているのでは決して無く、多大なる聖なる者達の忍耐と辛抱によって寄生して存在しているのである。悪とは例えれば借金を作っている様なものであり、その借金を払ってくれている義なる者達がいるからこそ、初めて借金が可能な事である事と似ている。

6.私達は隣人のいかなるものをも欲してはならない。あなたは美しい美女を見てその女と寝たいという欲望を抱く事があるか。あなたは人が一生懸命培ったものを奪い取ろうとしている者なのである。決して彼女の美しさを欲してはならない。彼女の美しさは彼女自身が懸命に努力して培ったものだからである。あなたが他の人の魅力的に見えるものを欲するならば、あなたは盗人である。ある人は春に種を蒔き、肥料をやり、毎日水を与え、夏までの長い間一生懸命育ててきてようやく柔らかい新芽が出た頃に突然現れてその新芽を食い尽くすイノシシの様だからである。

7.唯一真の神エホバを知る者はもはや決して戦いを学ばないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生の取り組み方に関して、私達は常に理想を掲げてそれに行いを肉付けしていくのでは決して無く、まず最初に、今ある自分の事実を受け止めてから、それに行いを肉付けしていかなければならないのである。なぜなら、あなたは今人生の走者として道を走っている。この時一番向こうの先を見つめて走るなら、あなたは目標が遠い事を知って、走る意欲を失い、辟易してしまうであろう。そう、遠い未来の理想像を思い描いても今の現実とのギャップに唖然とし、生きる力を失ってしまうのである。そうするよりも、人生の走者である私達は、すぐ目の前の近くに焦点を合わせながら走れば、自分が確かに少しずつではあるが、前に進んでいる事を実感出来るし、無理せず自分のペースで走る事ができ、精神的に無理な負担をかける事無く、走る意欲を保てるからである。これが人生という長距離走を走り続けるためのコツである。

高田義裕の人生論

今日の格言

邪悪さの定義

出来ない事柄であるからそれをしないのでは決して無く、出来る事柄であるのにあえてそれをしないこと、これこそ邪悪な心であると言う。例えば、我々人間は地球温暖化が我々人間の出す産業廃棄物が原因である事をはっきり分かっているのにあえてそれを改善しようとはしない。人間関係で明らかに自分の方が悪い事を分かっているのに、それを認めようとしない。これらはすべて確信犯であり、言い訳が出来ないことにおいて邪悪なのである。また、実現する意志も無いのに、それを実現すると人々に嘘をつくのも邪悪な心なのである。なぜこの様になるかと言うと、邪悪さの裏には不当な利得、不正な利潤の追求、利己的な貪欲な欲望を満たしたいというよこしまな心がその様に人間を邪悪にならせるのである。

2.人生の途中の道筋をどうしようかと悩んでいる者に対して言える事は、途中の道筋がどうのというよりも、最終的に最後には良くなればそれでいいのである。例えれば、人生とは山を登る登山の様なものであり、その登山の途上で頂上に着くことを断念する者は多いからである。よって人間の人生においてただ漠然と山を登っていては途中の悪路や急斜面に手こずって結局、途中で人生をドロップアウトしてしまうのであり、人は漠然と生きるのでは無く、常に頂上という具体的な目標を掲げて常に上を見続けて登るなら、途中の悪路や急斜面があってもそれを乗り越えられる気力を保つ事ができ、最後まで、すなわち、山の頂上まで辿り着く事が出来るからである。大事なのは人生において常に具体的な目標を持つ事なのである。

3.真の成功者は、成功したからといって有頂天になって我を忘れる事は無い。なぜなら彼にとって成功する事は自分の緻密な計算の予定の内に入っていたからである。すなわち成功とは自分が最初に立てた予定通りの事柄が達成された時にのみ、それは成功したと言える。言い換えれば、予想外の成功は本当の成功では無いのである。なぜならそれが何が原因で成功したのか分からないのであれば、いつなん時、何が原因でそれが失敗するかも分かっていないという事と同じであり、私達はただ盲目にそれを喜んでいるだけであるからである。私達が盲目であれば、いずれ予想外のところで道を踏み外し、2度と立ち上がれ無くなる危険性を放置している事になるからである。逆に言えば、自分の予想通りに失敗する事は自分の予想通りに成功する事と本質的に同じなのである。よって人は成功したければ、逆にどうしたら失敗するかを追求すれば良い。すなわち必ず失敗する事の逆の行為がそのまま必ず成功する方法だからである。すなわち必ず成功する方法をXとすると、必ず失敗する方法は-Xという事になる。この−Xを全体という1で引けば1-(-X)=Xとなるからである。これを未知数特定背理法と言う。

高田義裕の人生論

今日の格言

精神的に重荷になるものはすべて悪である。よって正しいからそれをしたいという動機が重荷になる場合、それは正しく無い。それは悪である。よってそれは正しいのだから行わなければならないという倫理そのものが悪なのである。すなわちエホバ神を愛しているからこそ、それを行うという純粋な愛が、正しい事を行う動機付けでなければならないのである。なぜなら愛は重荷にならないからである。その意味で愛は正しさよりも正しいと言える。よって愛こそが正しいのであり、正しさとはそれ自体で独立して存在しているものでは決して無く、神エホバを愛している故に私は正しいことを行うというものでなければならない点において、まず最初にエホバ神ありき、故に正しき事ありきなのである。よって人は神エホバを差し置いて自分の義を確立しようとしてもそれは全く無駄な事なのである。人はすべての事をまずエホバ神への愛を動機付けとして行わなければそれはすべて決して成功しないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

西暦2058年、人類は生身の人間との会話や話し合いを自分の力でできなくなっていた。全人類は極度の対人恐怖症を患っており、会話するときも人工知能に代替えさせて行っていた。口論や論争はすべて各々の人工知能がその真偽を取り扱っていた。同じく西暦2050年にはクローン人間製造法が成立し、誰でも自分のクローン人間を作る事が許された。人々は他の誰とも交友を持たず、何かをする時は自分のクローンと一緒に行った。なぜこのような事になってしまったのか。なぜなら最初は人類は生身の人間と会話や話し合いをしていたのだが、お互いがものすごく短気になっており、ちょっとした事だけでもめ事になり、それが原因で殺人事件が絶えなくなったのだ。よって人は会話する時は人工知能のロボットと会話する様になった。生身の人間と会話する事よりも人工知能と会話する方が自分の意見に決して反論しないため、生身の人間と会話するよりも心が癒されたのである。また人々はバーチャル世界でのみとしか他の人間と交友しなくなった。人々は一日中こん睡しており、脳内の仮想空間の中の自分に理想的なキャラクターを選択し、脳内のバーチャル世界で仕事をし、遊び、互いの選んだキャラクター同士で理想的な環境を疑似体験していた。そしてそれでも生身の人間同士で会話や話し合いをできる能力がある者は成功者と呼ばれ、それができる人は超富裕層として君臨し人々を支配していた。どうであろう。現在の私達の世の中も次第にこの様な状態になっていないだろうか。人々は人間関係を嫌い、スマホばかり見ているし、人間関係もギスギスしていてちょっとした事でもめ事になり、それによる殺人事件が増えていないだろうか。また自分がフラれて傷つく事を恐れて好きな異性に声をかける事も出来ない精神的にナイーブな若者たちが増えてきていないだろうか。昨今の若者たちは恋愛する事も分からず、結婚しなくなってきているし、結婚してもちょっとした相手の言動に腹を立てて離婚する人が多くなっているのではないだろうか。そう、現代人は皆、人間関係を面倒くさいもの、自分が傷つきたくないから嫌なものとして遠ざける様になっており、1人でいる事の方を好きになってきているのである。すなわち、人間自体が対人力、コミュニケーション力を急速に失ってきているのである。このまま行くと、前半で述べた異常な仮想空間社会が近いうちに誕生する事も否定出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

聖書の言うハルマゲドンとは、神エホバと全人類社会の体制とがお互いに対峙して双方の勢力として向き合う状態、すなわち時代的情勢の事なのである。この21世紀前半からこの様なハルマゲドン体制が既に移行している。よって、人間の社会の諸体制が1つの性質、1つの性格、1つの特徴としてはっきりと統一されていくのであり、この分裂した人類社会にあって、人類は唯一の神エホバに敵対する事において利害が一致するのである。すなわち、近い将来、人類は神ご自身と戦う事になるのである。まさに聖書にこう書かれている。[ それらは実は悪霊の霊感による表現であってしるしを行い、また人の住む全地の王たちのもとに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦争に彼らを集めるためである。見よ、わたしは盗人のように来る。目覚めていて自分の外衣を守り、裸で歩いて自分の恥を人に見られることがないようにする者は幸いである。そしてそれらは王たちをヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所(体制)に集めた。]  ヨハネの黙示録16章14.15.16節。

高田義裕の人生論

今日の格言

世の常として、健康な者は不健全さを愛し、病気の者は健康を愛する。また平和な者は争いを愛し、争いの中にある者は平和を愛する。また幸福な者は不幸を求め、不幸な者は幸福を求める。また富んだ者は貧しさを求め、貧しい者は富を追い求める。また優秀な者は愚かさを求め、愚かな者は優秀さを求める。また完璧な者は不完全さを求め、不完全な者は完璧さを求める。また賢い者は愚かさを求め、愚かな者は賢さを求める。また優しい者は粗暴さを求め、粗暴な者は優しさを求める。すなわちこのすべてに共通して言える事は、人間とは自分に無いものを求めるのである。